17、新婚生活
風太と麻里緒はマンションでの新婚生活を始めていた。世間には様々な家庭があるのだろうが、やはり想像しやすい新婚家庭の朝風景と言えば、会社へ行く旦那様を妻が玄関先で見送る場面だろう。
「今日は早く帰って来られる?」
「うん、出来るだけ早く帰るよ」
「じゃあ、夕飯はあなたの好きなハンバーグにしようかしら」
「楽しみにしているよ」
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
『チュッ』
なんて事になるのでしょうが、風太と麻里緒の場合は少し違った。
「今日は残業なしで帰って来られると思います」
「うん、気をつけて。今日も親父の所に行っているから」
「はい、じゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃい」
『チュッ』
最後は一緒になったけれど、風太は病気の為に仕事を辞めてしまっているから、出勤するのは麻里緒の方だ。そして、終業後の麻里緒は風太の実家に行き、そこで夕飯を食べてから二人でマンションに戻るという生活をしていた。
夕方、会社を出ようとする麻里緒に里奈と愛美が声を掛けて来た。
「麻里緒ちゃん、帰るんでしょう? 一緒に帰ろうよ」
「あっ、お疲れ様」
三人は会社帰りの人の流れに混じって、駅への道を歩き始めた。
「私たち、これから飲みに行くんだけれどぉ、麻里緒ちゃんは行けないよねぇ」
里奈の問いに答えたのは愛美だった。
「行ける筈無いじゃないですか、麻里緒さんは新婚ですよ。家に帰れば旦那さんが待っているんだから」
「そうだよねぇ。あーあ、私も結婚したくなっちゃったなぁ」
「光さんとですよね? 光さんもやさしそうだからなぁ」
「なに言ってんのよ。信一さんの方がずっとやさしそうじゃない」
里奈と愛美の会話を、麻里緒は楽しそうに聞いていた。
「里奈ちゃんと愛美ちゃんはいつも仲が良いよね。私もたまには一緒に行きたいけれど、今日も風太の実家に行かなくちゃならないから」
「毎日実家に行っているんですか?」
「ええ、風太は毎日実家でお父さんの手伝いをしているから」
「夕ご飯は?」
「お母さんが作ってくれているの。お母さんの料理が美味しいから、いつも食べすぎちゃって。最近太って来ちゃって困っているのよ」
「幸せ太りって男の人が成るのかと思っていたけれどぉ、麻里緒ちゃんが幸せ太りのまっ最中ってわけんなんだぁ」
「ちょっとだけだよ」
「どれどれ」
そう言いながら麻里緒のお腹を里奈がさする。
「うん、結構来ているかも知れないなぁ。実は妊娠だったりしてぇ」
「そんな訳無いじゃない。妊娠なんかしていませんよ。結婚式からまだ、ひと月しか経っていないんですからね」
「そうかぁ、もうひと月経つんだよねぇ。麻里緒ちゃん、赤ちゃん欲しいでしょう?」
「考えたこと無かったけれど……、風太にそっくりな子を産みたいかな」
麻里緒は風太にそっくりな赤ちゃんを抱いている自分を想像していた。普通ならば、とても幸せな想像なのだが、たとえ妊娠したとしても、その子が生まれる頃にはすでに風太はいない。風太と共に赤ちゃんの誕生を祝う事は出来ないのだ。いつの間にか涙が頬を伝っていた。
「麻里緒ちゃんごめんね。余計なこと言っちゃって」
「ううん、私こそごめんなさい。勝手に変な想像して……。泣いたって仕方無いのにね。私が選んだ道なんだから」
涙を拭いて前を向く麻里緒を気遣う様に、里奈が麻里緒の手を握った。
里奈たちと別れた麻里緒は、風太の実家へと向かっていた。流れ橋を渡りながら、ここで風太と出会った時の事を思い出していた。
「あの日、風太はこの橋の真ん中辺に座り込んでいたのよね。川面を見詰めながら、何かブツブツ言っていたっけ」
麻里緒は橋の中央付近にしゃがみ込み、川面を見詰めた。あの時は川の水量が少なくて、真ん中を流れているだけだった。今は川幅いっぱいに水が流れている。
「赤ちゃん……か。やっぱり赤ちゃん欲しいなぁ。風太と一緒に子育てしたいなぁ。風太はきっと、良いパパになると思うよ。風太……、ずっと生きていて欲しいよ」
夕陽が麻里緒の頬を伝う涙を、茜色に輝かせていた。一時の感傷に浸った麻里緒は、涙を拭うと立ち上がって、夕焼け空を見上げた。
