14.一緒に、ねんねしてください
アンナ・アンリが意識を取り戻した時、彼女の顔に何か柔らかいものが触れていた。なんだろう?と思って見てみると、布を重ねて作った即席の枕の上に頭が乗せられてあった。
それから彼女の視界に自分の腕が見える。それに驚いて、彼女は飛び起きた。
“手が戻っている?”
そして、意識を失う前のことを思い出す。そうだ。オリバー・セルフリッジという男が訪ねて来て、自分に飲み物やパンを与えてくれたのだ。その男が幼虫の姿をした自分の右手に頭を噛まれてしまったので、自分は咄嗟に治癒魔法を使った。すると、何故か手足が元に戻って……
「ああ、良かった。目を覚ましましたか」
彼女が考えを整理している最中に、そんな声が聞こえた。
オリバー・セルフリッジだ。まだ、村には戻っていなかったらしい。
彼女はその姿を見て、安心感を覚えた。
……まだ、いてくれたんだ。
無意識のうちにそう思う。
が、そこで彼女は自分の下腹部の異変に気が付いた。
なにかスース―している。
それからセルフリッジが何をやったかを察し、視線を向ける。その意図に彼は直ぐに気付いたらしく、慌ててこんな言い訳をした。
「すいません。そのままでは気持ち悪いだろうと思って、下着を脱がせました…… 不衛生ですし。
その、安心してください。誓って中を見たりしてはいませんから。少し、濡らしたタオルで拭いたりはしましたが」
それを聞いて、彼女は彼を睨んだが、実を言うとそれに怒りは伴っていなかった。
彼女にはそんな余裕はなかったし、彼に自分の弱点をさらしたのは、何故か、少しだけ心地良いような気すらしていたからだ。
ただ、やっぱり、恥ずかしそうにはしていたが。
「喉が乾きませんか?」
その視線を誤魔化す為か、彼はそれから水筒を見せてそう言った。
「飲みます」
怒っている振りをしながら、彼女はそう答える。口を開けた。そこで自然と彼に飲ませてもらおうとしている自分に気が付き、もう手があるからその必要はないと思い至ると、慌てて差し出された水筒を彼の手から奪い取るようにして受け取った。
喉を鳴らして、水筒の中のドリンクを飲み干す。
やっぱり、美味しい。
後で作り方を教えてもらうかなどと、彼女は呑気に考えた。
「さて」
アンナがそれを元気に飲み干すのを見終えると、セルフリッジはそう言って立ち上がった。
「いつまでもここにいる訳にもいきませんね」
そして、横になっている彼女を抱きかかえて持ち上げた。
「あの、何処へ?」
それに少しだけ驚いて彼女はそう尋ねた。
「あなたの屋敷の中です。ロックはもう外せますよね? 屋敷の中でゆっくりと休みましょう。手足が幼虫になる症状は消えましたが、病気が治ったわけではありません。まだ病原菌は体内に残っています。充分に体力を回復させなくては」
その説明に「自分で歩けま……」と彼女は言いかけたが、そこで手足に力があまり入らない事に気が付いた。
「無理は禁物です。あなたの体はまだまだ弱っているのですから」
その様子を見て、彼は彼女を深く労わるような声でそう言った。彼女はそれに何も返さない。
ただ、彼が自分をとても大事なものを扱うように、優しく確りと抱きかかえてくれていることに、言い知れぬ安心感を覚えていた。
下着は脱がせてあったが、彼女の衣服はまだ汚物が付着しており汚れている。それをまったく気にせず、彼は彼女を落とさないように体全体で支えていた。もちろん、その所為で、彼の身体や衣服には、彼女の汚物が付着してしまっていた。
申し訳ないと思うのと同時に、彼女はそれを嬉しく思っていた。
彼女には今が何時なのか分からなかったが、まだは外は明るかった。午前なのか、午後なのか。太陽の傾きを見る限りでは、午後のまだ早い時間帯くらいが妥当かもしれない。
明るい場所に出ると、セルフリッジの頭から流れ出た血の痕がよく見えた。アンナはそれを見て思い出したのかこう尋ねる。
「そう言えば、どうしてわたしの手足は元に戻ったのでしょう? あなたは知っているのですよね? 教えてください」
