19、十五夜
風太と麻里緒は、風太の実家で両親と同居する事を決めた。理由はもちろん、風太の体調が急変した際に妊娠している麻里緒に負担を掛けない為であった。
まだまだ夏の暑さが残っているが、先日までは五月蠅いだけだったセミの鳴き声に夏の終わりを感じる頃、実家への引っ越しが行われた。マンションと風太の実家はすぐ近くではあったが、風太の体調と身重の麻里緒に配慮して引っ越し業者を手配してあった。
「風太、おはよう。そろそろ起きないと引越し屋さんが来ちゃうよ」
麻里緒の言葉に、寝ぼけ眼を両の拳でこすりながら風太は目覚めた。
「うーん」
ベッドの上で大きく伸びをした風太の両腕が、麻里緒の身体を捉えて抱き寄せると二人の唇は触れ合った。とても自然な動作であることから、日々繰り返されている行動であることが窺われる。
「おはよう」
「おはよう、朝ごはんにしましょう。のんびりしていると引越し屋さんが来ちゃうよ」
「はいはい、おきますよぅ」
大あくびの後、もう一度伸びをしてから風太は起き上がった。さっきまで麻里緒の居た空間に手を伸ばしたが、麻里緒の姿は既にキッチンへと消えてしまっていた。仕方なく、自力でベッドから抜け出した風太は、寝室を出てダイニングテーブルに着いた。
食事の後片付けも済んだ頃、インターホンが鳴り引っ越し業者が訪れた。荷物は前日までに梱包され、リビングの隅に積まれている。引っ越し業者の手慣れた作業により、荷物は次々にトラックの荷台へと納まって行った。最後の荷物を積み込むと、トラックはマンションを離れ、風太の実家へと向かった。
荷物が運び出されたマンションの部屋に佇む麻里緒を、風太は軽く抱きしめた。風太にとっては、麻里緒と暮らした数ヶ月の想いしかないが、麻里緒にとっては両親と暮らした思い出がいっぱい詰まった部屋だ。
「さて、私たちも行かなくちゃね」
感傷に浸る気持ちを吹き払う様に、麻里緒は笑顔で風太に言った。
「うん」
風太は頷くと、麻里緒の手をとってマンションを後にした。
実家には信一も手伝いに来ていて、引っ越し作業は瞬く間に終わった。
「お父さん、お母さん、よろしくお願いします」
ペコリと頭を下げる麻里緒に、母が笑顔で応えた。
「こちらこそよろしくね。さあ、お昼ご飯にしましょう。信一くんも手を洗っていらっしゃい」
引っ越しも無事終わり、この日から風太と麻里緒は、風太の実家での生活を始めた。
暑かった残暑も納まりをみせ、心地良い秋風と共に金木犀の香りが漂うなか、季節は十五夜を迎えていた。風太と麻里緒はススキと月見団子の供えられた縁側に並んで座り、夜空に浮かぶ大きな満月を見上げていた。
「きれいなお月さま」
「そうだね、麻里緒と一緒に十五夜を迎えられるとは思わなかったよ」
「このまま、ずっとこうして居られたら良いね」
「うん、とっくにタイムリミットを過ぎている筈なのに、なかなかお迎えが来ないからなぁ。もう来なくても良いんだけれどね」
「そうだね、頭の中のヤツも無くなっちゃえば良いのにね」
「そうなってくれるとありがたいな」
出会った時から決まっていたことだった。最初から覚悟していたことだった。しかし、美しく神秘的な月を眺めていると、それが奇跡を願う儚いものだとは解っていても、やはり願わずには居られなかった。
「お月さま、風太の病気が治りますように。そしてお腹の赤ちゃんが元気に生まれて来ますように」
願い事を口にした麻里緒の肩を、風太がやさしく抱き寄せた。十五夜の月明かりは、そんな二人をやさしく照らし出していた。
幸せな十五夜を過ごした三日後、仕事中の麻里緒のスマホが鳴った。ディスプレイは母からの着信を表示している。
不安に駆られながら、通話をタップした麻里緒の耳に、母の慌てた声が響いた。
「麻里緒ちゃん、落ち着いて聞いてね。風太が、風太がね、さっき倒れたの。今、救急車を呼んだところだから、麻里緒ちゃんは市民病院に直接来て」
「わかりました。急いで行きます」
電話を切った麻里緒は課長に事情を話し、急いで職場を出た。門の前でタクシーが通り掛からないかと見廻したが、都合良く通りかかるタクシーなど有る筈は無かった。諦めて駅への道を歩き始めた麻里緒の前に、一台の車が止まった。車体の側面に『和菓子の矢中』と書いてある白いバンタイプの車だった。
