20、糸の切れたマリオネット
扉が開き看護師が麻里緒達の前に歩み寄った。
「井坂さんの御家族ですね? 先生からお話がありますのでこちらへ」
看護師はそう言って麻里緒達を誘った。まだ十代ではないかと思われるほど若くて可愛らしい看護師だった。こんな場所で……、こんな状況で無かったならば、勇はその溌剌とした容姿に魅せられてしまった事だろう。しかし、その若き看護師の表情は事態の深刻さを物語っていた。
部屋へ入ると、医師が苦い顔をして待っていた。
「どうぞ座って下さい。えっと、奥さんと御両親ですね。そちらの方は?」
そう言って医師は勇を見た。
「えっと、幼馴染みって言うか、親友です」
医師は家族の意向を確認する様に、麻里緒と両親を見た。その視線に答えたのは母だった。
「勇くんは家族みたいなものですから一緒に話しを聞いてもらって良いですか? その方が心強いし……」
「そう言うことならば大丈夫ですよ」
医師は小さく笑顔を作ったが、その笑顔はすぐに消え、深刻な表情に戻った。
「えっと、井坂風太さんの状態なのですが、現状は腫瘍が神経組織を包み込むように大きくなって、神経が圧迫された為に意識を失い救急搬送されて来た訳ですが、その後意識回復が見られました。しかし強い苦痛を訴えた為に鎮静剤を投与しました。現在は鎮静剤で眠っている状態です。腫瘍はかなり進行していますので、このままですと呼吸や心臓の動きにも支障をきたす事になるでしょう。しかし、腫瘍の場所がきびしい位置に有る為、手術は難しい状況です」
一気に状況説明を終えた医師が家族を見渡したが、麻里緒も父も母も言葉を失っていた。こうなる事はずっと以前から解っていたことだった。考える事を先延ばしにしていた状況が今、現実として突き付けられたのだ。
「風太は今……、今も痛みを感じているんですか? 風太はもう目を覚まさないんですか?」
言葉を無くした麻里緒達に代わって、勇が医師に質問をしていた。麻里緒は感情の置き場が解らなくなっていて、本来会話の中心となるべき立場でありながら、まるで傍観者のように医師と勇の会話を聞いていた。
「今現在は鎮静剤を使って眠った状態ですので痛みは感じていませんが、かなり神経を圧迫されているので、鎮静剤が切れると痛みや苦しみを強く感じる事になると思います」
「このまま薬で眠らせておけば痛みも感じないという事ですね」
「まあ、そう言う事です」
医師の言葉に絶望を感じた勇は振り返り、いたわる様な視線を麻里緒に向けた。麻里緒はまるで別の世界に居るかのように、ひざの上で組んだ自らの手を見詰めていた。
風太に会いたい。
風太の笑顔が見たい。
風太の声を聞きたい。
そう強く思う麻里緒だったが、風太を目覚めさせることと、風太に大きな苦痛をもたらす事がイコールで結ばれている事を理解していた。
勇が言葉を失っている麻里緒達を順に見ながら、言いにくそうに口を開いた。
「そう言うことらしいですが……、聞かなくちゃならない重要な事がありますよね。俺の口から聞いちゃっても良いですか?」
麻里緒にも勇がなにを聞こうとしているのかが解った。母にもそれが解った様で、麻里緒の手を強く握りながら、何度もうなずいている。父も同意する様にうなずいている。麻里緒は勇の目を見詰めてから、ゆっくりとうなずいた。
勇も麻里緒に大きくうなずき返してから、医師の目をまっすぐに見つめた。
「それで、風太は……、風太はどのくらい生きられるんでしょうか?」
医師は一度目を伏せてから、麻里緒と両親の様子をうかがう様に眺めた後、勇に告げた。
「今夜がヤマでしょう。長くても数日だと思います」
麻里緒の目から大粒の涙があふれ出した。まるで深い海の底に居るかのように、視界は闇に閉ざされ、勇や医師の声も聞こえて来なくなった。ただ、自分の心臓の鼓動と母の手の温もりだけが、麻里緒が生きている証の様だった。
幾分落ち着きを取り戻した後、病室へと案内された。真っ白い壁と天井に囲まれた個室の窓からは、遠くにそびえ立つ都会のビル群が僅かに見えた。麻里緒と知り合う前に風太が住んでいた街だ。
風太はあの街で病に倒れ、故郷へ帰って来た。そして麻里緒と出会い、結婚し、今まさに人生の終焉を迎えようとしている。
あの街で病に倒れなければここに帰って来る事は無かった。麻里緒に出会う事も無かったかもしれない。もしも風太が生きていてくれるのならばそれで良かった。いや、その方が良かった。
不毛な思考が麻里緒の心を支配していた。
悲しみの中、目を閉じたままの風太を見詰める麻里緒の耳に、勇の声がやさしく流れ込んで来た。
「風太のヤツ、幸せ者だよなぁ。こんな病気になったけれど、麻里緒ちゃんみたいな良い娘と出会って結婚だろう? そのうえ麻里緒ちゃんのお腹には赤ちゃんまで居るんだからなぁ。人生なんて長さじゃないよな。如何に人を愛して、如何に人に愛されて……。如何にその愛をつなげていくかだよな。光も信一も良い相手を見付けたみたいだからなぁ。俺も頑張らなくちゃなぁ」
麻里緒が振向くと、照れたような表情の勇がいた。麻里緒は笑顔で勇を見詰めた。
「ありがとう……勇さん」
「あは、ちょっと気障だったかな? でも俺、本気でそう思っているんだ。だから、麻里緒ちゃんも頑張って元気な赤ちゃんを産まなくちゃ」
都会のビル群が朝靄の中に浮かび上がった頃、風太は静かに息を引き取った。まるで幸せな夢でも見ているかのように、うっすらと笑みをたたえていた。
「風太……、風太は幸せだった? 私は幸せだったよ。お腹の子も幸せだって言っているよ。父親の顔を知らない子にしちゃったですって? 大丈夫、毎日風太の写真を見せて言うんだ。『どうよ。カッコいいでしょ。ママの愛した人だよ。この人があなたのパパだよ』って」
そう言った麻里緒だったが、涙は止めどなく流れ落ちた。
麻里緒は身体から全ての力が抜けていくような感覚に襲われた。がっくりと床に座り込んでしまった麻里緒の姿は、まるで糸の切れたマリオネットのようだった。
人が亡くなってからしばらくの間、家族は悲しみに浸っている時間さえ与えられないものだ。弔問客への対応や葬儀の打ち合わせなどで忙しく時間が過ぎて行く。これも先人たちのやさしさなのだろうか?
自宅に戻った風太の傍らに、次々と弔問客が訪れる。葬儀屋も出入りして葬儀の打ち合わせも行われる。父は風太の傍から離れることが出来ないで居た。麻里緒と母はお茶を出したり、客との会話や葬儀屋との打ち合わせに参加したりと大忙しだ。
それでも弔問客が途絶える夜になると、どうしても涙が止まらなくなる。麻里緒は祭壇の前に横たわっている風太に話しかけるのだが、いくら話しかけても風太が応えてくれるわけも無く、悲しみはいっそう増すばかりだった。




