01、帰郷
薄手のカーテンを通して、朝日がベッドを照らし始めた。男は眩しそうに目を細めたまま、枕元の時計に手を伸ばす。
「もう七時か……」
独り言を呟いてから、フリースのパーカーを羽織ってベッドから抜け出し、キッチンへと向かった。
細口のケトルを火にかけてから、洗面所で顔を洗う。しばらくするとケトルの蓋がカタカタと鳴り、湯が沸いた事を知らせた。コンロの火を止め、トースターに食パンを放り込んでタイマーをセットする。ドリッパーにペーパーフィルターをセットし、レギュラーコーヒーを計量スプーンで計り入れ、ゆっくりと湯を注ぐと部屋中がコーヒーの香りで満たされた。
焼き上がったトーストと香り高いコーヒーで朝食。いつも通りの朝がやって来た。ゆったりした朝食を済ませた後、あわただしく準備をして会社へと向かう。それが男のいつもの朝だった。しかし、今はその必要はなくなっている。男は一週間前に会社を辞めてしまったからだ。
今日は実家へ帰る事になっている。帰ると言っても、帰省では無く帰郷だ。つまり、現在のアパートを引き払って、実家に移り住むということだった。引っ越しの準備は昨日までにあらかた終えてある。朝食の後片付けと着替えを終えれば、十時に来る引っ越し業者を待つのみだ。
男は東京最後の朝を、ゆったりと楽しんだ。
時計の針が十時を指そうとしている頃、トラックのエンジン音が聞こえて来た。エンジン音はアパートの前で止まり、続いて足音が近付いて来る。
「時間通りだな」
チャイムが鳴らされるのを待ってから玄関へと向かった。
男は荷物を引っ越し業者に託すと、電車で故郷へと向かった。
男の名は井坂風太、二十五歳。大学を卒業した後、都内で就職して三年が経とうとしている。やっと仕事にも慣れて来た頃だったが、とある事情で会社を辞める事になったのだ。とある事情と言っても、仕事上で問題が起きたわけではない。本来の意味での『一身上の都合』で仕事を続けることが出来なくなったのだ。
風太の生まれ育った町は、都心から電車で一時間程の距離に位置する。最寄り駅周辺には、マンションが建ち、その後ろには新興住宅街が広がっている。そこの住人たちのほとんどは東京に職場を持っていて、朝の通勤時間帯にはサラリーマンたちの列が駅へと吸い込まれて行く。
この駅は風太が中学生になった年に開業した新線の駅だ。周辺には都会風の洒落た店舗や、全国展開のチェーン店も出来て、風太が子供の頃とは全く違う街になってしまっていた。
風太は駅前の洒落たイタリアンレストランへと入って行った。
「いらっしゃいませ」
笑顔で近付いて来るウェイトレスを眺めながら、風太は窓際の席に座った。午後一時を少しまわった店内の客は、若い主婦らしき二人組が居るだけだ。最も遠い席に座っているにも拘らず、会話の内容まで聞き取れる。自分のダンナへの不満を声高に語り合う主婦たちの気持ちが、風太には理解出来なかった。
ウェイトレスも主婦たちの会話には全く興味なさげに、黙ったまま風太のテーブル横に立ち注文の言葉を待っている。そんな中、風太の発した言葉は、彼女にとって想定外の言葉だった。
「光は居る?」
ウェイトレスは一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻し「少々お待ち下さい」と応えて、店の奥へと入って行った。
たいした待ち時間も無く、光はあらわれた。
「よう、帰って来たのか?」
「ああ、今日からこっちに住む。よろしくな」
「何があったんだよ」
「追々話すよ。それよりも何か美味いものを食わしてくれよ」
「俺が焼くピッツァなんかどうだ?」
