11、零とゼロ
朝食を済ませたあと、暖かい陽光の差し込むリビングで、まったりとふたりきりの時間を過ごしていた。
「子供の頃の写真とか無いの?」
「有るけど……、恥ずかしいから見せない」
「そんなこと言わないで見せてよ。きっと可愛い子供だったんだろう?」
「えー、じゃあ持ってくるからちょっと待っていて」
そう言って、麻里緒は別室に入って行った。
確かに麻里緒の子供時代には興味があった。しかし、風太はその興味だけで子供の頃の写真を見たいと言ったわけでは無かった。それを確かめる事は『麻里緒がミカちゃんの人形ではないか?』という、妄想としか思えない疑念を晴らす事になると思ったのだ。
麻里緒がアルバムを数冊抱えて部屋に入って来た。
「これが最初のアルバム。私が生まれた記念に買ったらしいの」
風太が渡されたアルバムは、表紙に可愛らしい装飾の施されたアルバムだった。最初のページには、生まれたばかりと思われる麻の葉模様の産着を着た青い目の赤ちゃんが写っていた。この子が麻里緒なのだろう。アルバムは五冊に及んで麻里緒の成長を記録していた。幼児の麻里緒、小学生の麻里緒、中学生の麻里緒、高校生の麻里緒。そして、社会人となったスーツ姿の麻里緒。写真の中の麻里緒はしだいに成長して行く。丁寧に写し出されている写真からは、両親の愛が感じられた。
「ほんとだ、赤ちゃんの頃から青い目をしている」
「何それ、疑っていたの?」
「いや、再確認をしただけ……。今と同じきれいな青い目だね」
「でも、父も母も黒い目をしていたから、おかしいんじゃないかって言われたそうよ」
「だって、おばあちゃんは青い目だったんだろう?」
「青い目は劣性遺伝だから、両親が黒い目をしているのに、その子供が青い目になる確率は殆んど零なんだって。小学生の時に理科の先生が言っていたわ」
「みんなの前で?」
「うん、授業中に」
「酷い先生だなぁ」
「そんな事は無いのよ。先生は『確率は低いけれど、ゼロでは無い』って言ってくれたの。その時に、零はゼロでは無いって教わったよ」
「零とゼロ?」
「うん、ゼロは皆無だけれど、零は極めて小さいとか、ほとんど無い事を示すんだって。だから、零は無いのでは無くって、ちゃんと存在する。そう言っていた」
「ふーん、今まで零は日本語でゼロは英語、同じ意味だと思っていた」
「たいていの人はそう思っているみたいね」
「そうかぁ、零はゼロでは無いのかぁ。麻里緒を弁護してくれたんだね」
「うん、今はそうだったんだろうと思っている。その時は泣いちゃったけれどもね」
そう言いながら、麻里緒は笑顔を見せた。
その時、風太は『自分の病が直る可能性はゼロなのか? それとも零なのか?』そんな事を考えていた
「ところでさぁ、俺の両親に会ってもらえないかなぁ」
風太は残り数ヶ月という余命宣告をされている。しかし、その数ヶ月を麻里緒と共に生きて行きたいと思っていた。麻里緒も同じように考えているだろう。
「ご両親に紹介してくれるの? うれしい!」
麻里緒は風太に抱きついて喜んだ。風太は麻里緒の身体を受けとめながら、自分に残された時間を考えると、一日でも早く両親に会わせたいと思った。
「今日なら親父もいる筈だから、これから行かないか?」
麻里緒は表情を曇らせた。
「今から?」
「そう、早い方が良いと思うんだ」
「でも……」
「嫌か?」
「嫌じゃないけれど……、すぐはダメ!」
即座に了承してくれると思っていた風太は戸惑った。『なぜ?』の文字が風太の脳内を駆け巡る。しだいに大きく膨らんだ二文字が言葉となって発せられた。
「なぜ?」
