12、風太の決意
「ただいまー」
風太が声をかけると、母があわてて玄関まで出て来た。
「お帰り、いらっしゃい」
ふたりへの言葉だったが、母の視線は麻里緒一人に注がれていた。
「はじめまして、根戸麻里緒と申します」
「堅苦しい挨拶はいいから、上がってちょうだい。お父さんも待っていたのよ」
「はい、お邪魔します」
居間では老眼鏡をかけた父が新聞を広げていた。広げてはいるが、読んでいるわけでは無い。父親の威厳を見せようという演技に他ならないのだ。その証拠に、広げられた新聞が逆さまである事にすら気付いていない。父の全神経は、風太と麻里緒が居間に近付いて来る足音に集中していた。
「父さん、ただいま」
父は居間に現れた風太の声で初めて気付いたかのように、新聞に向けられていた視線を風太と麻里緒に移した。
「おう、お帰り」
「俺と付き合っている、根戸麻里緒さんです」
「はじめまして、根戸麻里緒です」
風太と麻里緒は揃って父にお辞儀をした。父は老眼鏡を外しながら、麻里緒に軽く会釈をする。
「はじめまして、風太の父です。とにかく座りなさい」
「はい」
風太と麻里緒は父の前の席に座った。母はお茶をそれぞれの前に置いてから、父の隣に座った。
母は少しの間、麻里緒を観察した後、風太に向かって言った。
「可愛らしい娘ねぇ。まるでお人形さんみたい。そう言えば、アンタが探していた、ミカちゃんのお人形。あのお人形にそっくりなんじゃない?」
麻里緒は何の話かわからないと言った表情で風太を見た。そんな麻里緒の表情に、真っ先に反応したのは母だった。
「あらやだ、まだ話して無かったの? ごめんねぇ」
「おまえはいつも一言多いんだから……」
父は呆れたように母を見る。
「あなたがなにも言わないから、私がつい言いすぎちゃうんでしょ」
母も負けていない。夫婦喧嘩を始めそうな両親に、風太はあわてて口をはさんだ。
「父さんも母さんもやめてくれよ。えっと、人形の事は後でちゃんと話をするけれど、以前ミカちゃんって言う子が隣に住んでいたんだ。七歳で亡くなったんだけれど、その子の形見みたいな人形が有ってね。その人形が麻里緒に似ていたんだ」
風太は両親の制止と麻里緒への言い訳に必死の形相だ。
「そうなの?」
「うん、詳しい話は後でするから……」
母に勧められ、テーブルの上に用意されていた御茶菓子をつまみながら、歓談が始められた。最初はバタバタとしたが、その後はごく普通の会話へと移って行った。会話のほとんどは母が質問をし、麻里緒が応えるという形で進行した。
「麻里緒さんはおいくつ?」
「二十三歳です」
「風太より二つ年下なのね。ご実家は?」
「父が購入した駅前のマンションに住んでいますが、両親は二年前に交通事故で亡くなりました。兄弟もいませんので、今は一人暮らしです」
「あら、御両親を亡くされているのね。大変だったわね」
「あの頃は大変でした。親戚もいませんでしたから、何をしたらいいかも分からなくて……」
「そうよねぇ。家族が亡くなると、悲しんでいる暇も無いくらいに、やらなくちゃならない事がいっぱいあるのよね。これからは困ったことがあったら、なんでも言ってね。出来る限り協力するからね」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
男達は会話に入る事も出来ずに、ただ聞き役に回っていた。辛うじて発した父の言葉で、状況が少し変わった。
「母さん、そろそろめしにした方が良いんじゃないか?」
「あら、もうこんな時間! ご飯にしなくちゃね」
そう言って立ち上がる母に、麻里緒も立ち上がりながら声をかける。
「お母さん、お手伝いします」
母は微笑みながら振り返って言う。
「あらそう、じゃあ運ぶのを手伝ってもらおうかしら」
