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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夢からさめた夢

悪役にも聖女にもなれる令嬢はひとり猫を抱く

作者: ほしのゆ

 

 公爵家の七つになる令嬢、イヴェットはある日、自邸の中庭にある池に落ちた。ずぶぬれで水中から引き揚げられた彼女はその晩に酷い高熱を出し、そして長い長い夢を見た。



 それはこんな夢だ。



 イヴェットは生まれたときから、この国の第二王子の婚約者である。いまの王家には王女はいない。だから公爵家唯一の娘であるイヴェットは、その年ごろでは国で一番身分が高い少女だった。

 地位だけではない。美貌で知られた母譲りの容姿は幼いながらに艶があり、この国では珍しい艶やかな黒髪と最高級の紫水晶のような瞳は、常に称賛のまとだった。周囲は幼い少女をほめたたえ、おもねり。彼女は増長した。

 それは生死の境をさまよう「事故」を経ても変わらず、否、むしろいっそう悪くなった。

 可憐な口元は常に驕慢さでゆがみ、無情な瞳は常に人を見下して嘲笑をたたえる。願うことは何でも叶えられて当然として、あらゆるものを与えられるうちに満足を忘れ、退屈し、やがて歪んだ遊びに耽るようになった。誰かの苦痛を悦び、悲鳴を愉しむようになったのだ。周囲の人間は彼女のための玩具となり奴隷となった。唯一、婚約者の王子や自身の家族の前では淑やかな令嬢としてふるまうが、それも薄っぺらい仮面でしかない。

 気分ひとつで子供じみた残虐さを発揮する彼女を、表立って非難する者はいない。いや、非難などできなかったのだろう。だが噂は静かに広がる。次第にイヴェットの名は、公爵家の毒姫として、恐怖と嫌悪とともに語られるようになった。


 しかし悍ましい栄華を誇った彼女にも、転機が訪れる。十四のとき、王都の学園へ入学したのだ。魔力を持つ貴族の子息子女が必ず通う由緒正しい学園で、同学年には婚約者である王子もいた。それに、王子の側近候補である宰相の息子、騎士団長の次男、異国の皇族の血縁者なども一緒だ。この国でも特に高い身分にある彼らは、イヴェットの幼なじみでもある。だから彼女は彼らに、自分の騎士としてそばに侍ることを許した。この国一番の姫に仕えるその恩恵を与える、と。

 ところがそこで初めて、彼女の思い通りにならない事態が起きた。彼らは彼女の恩恵を無視して、次第に好きにふるまうようになったのだ。彼女が苦言を呈すれば、まるで義務をこなすかのようにひとり、ふたりがついてきたが、多くの時間、彼らは彼女から離れていた。婚約者である王子さえも。

 しかも信じがたいことに、その間、彼らは男爵家の娘に夢中になっていたのだ。イヴェットには意味が分からなかった。美しく高貴な彼女がいるのに、なぜわざわざ道端の石ころのような存在を気に掛ける? そう問えば、彼らは最初呆れ、そして怒り、彼女からますます離れるようになった。まったくもって阿呆のようだ。頭の病だろうか。

 改善どころか悪化する事態に、しかたなく彼女は直接その娘に伝える。国でも有数の子息たちがお前のせいでおかしな病にかかっているようだ、早々に学園を去るようにと。あるいはこの事態を引き起こした原因として死んで詫びてもいい。どちらでもかまわないと言ったが、愚鈍な娘は青ざめて恐縮するばかり。数日たっても決められないようなので、彼女は公爵家の忠実な部下たちに命じて、解決を図った。

 それだけのことだった。


 目障りな娘が消えて、ようやく子息たちもまともになると、彼女もそんな不快な出来事は早々に忘れた。学生生活はそれなりに忙しい。

 学園では催しがひんぱんに行われる。季節ごとのパーティーやお茶会などだ。社交の練習として学生による真似事だが、なかなか工夫がこらされている。真似事とはいえ本物の姫が出席すれば箔もつくだろうと、彼女もときには参加してやった。特に学年最後に行われる卒業生の祝賀のための会は、重要な催しで、陛下も参加すると聞いたので、そのためにドレスもアクセサリーも新調した。小さな領なら年収に匹敵するほどの費用がかかったが、それはこの学園と催しに対して、彼女なりに誉れを与えたに過ぎない。