「私、欲張りになっちゃったかな。最初から解っていた事なのにね。ごめんね、もう欲張りは言わないから」
夕陽に誓う様に呟いてから、麻里緒は風太の実家に向かって歩き出した。
「ただいま~」
そう言いながら戸を開けるといきなり目の前で声がした。
「お帰り」
玄関に風太が笑顔で立っていた。
「わっ、ビックリした」
「おいおい、そんなに驚くなよ」
「あは、ただいま。だって玄関に立っているなんて思わないじゃない」
「窓から外を見ていたら、麻里緒が帰って来るのが見えたからね」
「なあに、ずっと見張っていたの?」
「たまたまだよ、たまたま見たら見えただけ。愛しているよ」
風太は麻里緒を抱き寄せてキスをした。
「もぉう、こんな所で……」
麻里緒も言葉のわりには抗うこと無く、風太のキスを受け入れた。
居間へ行くと、風太の両親が待っていた。
「麻里緒ちゃんお帰り、疲れたでしょう。今、ご飯の用意をするからね」
「ただいま、私もお手伝いします」
「良いのよ、座っていて。仕事で疲れているんだから」
風太の母によって、夕食が運ばれて来た。
「麻里緒ちゃんが来てくれるようになって、うちにも華やかさが加わったわよね」
「そうですか? 私なんか会社でも地味な方ですから、華やかだなんて言われるとちょっと恥ずかしいですよ」
「そんなこと無いわよ。ほら」
風太の母は男二人を見廻した。
「むさくって悪かったな。俺だって可愛い妹が欲しかったよ」
風太が反撃に出たが、普段無口な父がその腰を折る様な発言をした。
「妹がいたって可愛いとは限らないだろう。最近は父親を毛嫌いする子が多いらしいからな、兄貴のことだって好きになってくれるとは限らんぞ」
「父親を毛嫌いするのには理由があるらしいよ。HAL遺伝子って言うのが有って、この遺伝子の型が似ている異性を嫌うんだって。違う遺伝子を持った者との子孫を残した方が、より強い子孫を残せるという生物の本能が有るんだってさ。だから似た遺伝子を持っている父親を嫌うらしいよ」
「ならば、似た遺伝子を持っている兄も嫌われる確率が高いわけだ」
「確かにそうなるかも知れないなぁ」
風太が残念そうな顔をしていると、母が笑顔で話し始めた。
「でも、お父さんや兄弟のことを大好きになっちゃう子もいるじゃない。そう言う子の方が普通じゃないって事なの?」
「遺伝子は両親から受け継がれるものだからね。母親の遺伝子を強く受け継いだ場合、父親を好きになるらしいよ。一応母親は父親を好きになった訳だしね」
「ふーん、そうなの? じゃあ、女の子も産んでおけば良かったわね。もしかしたらお父さんにベッタリな子になったかも」
麻里緒には、母の発した愛の告白のような言葉に、父が照れている様に見えていた。
毎日繰り返されている家族の夕食シーンであったが、両親を失っている麻里緒にとって、この一時は幸せそのものだった。
夕食後、麻里緒は風太と共にマンションへの道程を、手をつないで歩いていた。
「ここで麻里緒に初めて会ったんだよな」
流れ橋の上で、風太が感慨深そうに言った。五月も終わろうとしている橋の上には心地よい風が吹いて、夜空にはきれいな月が輝いている。
「あの時麻里緒に会わなかったら、俺の人生は味気ないまま終わったんだろうなぁ」
麻里緒は風太とつなぐ手に力を込めた。
「風太の人生はまだ終わっていないよ。風太の人生はこれからもずっと続くんだよ」
麻里緒の目に涙が滲んだ。風太のタイムリミットはすぐそこまで来ている。医師の宣告が正しければ後二ヶ月余りで風太の人生は終わる。麻里緒は奇跡を願った。
「奇跡って本当にあるのかなぁ。明日の朝目が覚めたら、風太の腫瘍がきれいに無くなっていたりしないかなぁ」
「そうなったら良いけれどもね。でも、俺にとっての奇跡はもう起きていると思っているんだ。麻里緒に出会えたこと。麻里緒とこうしていられること。俺にとってはこれこそが奇跡だと思うんだ。もし病気にならなかったとしても、麻里緒と出会えなかったら、俺の人生は味気ない人生になったと思うよ。この先何十年も麻里緒なしで過ごすなんて地獄そのものだよ。たとえ許された時間があと二ヶ月間だけでも、俺は麻里緒と一緒に居る方が良いな」
麻里緒の目から涙がこぼれた。月を見上げている風太の目にも、月の光を反射してキラリと光るものが滲んでいた。