「はい」
麻里緒は嬉しそうな笑顔を風太に向けてから、母について台所へと向かった。残された父と風太は、顔を見合わせ苦笑いするしか無かった。
母と麻里緒によって、食事が運ばれて来た。駅前にあるすし屋からとった握りと、母の特製唐揚げにサラダという、何とも微妙な取り合わせであった。
「風太はね、子供の頃から唐揚げが大好きでねぇ」
母の言葉に麻里緒が微笑みながら唐揚げを頬張る。
「美味しい」
麻里緒の言葉に、父が嬉しそうに笑いながら言う。
「そうだろう。唐揚げだけはすごく美味いんだ」
「だけってなんですか! それじゃほかのものは不味いみたいじゃないですか」
「いやいや、そう言う訳じゃない……」
父の失言に一同の笑いが生まれて場がなごみ、楽しい食事となった。
風太が帰郷して以来、井坂家には常に重たい空気が漂っていた。息子の余命があとわずかという現状を知ってしまったのだから、それは仕方が無い事だろう。麻里緒の来訪は、まるで春霞を吹き払うかのように、井坂家に爽やかな空気をもたらした。
食事が終わると、片付けに立った母に付いて、麻里緒も台所へと向かった。台所からは、母と麻里緒の楽しそうな声が聞こえてくる。
「これからどうするつもりなんだ」
父が風太を見つめながら言った言葉は、風太の決意をいっそう堅固なものにした。
「父さんは反対するかもしれないけれど、俺は最後の日まで麻里緒と一緒に居たいと思っている」
「反対などしないよ。ただ……、それが彼女の為になるのか? もう一度考えた方が良いんじゃないのか?」
「それは何度も考えたよ。俺が死んだら麻里緒は悲しむと思う。でも、それ以上に、今の俺達は一緒に居たいと思っているんだ」
「おまえがそこまで言うのならば、父さんはもう何も言わん。後の事は任せろ。お前の居なくなった後も、麻里緒さんが幸せでいられるように、出来る限り力になるからな。変な言い方になるが、安心しろ」
「確かに変な言い方だけれど、安心したよ。いろいろ迷惑をかける事になるだろうけれど、よろしくお願いします」
風太が頭を下げると、父は大きく頷いた。
母と麻里緒が楽しそうに会話をしながら、居間に戻ってきた。母が父に向かって不服そうに呟く。
「麻里緒ちゃん、今晩は泊まっていけないんだってぇ」
「すみません」
「日曜日なのに仕事なんですって」
「そうなんです。急に本社の営業部の人が来る事になってしまって、平日に来てくれれば良いのですが」
「まあ、仕事じゃ仕方が無いな」
以前会社勤めをしていた事のある父が、訳知り顔で言った。
母だけならばともかく父までそんな事を言うなんて、風太は両親の考えていることが理解できなかった。
「はじめて来た彼氏の実家に泊まって行く筈が無いだろう! まったく何を考えているんだよ」
まるで小学生が先生にたしなめられて言い訳をするように、母がくぐもり声で言う。
「……だって、娘が出来たみたいで楽しいんだもの……」
そんな親子の会話を、麻里緒は楽しそうに眺めていた。
「じゃあ俺、送って来るから」
「ちゃんと送るんだよ。麻里緒ちゃん、またいらっしゃいね」
「はい、今日はご馳走様でした」
麻里緒は丁寧にお辞儀をして、井坂家を後にした。
「素敵なご両親ね」
「そうかぁ? がちゃがちゃしていて恥ずかしいけれどなぁ」
「そんなこと無いよ。まだ、父と母が生きていた時のこと、思い出しちゃった」
そう言って、麻里緒は風太の腕を抱きかかえるように寄り添った。
「困ったことがあったら、なんでも話してくれよ。俺だけじゃ無くって、父さんや母さんも麻里緒の力になるって言ってくれたから……」
「私って幸せ者だよね」
麻里緒はニッコリと笑って風太の顔を見上げた。その青い瞳に浮かんだ涙が月の光を反射して、キラリと輝いた。