 至高の姫である彼女のパートナーは、婚約者である王子以外に考えられない。ところが当日時間になっても王子は現れない。臆したのだととっさに彼女は嗤ったが、恥をかかされたのもわかっていた。不快な怒りをたたえたまま、いつものように侍女たちで発散する時間もなく、たまたま居た兄を同伴者として会場に向かう。

 さらに不快で、意味の分からない事態が待ち受けているとも知らずに。


 会場には、別の娘を侍らせた王子がいた。婚約者である彼女を置き去りにしたことも、まるで気にせずに、その娘と笑いあいながら、会場の最も目立つ場所でダンスをしている。

 淡い桃色の髪をした娘だ。髪色と同色の清楚なドレスが、シャンデリアの光の下では、柔らかな白にも見える。飾りは少ないが、その光沢は異国産の最上級の絹だ。そんなものはかの国の皇族でなければ手に入らない。耳元には、金にブルーサファイアをあしらったイヤリング。胸元にも対となるペンダント。金髪碧眼の王子の色だ。そして王子と見つめあう娘の眼は、トパーズのよう。光を受けてきらきらと黄金色に輝いている。

 どこかで見た色だ。

 そういぶかしみながら、愚か者たちに罰を与えようと彼女が歩を進めると、不意に音楽が止まり、会場中がしんと静まり返った。なんだ、これは。


「……ふ、言葉もないか。毒姫も、死んだと思った娘が現れるとは、思いもよらなかっただろう」


 王子が娘を従えて、イヴェットの目の前に立ち、言い放つ。いつの間にかそこは会場の中心だ。彼女をそこまで誘導した兄は、なぜか、王子のそばへ移動している。それだけではない。側近候補たちも、王子のそばと、そして、彼女の背後に、まるで囲むように立っている。これはいったいどういう状況?

 彼女にはわからない。今までの境遇と、そのおごり高ぶった性格ゆえに、こんな事態は想像したこともないからだ。自分が窮地に立たされるなんて、そんなこと。

 だから不用意に、そしていつも通り心のままに、尋ねてしまう。その女は誰だと。

 一瞬凍り付いた周囲はその後、ざわめきだした。


「まさか覚えてもいないというのか?」「なんと恐ろしい女だ。本当に悍ましい」「どこまでも悪辣だな。人を人とも思わぬ毒姫」「わずか一年前に、自分が殺せと命じた娘のことも忘れてしまうとは」


 何を言っているのだろう。しかしようやくわかった、彼女はあの男爵家の娘らしい。学園を去るだけでも許してやったのに、わざわざ舞い戻ってくるとは。本当に愚かで卑しい娘だ。そのうえまた子息たちを毒したらしい。毒姫とは、むしろこの娘のほうではないの。

 そう、諸悪の根源を睨みつけると、また真っ青に顔色を変えて、おびえたように王子の背後に隠れる。

 その態度にイヴェットはあきれ果て、ますます激しい怒りを覚えた。わかっていて、出てきたのではないのだろうか。本当になんて愚劣で下賤なんだろう。いら立つのは、今すぐ娘を罰する手段がないことだ。この手にそれこそ毒杯があれば今すぐに飲めと命じただろう。小刀のひとつでもあれば、よかった。忌々しいことに、扇しかなかったので、仕方なくそれに魔力をのせて、娘の顔めがけて放つ。見開かれたトパーズの瞳は、やはりどこかで見た覚えがする。

 しかしすぐに王子の背中に隠された。かき抱くようにして、かばったのだ。扇は、王子の防御壁に軽い音ではじかれる。さらに信じられないことに、即座に騎士団長の次男がイヴェットを、高貴な姫であり傅き守るべき対象である彼女の腕を抑え、地に倒した。


 衝撃に悲鳴をあげる。なんという無礼、なんという不忠。この無礼者の首をいますぐ切れと叫ぶイヴェットにはわからない。彼女の云っていることもやったことも、彼女にとってはすべて道理だ。なのに、その道理がなぜ、彼らやほかの生徒たち、学園できちんと教育を受けている貴族の子息子女に理解されないのか。わからない。ましてや、それが教師や護衛の騎士たちや、陛下にも理解されないなんて、わからない。