セルフリッジは少し考えてから、こう説明した。
「簡単です。その病気は“憎しみ”の感情を利用して、魔法使いから魔力のコントロールを奪うのです。それであんな症状を引き起こす。しかも、厄介なことに、一度憎しみに取り憑かれると、より憎しみを増すように促す性質をも持っている。
手足が幼虫に変わる症状を消し去る為には、だから、憎しみの感情をあながた忘れる必要があったのです」
それを聞いてアンナは、あのイザベラという女が執った罠の正体を理解した。
恐らくは、あの女はこの辺りに病原菌をばら撒いて、自分を感染させていたのだ。それから、わざと憎しみを抱かせる為に自分を挑発し、両手両足が幼虫の姿に変わるあの症状を引き起こさせた。
「……どうしてもっと早く教えてくれなかったのです?」
それから文句を言うように、彼女は彼にそう言った。
「言ってしまったら、効果が半減してしまいますから」
「やっぱり、わざとあの幼虫の攻撃を受けたのですね。無理矢理に憎しみを忘れさせて、わたしを治す為に」
「はい。あなたが優しい人だと信じていましたから」
その発言にアンナは少し怒った。
「冗談じゃありません! 一歩間違えれば、あなたは死んでいたのですよ?」
「言ったでしょう? 僕はあなたが優しい人だと信じていたのです。あの幼虫はあなたの心が変じた姿。コントロールを失っていたとはいえ、あなたなら、僕を殺すような真似はしません」
そんな事を言われてしまっては、もう彼女には何も文句は言えなかった。大事そうに自分を抱えている彼の温もりが彼女に安心感を与え続けている。
屋敷の中に入ると、アンナはセルフリッジに戸棚の中に置いてある小瓶を取るようにとお願いした。「魔力が回復する薬です」と、そう説明する。その薬を飲み終えると、彼女は今度は彼に「お風呂に入りたいです」と訴えた。
いつの間にか、アンナ・アンリはオリバー・セルフリッジに対し、遠慮なく甘えるようになっている。
「分かりました」と、彼は応えると、「それでは、お湯を沸かしてきますので、あなたはここで休んでいてください」とそう告げる。それから彼は、「無理はしないでくださいよ」と言うと、足早に風呂場の方に姿を消した。
彼女はまるで召使いのように彼を使っているが、何故か自分の方が立場が上とは少しも思えなかった。
守られている。
そんな感覚が、彼女をそうは思わせないのかもしれない。
しばらくしてセルフリッジは戻って来ると、「お風呂の準備ができました」と告げた。アンナはそれを聞いて、立ち上がろうとする。すると彼はとても心配そうに「一人で大丈夫ですか?」と尋ねて来た。
彼女はそれにくすりと笑う。
「先ほどの薬で魔力が回復しているので、お風呂に入るくらいならもう大丈夫です。それとも、またわたしの体が見たいのですか?」
そして、そう言った。
「いえ、ですからさっきは見ないようにしていましたから!」
それに彼はそう必死に言いを訳した。彼女は可笑しそうに「どーだか」と返すと風呂場に向う。
多少は足取りに不安な点もあったが、問題なく彼女は歩けていた。ただ、それでも彼は彼女が心配であるらしく、後を追って来る。着替えの最中も、風呂に入っている間も、直ぐ外で待機していたようだった。
事情が事情でなければ、変態じみた行為だ。もっとも、彼女は決してそれを不快には感じていなかったのだが。
身を清め、身体を温めて、風呂から出て来ると、彼女は再び強い疲労感と、そして眠気を覚えた。病に侵されているからだろうか、熱っぽいような気もする。だから、そのまま柔らかいベッドを目指し、その上で横になった。
ただ、不思議にも眠れなかった。
どうしてなのかと少し迷ってから、彼女は気が付いた。
――彼が、オリバー・セルフリッジが、傍にいないからかもしれない。
彼は彼女がベッドで横になるのを見届けると、何処かへと消えていたのだ。ただ、少し経ってから戻って来た。
その時彼は着替えを済ませており、「軽く部屋の掃除をしてました。それと、お風呂を勝手に使わせてもらていました。すいません」などと説明をした。
