02、一身上の都合
井坂風太は流れ橋の中央で、下を流れる川を見つめていた。早春の川面に何処から飛ばされて来たのか、一片の桜の花びらが舞い落ちた。辺りを見まわしたが、咲いている桜の花など見当たらない。それもその筈、まだ三月に入ったばかりだ。
「桜? いくらなんでも早すぎるだろう」
独り言を言って、ふたたび川面に視線を落とした。桜の花びらは、ゆらゆらと揺れながら川面を流れてゆく。
「俺も早すぎるよな。まだ二十五年しか生きていないんだぞ」
風太は自分の目に涙が溜まっていることを意識していた。
以前からめまいや頭痛に襲われる事があったのだが、疲れのせいであろうと思い放置していた。昨年の暮れのことだった。風太は職場で意識を失うほどのめまいに襲われ病院に運ばれた。その後、様々な検査を行い、原因が判明したのはひと月ほど前のことだった。
医師は様々な検査画像や血液検査などのデータを見せながら、沈痛な面持ちで病状の説明を行っている。風太はまるでテレビドラマでも見ているかのような錯覚にとらわれていた。前置きの長さから良くない結果が告げられる事が想像される中、医師の最後の言葉が脳内にこだました。
「……と、言うわけで、井坂さんの脳腫瘍の場合、手術によって取り除く事は極めて難しい位置に在ります。放射線と抗がん剤によって、進行を遅らせる事を……」
風太は医師に聞かずには居られなかった。
「それで……、いつまで生きられますか?」
医師はしばらく虚空をにらんだ後、厳粛な声音で風太に告げた。
「このまま何もしなければ三ヵ月」
「治療をしたら?」
「手術の難しい場所ですからね。放射線と抗がん剤治療で進行を遅らせても、半年……くらいでしょうか?」
「…………」
余命宣告であった。その日以来、理由も無く涙ぐむ事が多くなった。いや、死が一歩一歩近付いて来ているのだから、十分すぎる理由があるのだ。
「さて、両親にはどう話したらいいのかなぁ。ショックを受けるだろうな。そりゃそうだよなぁ。親より先に死ぬなんて、最大の親不幸だからなぁ」
風太はブツブツと独り言を言いながら、川面を見つめていた。
先ほどから風太の行動を見つめている女がいた。女は風太の背後に近付くと、声をかけて来た。
「お兄さん、自殺でもするつもり? この水量じゃ自殺は無理だと思うよ」
風太は振り返って女を見た。歳は二十歳前後だろうか? 風になびくストレートの黒髪と、目の上でまっすぐに切りそろえられた前髪は、古風な日本女性を思わせるのだが、何故か青い瞳をしている。カラーコンタクトを付けているだけかも知れないが、やはり違和感は否めない。どことなく見覚えがあるような気はするが、知り合いでは無いだろう。そう判断した風太は、思いついた言葉をそのまま言ってしまうことにした。
「自殺かぁ。それも良いかもな。どの道死ぬんだし……」
死と言う言葉を聞いても、女は表情一つ変えない。
「へー、死ぬんだ。いつ?」
話の内容とは相反する、あまりにも自然な話しぶりだ。風太もその自然さに引き込まれていた。
「医者は三ヵ月から半年って言っていたな」
見ず知らずの女と交わす会話では無い。しかし、二人の間には、それが一番ふさわしい会話であるかのような空気が流れていた。
「ふーん。なら、それまで私が付き合ってあげようか? 私、暇をもてあましているんだ」
「暇つぶしのボランティアかよ」
「まあ、そんなところかな。お兄さんイイ男だから……」
女は風太の言葉をジョークとでもとったのだろうか? 白い歯を見せてニッコリと微笑んでいる。悪意がある様には見えないが、今の風太には耐えられない態度だった。ついつい語気が荒くなる。
「ははは、おまえバカか!」
風太は女に背を向けて歩き出した。女は去って行く風太の背をいつまでも見送っていた。そして、その青い瞳から一滴の涙が頬を伝った。
風太の実家は代々の農家だ。家は農家特有の造りで、道路との境は生垣になっている。生垣の切れ目に門柱だけは立ててあるが門扉は設置していない。風太が門柱の間を抜けて庭に入ると、洗濯物を取り込んでいた母が迎えてくれた。
「お帰り、遅かったね」
「ただいま。光のところで昼飯を食って来たから……。引越し屋はもう来た?」
「さっき帰ったよ。荷物は部屋に運んでもらって良かったんだよね」
「うん、ありがとう」
「東京のアパートは引き払って来たんだろう?」
「うん、もう東京には戻らないからね」
「何があったんだい?」
母が心配そうな顔で聞いたが、それには答えずに質問で返した。
「父さんは?」
「町内会の寄り合いに行っているけど、もうすぐ帰って来るはずだよ」
「父さんにもきちんと話さなくちゃならないからね。夕飯の時にでも話すよ」
「そうかい、ならまあ……良いけれど……」
風太は夕飯までの時間、届けられた荷物の整理をしていた。荷物と言っても一人暮らしの荷物だから、それ程の量があるわけではない。それでも、全てを整理するにはそれなりの時間と手間がかかる。
「とりあえず、すぐに必要なものだけ出しておけば良いか。後はのんびりやろう。まだしばらく時間はあるからな」
そんな独り言を呟きながら一通りの片付けをしていると、階下から母の呼ぶ声が聞こえて来た。
「風太、ご飯だよ」
「わかった、すぐ行く」
風太はそう応えて、階下へと降りて行った。
食卓に着くと、父がビール瓶を持ち上げて風太の方へ差し出す。父と酒を飲むのは久しぶりだった。
「父さんと酒を飲むのも久しぶりだね。成人式で帰省した時以来かな?」
「そうかもしれんな。東京で何かあったのか?」
「うん、まあね。飯を食ってから話すよ」
父は何も言わずに頷いて、グラスのビールを飲み干した。
二人が二本のビールを飲み干してから、夕食となった。テーブルには刺身や天ぷらといった、通常では揃わない料理が並んでいた。風太が帰って来ることを両親が喜んでいる証拠なのだろう。
夕食を終え、お茶を飲みながら風太は肝心の話を切り出した。
母は泣いていた。
「ごめん。俺って親不孝者だよな」
黙り込んでいた父が口を開いた。
「それで、これからどうするんだ?」
「市民病院でも治療が出来るらしいんだ。紹介状をもらって来た。明日にでも行ってみるよ」
「そうか、わかった。風呂に入って来る」
父はそう言って席を立った。人前で涙を見せた事のない頑固者だ。風太はなにも言わずに父の背を見送った。
「どうしておまえが……、癌なんて……。大学病院に行ってみた方が良いんじゃないの」
「かあさん……」
「明日行ってみようよ。母さんも一緒に行くから……」
「かあさん、ごめん……」
風太は立ち上がると、母を残して自室へと向かった。風太の目にも涙が浮かんでいた。