 そのうえ、暴力的な男の手で魔力封じをつけられ、地べたに囚人のように押しつけられ続け、涙まじりの非難と高らかな嘲笑いにさらされる、意味がわからない。実兄の口から己の行いが次々と悪行として語られ、こんな女は公爵家の娘ではないと侮辱される、理由がわからない。宰相の息子から彼女の当然の装いが浪費と贅沢となじられ、この身からあらゆる装飾がはぎとられる、その理屈がわからない。しまいに、あの娘が国の危機を救い、異国の皇族まで助け、魔界との融和にまで貢献した「聖女」だと聞かされ。そんな「聖女」を害そうとした罪だと、本当の罪人として牢におしこめられ、長い屈辱の果てに民衆の前に引きだされ、最期には浄化の炎で焼かれる——そんなことがわが身に起きる、定めが、わからない。

 それでも最後には、彼女はひとつ理解する。理解しないわけにはいかない。自分が、希代の悪女として断罪されているのだと。炎とともに浴びせられる憎しみと痛みのなかで、彼女は必死に罪の許しを乞う。正しく謝る言葉を、毒姫は知らない。だから、子供のように、ただ、ひたすら、ごめんなさい、ごめんなさい、と。



 そんな夢を見た。



 ごめんなさい、ごめんなさい、とうわごとを繰り返す公爵家の姫に、周囲は驚いていた。生まれたときから甘やかされ、わがままに育った姫は、謝罪の言葉など知らないと思っていたからだ。だが、熱にさいなまれる彼女は心底おびえ、そして心から己の行いを悔いているようだった。ああ、彼女はまだ七歳の少女なのだと、周囲はかすかな自省とともに考え直した。過ちをおかしても、きっとまだ正しい道に戻れる。見守ってやらなければならないと。


 やがてイヴェットが高熱から目を覚ますと、傍の侍女はほっと安堵した。汗ばむ額を冷たい布でふきながら、やさしく語り掛ける。


「イヴェットさま、もう大丈夫ですよ、峠は越えたとお医者様もおっしゃられてましたから」


 熱にうるんだ紫水晶の瞳がぼんやりと、侍女を見る。


「たすけてくれたの……?」


 昔から仕えていた侍女だが、イヴェットには名前がわからないらしい。「だれ?」という力ない問いかけに、侍女は穏やかに名のる。歪みかけていた主従関係を、もしかしたらもう一度ゼロからやり直せるかもしれない。そんな期待を込めて。

 その期待は、たしかにその通りになった。


 高熱を経た幼い少女は、事故の前後の記憶があやふやになっていた。同時に、それまでのわがままも忘れたようだったので、周囲も、無理に思い出させることはしなかった。いっそ、何もかも忘れさせるのがよいと思ったのだ。


 イヴェットはおとなしく、そして、勤勉になった。マナーをきちんと習い、貴族の義務というものを学んだ。身分の低い者も気づかい、身近な家族へも、甘えるのではなく心からの親愛と敬意をはらう。薄っぺらな仮面ではない、芯から完璧な淑女としてふるまっていた。

 態度だけではない。修練不足が指摘されていた魔力もきちんと努力して高め、行使できる魔法も次々に増やした。様々な本を読み、語学をたしなみ、領内のみならず国内外の知識も身につけた。家庭教師たちは心の底からその優等生ぶりをたたえたが、同時に、何故そこまでの実力と知識を性急に身につけようとするのか、不思議に思っていた。体力の限界まで自らに努力を課し、それでもまだ足りないというほどに積み上げる姿は鬼気迫るものがあった。


 もうひとつ、周囲がいぶかしんだ変化は、イヴェットが婚約者や幼なじみとは距離を置くようになったことだ。彼女は理由は言わなかったが、時々彼らに会うと顔色を悪くした。ところが距離を置こうとするとかえって気になるのか、婚約者である王子は、さらに頻繁に屋敷を訪れるようになった。立場上、否とはいえないイヴェットは、今までのように遊ぶのではなく、一緒に授業を受けたり、ダンスを練習することを提案する。王子は戸惑っていたが、大人たちにはいっそう好意的に受け入れられた。