助手席の窓が開いて、運転席から笑顔の男が麻里緒に話しかけて来た。
「やあ、麻里緒ちゃんじゃない。どこかへ行くの?」
急に話し掛けられて一瞬たじろいだ麻里緒だったが、それが風太の親友の一人である矢中勇だと気付いた。
「風太が家で倒れたらしいんです。お母さんが救急車を呼んだみたいで、これから市民病院へ行くところなんです」
「風太が! それは大変だ。早く乗って。病院まで送るから」
「良いんですか?」
「良いに決まっているよ。さあ、早く乗って」
麻里緒が助手席に乗り込むと、和菓子屋のバンは市民病院へと急いだ。
自動ドアの開く速度さえもどかしく思いながら、麻里緒は病院内へと駆け込んだ。待合室のベンチに座っていた風太の両親は、駆け寄る麻里緒に気付き立ち上がった。
「風太は? 風太は?」
母は慌てる麻里緒を抱き止めて言った。
「今、先生に診てもらっているところよ。ここに座って待ちましょう」
麻里緒は勧められるまま、母の隣に座った。しかし、心臓は早鐘の様に高鳴り、手足の震えが止まらない。ひざの上に置いた手を、母がしっかりと握ってくれた。
「麻里緒ちゃん、大丈夫だから。風太は大丈夫だから、麻里緒ちゃんはしっかりしなくちゃね」
大丈夫じゃない事は麻里緒にも解っている。しかし、母の手の温もりは少しだけ麻里緒の心に落ち着きをもたらしてくれた。
風太の通院日の夜、麻里緒は必ず病状について聞いていた。
「ねえ、今日もいろいろな検査をしてきたんでしょう? どうだった?」
「うん、あんまり変わって無いって」
「そうなの? でも、腫瘍ってだんだん大きくなるんでしょう?」
風太は、心配そうに見つめる麻里緒の目を避けるように視線をそらす。
「でも、ほとんど変わっていないらしいよ」
麻里緒に心配を掛けまいとする風太の気持ちは痛いほどわかる。麻里緒はそれ以上追及する事が出来なかった。
「辛い時には言ってね。風太はやさしいから、辛くっても我慢しちゃうでしょう? 絶対に無理はしないでね」
「うん、ありがとう。麻里緒、愛しているよ」
笑顔と共に発せられるこの言葉は、魔法の様に麻里緒の不安を消し去った。
しかし、その笑顔の裏で、腫瘍は着実に風太の命を蝕んでいたのだ。
「麻里緒ちゃん、大丈夫?」
駐車場に車を止めて来た勇が麻里緒の前に立っていた。麻里緒は勇を見上げた。
「今、先生に診てもらっているらしいです」
母が勇を見上げて、少し考えてから言った。
「あんたは……和菓子屋の子? えっと名前はぁ……」
「勇です。矢中勇」
「そうそう、勇くんね。しばらく見ない間に大きくなったわねぇ」
「はい、おかげ様で、って結婚式の時に会ったじゃないですかぁ」
「そう言えばそうだったわね」
母は麻里緒に笑顔を向けて、風太たちが子供の頃の話を始めた。
「あれは中学生の頃だったわよね。勇くんと洋食屋の光くんと豆腐屋の、えっと……」
「信一です」
「そうそう、信一くんだったわね。四人は仲良しで、しょっちゅう家に遊びに来ていたのよ」
母の笑顔に誘われる様に、麻里緒にも笑顔が戻ってきた。
「勇くんは時々お店の和菓子を持って来てくれたわよね。矢中の和菓子は美味しいって、この辺じゃ有名なのよ。だから喜んでいたんだけれどもね。矢中さんの奥さんに会った時にお礼を言ったら、奥さんは全然知らないって言うじゃない。どうも、勇くんが黙って持って来ていたらしいのよね。あの時はビックリしちゃったわよ」
「あはは、そんな事もありましたね。親父に『持って行くならそう言え!』って怒られたなぁ。次の日から風太の家に行くって言うと、『これを持って行け』とか言って和菓子を持たされましたよ。学校帰りに風太の家に行くって言っているのに、朝から和菓子を持たされたりして、あの時は困りましたよ」
困ったように笑う勇の出現で、重苦しい空気が多少軽くなった事は間違いない。じっと黙りこんでいた父の頬も、ほんの少しだけ緩んでいた。
勇がいてくれること、会社の前で勇に出会えた偶然に感謝する麻里緒だった。