どうも、“アンナの病気が治るまで戻る気はない”と言った言葉は本気だったようだ。泊る準備をして来ている。
それから彼はアンナのベッドの横に椅子を持って来て座った。何かの本を広げている。腰を据えてしまった。彼女の看病をする為だろう。
「あの……」
しばらくして、アンナはそんなセルフリッジに話しかけた。
「わたしの病気が治るまでは、村には戻らないと仰いましたよね? それに、あなたにはこの病気は伝染らないとも」
セルフリッジは、顔を見上げると穏やかに笑いながら「はい」と応えた。
「だからこうして、ここにいます」
それを聞いて彼女は少し黙る。何か思い詰めたような表情。
「少し熱っぽい気がするんです。まだ病原菌は消えていないと言っていましたが、もしかしたらその所為でしょうか?」
それにセルフリッジは頷く。
「はい。恐らくはそうだと思います。少し風邪っぽくなるのも、その病気の症状の一つなんです」
それを聞いて、少し悩むと彼女は再び口を開いた。
「あの…… わたしは、あなたが思っているほど優しい人間ではありません。それに強くもない。
だから、怖いんです。眠っている間に、憎しみが蘇って来て、また自分の肉体が幼虫に変わってしまうのじゃないかって……」
それから彼女は目を潤ませながら、彼に向ってこう訴えて来た。
「だからお願いします…… 安心したいんです。
どうか、一緒に、ねんねしてください」
その言い方と彼女の態度に、オリバー・セルフリッジは少なからず驚いていた。そして思い出す。彼女の師のログナは、みなしごだった彼女を拾って来て、自分の弟子にしたという話を。
ログナは彼女にとって親のような存在だったのだろう。だが、恐らくログナは愛情を注いで弟子を育てるようなタイプではない。
――もしかしたら、闇の森の魔女、アンナ・アンリは、ずっと愛情に飢えたまま今まで育って来たのかもしれない。
自分でも無自覚になるほど、その感情を押し込めたまま。
或いは、恐ろしい病に侵され、あまりにも過酷な体験をし終えてようやく安全な場所に戻って来た今、その渇望が一気に溢れ出し、幼児退行のような状態に陥っているのかもしれない。
「はい」
少し迷ったが、オリバー・セルフリッジはそう答える。そんな表情で懇願されては、断れるはずがない。そして彼は彼女の布団の中に身体を潜り込ませた。それにアンナは、それこそ本物の子供のような無邪気な笑顔で顔を明るくする。
ただし、少しばかりセルフリッジは不安になっていた。
布団に入って来た彼に、彼女は身を寄せて甘えて来た。
彼女のこの信頼を裏切る訳にはいかない。
堪え切れるだろうか? 自分の下半身……
朝。
「あの……」
そんな控えめな声で、オリバー・セルフリッジは起こされた。
見ると、アンナ・アンリが少し頬を赤くしながら、ベッドの上に座っている。
「朝です。もう、すっかりと病気は治ってしまったみたいです」
そう彼女はそれから告げた。
「はい。良かったです」
彼も身を起こすとそう返す。
笑顔で誤魔化していたが、内心では“良かった。なんとか堪え切れましたか”と、彼は安堵していた。
自分の下半身。
しかし、どことなく、彼女の様子はおかしかったのだった。
「あの……」
と、また彼女は口を開く。
「昨日のわたしは、ちょっとおかしかったんです。なんと言うか、誰かに甘えたくて仕方なかったと言うか、甘えるのが当然のような気持ちになってしまっていて……」
それを聞いて、セルフリッジは安心した。どうやら彼女は正気を取り戻したようだ、と。ただ、その一方でやや残念にも思っていたのだが。
「はい。分かっていますよ。病気の時は、誰でも心細くなるものです」
そして笑顔でそう返した。
が、まだアンナの様子はおかしかった。
「それで、よく考えてみたら、とっても悪い事をしていたなって、朝になって気が付いたんです。
……お辛かったでしょう?」
顔を赤くし、目を泳がせている。
チラリとだけ、彼の身体の下の方を彼女は見た気がした。
……恐らくそれは、セルフリッジの下半身の事を言っているのだろうと思われた。