 そんな恒例となったある日の授業の後のこと。


「私は、どうも攻撃魔法が不得手のようだ」


 王子はどこか苦々し気につぶやいた。実際その日の授業ではイヴェットの展開する魔法と王子の魔法では、彼女のほうが威力が上だった。


「もっと修練して、父上や兄上のように男らしく敵を討ち果たせるようにならないと」


 まだ幼さの残る少年は、両手を固く握りしめる。それは周囲の大人にいつも言われてきた言葉だ。見かねたイヴェットはそっと彼のこぶしに手を重ねた。


「殿下にはきっと防御魔法の才がございますわ。そちらをお伸ばしになったら、良いのではないですか」


 事実、先の授業でイヴェットの魔法を、王子はちゃんと防いでいた。天才と呼ばれ始め、年齢不相応な威力を持つイヴェットの攻撃魔法をだ。しかし、王子は「防御なんて」と顔をしかめる。男として彼女に劣るのは、矜持が許さないのだろうか。イヴェットはわずかに顔色を悪くしながらも、そんな王子の手を持ち上げて胸元に抱き込み、一生懸命に訴えた。


「殿下のその魔法は、愛する者を守るための力です。素晴らしいものですわ」


 そう言って微笑む少女に、王子は一瞬惚け。やがて、ブルーサファイヤの瞳を輝かせた。


「そうか、そう思うか、イヴェット」

「ええ、殿下」


 笑顔を交わす少年少女を周囲も微笑ましく見守っていた。


 やがて年齢があがり、男女二人きりでの勉強会がふさわしくないとされると、かつての幼なじみで側近候補たちも参加するようになった。すると父親の跡を継ぐことにプレッシャーを感じていた宰相の息子も、イヴェットの励ましと示唆をきっかけに、義務ではなく自身の知識欲を満たすために、勉学に取り組むようになった。体を鍛えるばかりで勉強がおろそかになりがちな騎士団長の次男も、置いてけぼりにならないようイヴェットが予復習をみてやると、理解が深まり勉強の楽しみに目覚めた。さらに彼らの婚約者や友人たちが参加するようになり、公爵家の勉強会といえば次世代の優秀な若者が集うと有名になっていく。


 そうして学園に入学する年のころには、彼らの仲は非常に良好になっていた。当然王子は学園でもイヴェットとともに学ぶと思っていたが、イヴェットに別の計画を知らされる。隣の超大国への留学だ。

 すでに領内の政にも意見を出し、後継者たる実兄と同等に重用されている彼女に、国内の学園ではいささか不足なのは確かだ。一方、王族として国内の貴族と縁を持たなければならない王子には、その選択肢はない。その道理はわかるが、不満はあった。


「君は私から離れるのか」


 いささか声高に非難した王子は、しかし、悲しそうに見やる紫水晶の瞳にぐっと詰まる。


「どうぞお許しください、必ずこの国のためになることをして戻ってきますから」


 切々と誓う、その言葉の正しい意味が王子にはわからない。ただ愛しい婚約者をいま許される範囲で抱きしめて、口づけを贈るだけだ。戻ってきたらすぐに結婚しようと囁いて。


「いいのかい、婚約者どのを放りだして。あんな年ごろの男、目を離したらどうなるかわかんないぜ」


 かつて孤児だったところをイヴェットに拾いあげられ、いまは彼女を唯一の主として仕える「影」が問う。露悪的な口調をイヴェットは咎めだてはしない。主を慮ってのことだとわかっているから。二人の間には信頼があり、だからこそ彼女も他の人間に対するよりは、心情を語った。


「もしも、私以上にあの方にふさわしい方が現れたなら、それまでのことよ」


 突拍子のない言葉に、つい影の少年は笑ってしまう。王国一の賢姫と呼ばれる主よりも、ふさわしい人間? そんな者が存在するわけがない。逆ならともかく。ああなるほど、そういうことか。