「ピザか、ちゃんと焼けるのかよ」
「ばーか、ピザじゃ無くて、ピッツァだ。ピッツァ担当は俺だぜ。この辺じゃぁ、美味いピッツァだって評判なんだぞ」
「じゃあ、その評判のピッツァってやつを試しに食ってみるか」
「ちょっと待っていろ。とびっきり美味いピッツァを食わしてやるよ」
そう言って、光は厨房へと消えて行った。
光と呼ばれた男は海老原光、二十五歳。風太とは中学の同級生だ。この店も、元々は光の親父さんがやっていた洋食屋だった。しかし、新線が開業してから街の雰囲気が変わって、古びた洋食屋には客が来なくなってしまった。
東京で修業していた光の兄貴が戻って来たのはその頃だった。店の経営も親父さんから兄貴に代わり、古びた洋食屋は洒落たイタリアンレストランへと変貌を遂げたわけだ。光は大学を二年で中退してこの店で働いているから、もう五年になるわけだ。
窓の外を眺めていた風太の前に、二人分の胃袋を満たすと思われるサイズのピッツアを運んできたのは光だった。
「俺の自信作だ。生ハムとルッコラのピッツァ」
「デカイな。俺を太らせる気か?」
「おまえを太らせて、俺になんの得がある? とにかく食え!」
風太はピッツァを一口食べて光を見る。
「うまい! なかなかのもんだ」
「当たり前だろ。俺が焼いているんだからな」
コーヒーを運んできたウェイトレスは、笑い合っている二人を見て不思議そうな顔をしていたが、すぐに奥へと引っ込んで行った。
「おまえ、今度の土曜日は暇か?」
「帰って来て早々、『暇か?』は無いだろう」
風太の抗議には応えず、光は話しを続けた。
「実はなぁ、合コンをやるんだけれど人数が一人足りないんだ。お前も来てくれよ」
「俺は止めておくよ。そんな気分じゃないんだ」
「そんなこと言わないでくれよ。な、一生のお願いだ!」
これまでに、風太は光の『一生の願い』を何度叶えてやっただろうか? 光の『一生の願い』は口癖みたいなものだが、これほど真剣に拝まれたのでは断りきれない。光は、そんな風太の性格まで見抜いた上で、魔法の言葉のように『一生の願い』を使うのだ。
「仕方が無いなぁ。今回だけだぞ」
「サンキュー。詳しい事は後で連絡するから、よろしくな」
光の焼いたピッツァを食べ終わると、風太は店を出て歩き始めた。家に電話をすれば、父が車で迎えに来てくれるのだが、実家は川を一本越えた向こう側に在る。車だと橋を渡る為に迂回しなくてはならない為、十分ほど掛かってしまう。迎えを呼んでも、待ち時間の十分プラス帰りの十分で二十分の時間が必要になる。
しかし、川には車の通れない木製の橋が架かっている。徒歩ならば迂回せず、ほぼ最短距離で行く事が出来るから、十五分も歩けば着く距離だ。風太は徒歩を選択した。
マンションや店舗の建つ駅前を離れ、住宅街を抜けて行く。五分も歩くと、そこは昔ながらの田園風景へと変貌する。風太が子供だったころは、こんな風景が一面に広がっていたのだ。
土手を越えると木製の橋が架かっている。欄干の付いていない沈下橋と呼ばれるタイプの橋だ。沈下橋と言えば、高知県の四万十川が有名だが、東京近郊のこの街にも未だに残っている。四万十川の橋と違って洪水の際には橋脚だけを残し、橋自体は流れてしまう様に出来ているので、正確には『流れ橋』というらしい。最近は治水が進んだ為か、かなりの年寄りで無い限り、この橋が流れた場面を見ていない。それでも呼び名は『流れ橋』で通っていた。風太たちが子供の頃には、ここで魚釣りなどをして遊んだものだったが、今では子供たちの姿は無い。
風太は橋の中央に腰掛け、まだ両親に話していない『一身上の都合』を、どの様に話すか思案し始めた。