「なぜって、決まっているじゃない。ご両親に会う前に、美容院に行かなくちゃ。それに何を着て行こう? えっと、ちゃんとした格好の方が良いわよねぇ。でもスーツは堅苦しいでしょう? やっぱりワンピースが良いわよね。春っぽいワンピースなんて持っていたかしら? 最近は新しい服なんか買って無いからなぁ。こんなことならもっと、ファッションに気を使っておくんだった。どうしよう?」
麻里緒は困った顔で風太を見上げる。疑心が渦巻いていた風太の心は一気に晴れわたり、清々しい春風が吹き抜けた。
「普段のままの麻里緒で良いよ。俺の好きになった麻里緒は、飾り立てた麻里緒じゃなくて、素のままの麻里緒なんだから」
「そんな訳に行かないわよ。まったく風太は女心が解って無いんだから! そうだ、今から買い物に行きましょう。そして美容院に行って……。うん、夕方には何とかなるわね」
風太と麻里緒はショッピングモールに居た。麻里緒は春らしいワンピース選びに奔走していた。五軒の店舗を回り、清楚で春らしい桜色のワンピースを手に入れた。風太はすっかり疲れ切っていたが、麻里緒はそんな風太を休ませる気など更々無かった。
「次は靴ね。靴屋さんに行きましょう」
「はいはい」
風太が異論を挟む隙は全く無かった。靴は一軒目の店舗で決まった。ホッとしている風太の手を引っ張って、下着売り場へと連行した。
「下着は別に良いんじゃないか?」
「いいえ、大事なことよ。見えないからって手を抜くなんて出来ないわ。下着まで整えると気合の入り具合が全然違うんですからね!」
麻里緒の気合いに押され、風太は女性用下着売り場の中に居た。店の前で待っていようと思ったが、麻里緒はつないだ手を離そうとしなかったのだ。
「ねえこれ、可愛いと思わない? でもちょっと派手かなぁ? こっちの方が清楚な感じで良いかなぁ? ねえ、どっちが好き?」
どっちが好きかと問われても困ってしまう。風太は困ったあげくに、ちょっとした悪戯心で答えの方向性を変えた。
「清楚もいいけれど……、俺としてはエロいくらいの際どいヤツが良いかな?」
風太はニヤリと笑って見せた。
「もう、エッチなんだからぁ。でも、ギャップかぁ。清楚なワンピースの下は際どい下着ね。それもいいかも」
風太は自らの発言を後悔していた。なぜならば、異様に布地が少なかったり、下着としての機能を有しているのか疑問のある形状だったり、はたまた着ている意味があるのかよく解らない程透けている下着が陳列されているコーナーへと連行されたからだ。そこでも、『これはどう?』『こんなのは好き?』『ねえどっちが良い?』などと意見を求められたのだ。
風太の困惑をよそに、麻里緒は下着選びを完了した。選んだ下着は、可愛らしい淡いピンク色だったが、布地が少な目で透け感の有るものだった。
「これでよし。私は美容院に寄って帰るから、風太は荷物を持って先に帰っていてね」
麻里緒はそう言うと、ワンピース・靴・下着の入った紙袋を風太に渡して美容院へと入って行った。疲れ切った風太は荷物を抱え、ひとりで麻里緒のマンションへと戻った。
風太がマンションに帰ってから二時間ほどの時が流れた後、麻里緒が帰ってきた。
「ふー、疲れた。さてと、出かける準備をしなくちゃね。ご両親には連絡した?」
「さっきしておいたよ。紹介したい娘がいるから、夕方連れて行くって言っておいた」
「何か言っていた?」
「電話に出たのは親父だったから、『そうか、わかった』だけ」
「急だから、お母さんは今頃大忙しだろうなぁ。悪いことしちゃったかな」
「そうかぁ?」
「まったく、男の子は何も解かってないんだから……。よし、準備完了。どう?」
麻里緒は風太の前でターンしてから、モデルのようなポーズをとって見せた。
「うん、かわいい!」
そう言って微笑む風太だったが、可愛らしい清楚なワンピースの下に、あの下着を着けているのかと思うと、なんとなく落ち着かない気分になっていた。
二人は肩を並べて流れ橋を渡り、風太の実家へと向かった。