「いっそ今のうちに縁を切っておけばいいんじゃない? 新天地で新しい出会いもあるかもよ」


 こんな小国の第二王子などではなく、もっと主にふさわしい男に出会えるかもしれない。そんな意味をこめて言ったのに。主はまるで恐ろしい判決を受けた囚人のように青ざめた。


「私から、あの方との婚約を破棄することはないわ。するなら、あの方からよ」

「どうして」

「だって、私は罪人だもの」


 それきり、黙り込んでしまう。その言葉の正しい意味は少年にもわからない。ただじっと見つめるだけだ。女性らしく成長を始めても、まだ華奢な体は頼りないのに、その意思にさからうことはできない。誇り高く美しい主。何か秘密を抱え込んでいるらしい少女は、何をそんなにも恐れているのか。いつかその恐れを解き、彼女を救いたい。感情を忘れたはずの少年は身のうちを焦がすような何かを感じる。


 留学後は怒涛の展開だった。賢姫の名はすでにその国にも届いており、彼女は早々に皇族とよしみを得る。まるで恋人のようにふるまおうとするその皇族を何とかかわしながら、たまたま共に訪れた国境で、絶滅したと思われていた獣人族と出会った。彼女の人脈によって両国による彼らの保護を進め、獣人族の恩人として交流するうちに、なぜか獣人族の長と皇女の恋をとりもつことになり、それに成功すると、今度は彼らと一緒に古代に滅びた神聖帝国の遺跡を巡り、ダンジョンを制覇、喪われたはずの古代魔法を復活することができた。結果として偏っていた人界と魔界のパワーバランスは均等になり、彼女の無謀な行動と魔族の王のちょっとした気まぐれによって、融和に向けた交渉が始まった。


 そうしてとうとう世界平和が実現し、イヴェットは聖女と呼ばれるようになった。

 艶やかな黒髪と紫水晶の瞳を持った美少女が起こした奇跡は、美しい絵物語となる。教会も吟遊詩人もその偉業をたたえ、世界のどこへ行っても彼女を賛美する言葉であふれた。

 誇らしげにみやる人々に囲まれ、彼女は謙虚にほほ笑み、しかし聖女と呼ばれることは拒絶する。聖女などという名は私にはふさわしくないのだと。何故と問われれば、言葉少なにこう答える。


「私は本来であれば罪人ですから」


 その言葉の正しい意味は、だれにもわからない。謙虚な方なのだと、いいようにとらえるだけだ。それでいいと、イヴェットも特には語らない。彼女はようやく夢の定めに打ち克ったのだと、ひとり静かな満足にひたっていたから。


 けれどその話を聞いて、実兄をはじめとする公爵家の家族たちがやってきた。すっかり尊い存在となってしまった娘との久しぶりの再会に、だれもが焦ったような表情で彼女を取り囲む。


「イヴェット。もしかして、思い出したのかい」


 震える声で兄が問う。イヴェットは、イヴェットには、その問いの意味がわからない。

 沈黙する彼女に、兄が父が代わる代わる語るのは、忘れたならば忘れたままにしてあげようとして、隠されたもうひとつの真実。


 それは七つのときに彼女が池に落ちた理由。一緒に遊んでいた妹が池に落ち、そして、彼女もまた妹を助けようとして池で溺れかけたのだ。それが秘されたのは、妹と彼女は母親が異なり、卑しい身分の妾の娘を当時の彼女は毎日のようにいじめていたからだ。最初に妹が池に落ちたのも、きっと姉である彼女が何かしたのだと、周囲は思っていた。


「かわいそうに、イヴェット。あの子が死んだと、そう思い込んでいたんだね」「それでこんなに思い詰めて、償いをしようと、世界を救う聖女になるまでに……」


 震えるイヴェットの肩を、兄が父が婚約者が代わる代わる抱きしめる。


「そうじゃないんだよ、あの子は確かに死にかけたけれど、どうにか一命をとりとめたんだ」「ただ傷は残っていたし、なによりもうお前と一緒に暮らすのは無理だと思ったんだ」「あの子は遠縁の家に養女に」「目を覚ましたお前は妹のことも事故のことも忘れていたが、まるで人が変わったように行いを改めたから、私たちは見守ることにしたんだ」「けれどお前が思い出していたとは。ずっと罪の意識に苛まれていたんだね。気が付かなくてすまなかった……」


 告白のなか、イヴェットの顔は真っ白だ。その後に続いた婚約者である王子のプロポーズも、幼なじみ達や盟友とも呼ぶべき皇族の言葉も、彼女には届かない。

 そこへ影の少年が一人の少女を連れてくる。


 淡い桃色の髪をした娘だ。シンプルだが清楚なワンピースを身につけている。アクセサリーはない。それでも彼女を見つめる娘の眼は美しいトパーズのようで、きらきらと黄金色に輝いている。

 その瞳が恐怖に大きく見開かれた瞬間を、イヴェットは思い出す。


「おねえさま。私、恨んでなんかいません。おねえさまはあのとき、私を助けようとしてくださったんでしょう。だから、どうかもう——」


 その言葉がどう終わったのか、イヴェットにはわからない。最後まで紡がれる前に、磨き上げた魔力で己の命を絶ったから。



 そんな夢を見た。



 目を開くと、彼女は水の中にいた。同じ水の底のほうには、もうひとり、少女が落ちている。意識はないようだ。赤い血が頭から流れ、細い糸のように水中を漂っていた。イヴェットは磨き上げた魔力で水を押しやり、その腕を捕まえる。そのまま水中を出て、岸にあるあずまやへ。

 つかんだ骨ばった細い腕に、あざが残っているのを目にする。三日前に戯れで鞭で打ったあとだ。淡い桃色の髪の毛は水と血で色濃く変わり、青ざめた顔に張りついている。くたりと脱力した体を抱きしめ、古代魔法で傷跡一つ残さずに治癒した。自分自身も含めて水や汚れをふき飛ばし、乾燥させた。これで熱を出すこともないだろう。


 きれいになった少女の頭を自身の膝にのせて、しばし、見分する。痩せているのは、もともと貧しい家にいたからだ。父がかつて手を出した女がいつの間にかこの娘を生んでいたのだ。その女が死に、それなりに魔力を持つ娘だったので、父は引き取ることを決めた。

 けれど、卑しい生まれと育ちの娘が、公爵家の「唯一の娘」であるべきイヴェットの立場を脅かすなど、許しがたい。だから当然徹底的にいじめた。

 それでも公爵家で世話をされていた娘は次第に美しくなっていった。ふわふわとした髪の毛、すべらかな頬。生きている人間の心地よい質感に、イヴェットは少女の顔を指先でたどる。頬から口元、顎、それからまた頬から目元へ。まなじりをつつき、瞼を押す。びくびくとうごめくのを感じて、指を離した。


 どんな宝石よりも、これをえぐり出したら、美しいのではないか、と指先がうずく。ゆっくりと瞬き、開いたトパーズの瞳がさらに大きく見開かれたのは、恐怖か動揺か。幼いせいか、顔立ちに比べて大きすぎるその瞳は、猫を思わせた。

 猫、そう、猫だ。


「お、ねえ、さま」

「なあに、ミネット」


 ようやく思い出した名前を呼べば、見事に硬直する。起き上がることもできないらしい妹を、そのまま、魔法で浮かせた。息をのむような悲鳴。もしイヴェットが魔法を解けば、固い地面にたたきつけられる。そういうことももう、わかっているのだろう。

 とはいえ、七歳の目線の高さだから、大した高さではない。それでも、ぎゅっとこぶしを握りこんで恐怖に耐えている姿は、微笑ましいとイヴェットは思った。ゆっくりと自由になった両手でその首筋を掴むようにして、撫でさする。猫にするように。

 あ、う、ひぃ、あ、と奇妙な鳴き声をあげるのがおかしくて、手を止めて笑った。かわいいけれど、変な声。


「え、あ、おねえ、さま……?」

「いい子ね、でも、鳴いてはだめよ」


 艶然と微笑みかけると、妹は消音の魔法をかけられたように口をつぐんだ。わずかに頬を赤らめるのを、首をかしげて眺めていると、遠くから誰かがやって来る。そういえばさっきまで婚約者たちが遊びに来ていた。混ざりたそうにしていた妹を見咎め、それで、この池に突き落としたのだ、と思い出す。そのときに、腕を引っ張り込まれた。

 そう、助けようと思ったわけではなかった。殺そうと思ったわけでもないけれど。


 騒ぎになるのは面倒だから、妹はさきに部屋に返すことにした。魔法で、自室の、中庭に面した窓を開き、そのまま浮遊させた妹を放り込む。

 それから婚約者たちを、気まぐれな姫らしく早々に屋敷から追い出した。いぶかしんでいたが、彼らはイヴェットの機嫌を損ねればどうなるか、よくわかっている。逆に彼女の機嫌がよければ、彼らには思いつかない新しい遊びを教えてやるのだから、いずれにせよ逆らうのは損だ。子どもはみな残虐なことが大好きだから、最初は戸惑っても、最後には誰もが楽しそうに参加した。その中には下女の恰好をさせた妹を的にしたものもあったけれど、もうアレを行うつもりはない。まあ、移り気な子どものことだから、彼らもきっとすぐに忘れてしまうだろう。そんな遊びのことも、そんな少女がいたことも。

 そういうものだと、イヴェットはもう知っている。


 部屋では、放置された妹が床で震えていた。寝台の上に落としたつもりだが、自分で床に控えたのだろう。行くあてもなくうずくまる姿は、ほんとうに猫のようだ。そうか、とイヴェットは気づいた。猫なら、首輪をつければいい。


「あなた、今日からここで暮らしなさい」

「え?」


 理解が遅い妹を無視して、勝手に外を出歩かないよう、魔法で行動領域の縛りをつける。バスタブもトイレもあるから、この部屋と続き部屋だけでいい。あわせて、イヴェット以外の人間は入れないように、部屋を鎖す。

 それから転移魔法で、かつて行ったダンジョンの下層から首輪を持ち帰った。獣化の首輪。獣人と睦みあうために皇女が使ったものだ。込めた魔力で、装着者を段階的に獣の姿に変えることができる。

 とりあえず、体躯はそのままに、耳としっぽを出させる。髪の毛と同じ薄桃色がよく似合う。出現した獣の耳がぴたりと後ろ倒しになっているのが面白くて、指先で摘まみ上げた。薄い。ぴくぴくと動くさまが、かわいらしい。

 もっと魔力を込めれば、意識まで猫に変えることもできると説明すると、いらないと首を振った。ほんとうの猫みたいに鳴けるようになるのよ、と囁けば、口を開いて、ミャアと。


「あら、うまいわね」


 かわいらしい鳴き声を褒めて首元を撫でてあげると、イヴェットの猫はなきながら笑う。ああ、トパーズの瞳が蜂蜜みたいにとけてしまいそうだ。寝台の上に抱きよせ、その早鐘のように打つ心臓の音に耳を寄せる。



 そしてイヴェットは猫を抱いて眠り、もう夢は見ない。



 かつて妹を殺した罪悪感に押しつぶされて歪み毒姫と化した女は、かつて罰を恐れて品行方正な聖女となって世界を救った女は、いまはもう、どんな罪にも罰にも囚われない。

 世界を毒することも救うこともなく、ましてや、周囲の男達が立場故のプレッシャーに追われて救いを求めていても、あるいは子供じみた正義感を発揮するための悪役を求めていても、見むきもしない。

 子どもの行いを咎めだてもせず、正しもせず、ただ目の前の厄介ごとを覆い隠して、自分たちにいいようにだけ解釈して何もかもなかったことにする家族のことなど、気にもとめない。

 孤児の少年が劣悪な環境に殺されても。里を追われた少数民族が数を減らすまま消えても。魔と人の間にいつまでも争いが続き、愛する者同士は結ばれず、国同士はいがみ合い、世界中に不幸があふれても。



 それらすべてよりも、このトパーズのほうが彼女には価値があるとわかったから。



読んでくださり、ありがとうございます

根が善良でない人間のやり直し悪役令嬢モノでした


イヴェット……イチイ(アルカロイド系の毒を含む木)

ミネット……マリア。または、子猫ちゃん

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