13.治療の手伝い
アンナ・アンリがいた倉庫の扉は開けたままになっていた。だから、オリバー・セルフリッジが近付いて来る前から、その足音が倉庫の中にまで響いて来ていたはずだった。だが彼女は彼が扉の前に来るまで、彼の接近に気が付かなかった。
それだけ衰弱していたのかもしれない。
だから、
「――あなたが、闇の森の魔女のアンナ・アンリさん、ですね」
と、言って彼が倉庫の扉から顔を出した時、彼女は非常に驚いた。
オリバー・セルフリッジは、やや背の高い痩せ型の体形をしており、大きなリュックを背負っていた。彼は彼女の返答を待たずに、倉庫の中に足を踏み入れて来た。
その姿を一目見た瞬間から、彼女は彼への敵意を剥き出しにした。
「何処のどなたかは知りませんが、近づかない方が良いのではありませんか? この姿を見れば異常だと直ぐに分かるでしょう?」
ところが彼はそれに「ご安心を」とそう返すのだった。
「僕には医術の心得があります。それにその病気の抗体を持っていますから、僕にはその病気は伝染りません」
病気?
その言葉にアンナ・アンリは驚いた。
「これは病気なのですか? 呪いではなくて?」
「なるほど」と、それを聞いてオリバー・セルフリッジは言う。
「あなたの師のログナさんが開発した魔法研究の手法は大変に素晴らしいですが、対人用のものではない。その弱点を突かれましたか。
それは呪いではありません。非常に珍しい奇病です」
それを聞くと彼女は口を一文字に結んだ。
「それで、その奇病に侵され、異形の姿になったわたしを、あなたは笑いに来たというわけですか?」
数日前、近くの村の人間達がやはり彼と同じ様にこの場所を訪れた。彼女は助けてくれるのではないかと淡い期待を抱いたのだが、その人間達は彼女の姿を見るなり、「なんというおぞましい姿だ」、「これは近づかない方がいい」などと口々に侮蔑の言葉を吐いて、直ぐに逃げ出してしまったのだった。
彼女は、だから彼も同じだろうと考えたのだ。
ところが彼はそれに「いいえ」と即答する。
彼女はそれを信じない。
「嘘を言わないでください。このおぞましく醜い姿を笑いに来たのでしょう?」
彼はそれにまた即答した。
「いいえ、違います。それに、醜いなどとんでもない。あなたは僕が今まで見た中で一番美しい人です」
アンナ・アンリはその彼の言葉に驚き、同時に不可解に思った。
彼女には今の自分の姿が美しいとはとても思えなかったからだ。四肢が甲虫類の幼虫の姿になっているばかりではない。身動きの取れなかった彼女の衣服は、彼女自身の汚物で汚れていたのだ。
ただし、彼が嘘を言っているようにも彼女には思えなかった。
彼が特殊な性癖を持っているのでなければ、その言葉には特別な意味があるはずだった。だが、そんな事を気にかけていられる余裕は今の彼女にはなかった。
「よく分かりませんが、もう充分です。あなたは招かざる客です。これが病気だと分かれば、あとは自分で何とかします。さっさとここを立ち去ってください」
それにオリバー・セルフリッジは
「絶対に、嫌です」
と、きっぱりと力強く応える。
「僕はあなたのその病気が治るまで、村に戻る気はありません」
「あなたがこの病気を治療するというのですか?」
「違います。僕にはその病気は治せない。治すのはあなた自身だ。ただ、治療の手伝いならばできます」
治療の手伝い? なにそれ?
少なからず彼の言葉に期待していた彼女はそれを聞いて落胆した。よく分からないが、治せないのであれば近くにいられても邪魔になるだけだ。
……自分は、この幼虫達をコントロールできていないのだから。
「わたしを助けるつもりですか?」
「助ける? いいえ、助けるなどおこがましい。これは恩返し…… あなたに対する罪滅ぼしです。
どうか、愚かな僕らを許してください」
しかし、その謝罪の言葉を聞いても、アンナ・アンリのこわばった彼を拒絶するような表情は変わらなかった。それを見て軽くため息を漏らすと、彼は口を開いた。
「恥ずかしい話なのですが、村に住む子供から、あなたを助けてくれるようにお願いされるまで、あなたが村の恩人なのだと僕はまったく気が付いていませんでした。
状況を整理するのなら、至極当然の事なののに。もう一度言います。どうか愚かな僕らを許してください」
「何の事でしょう?」と、それにアンナは返す。
「二、三か月前に、あなたは子供を助けたでしょう? その子が、あなたを助けて欲しいと僕の処にやって来たのですよ……
それで僕は悟ったのです。あなたが、ここらで村人達を襲っていた、軍事用の魔法疑似生命体を退治してくれていたのだと……」
数か月前から、この辺り一帯には、何故か軍事用の魔法疑似生命体が多数出現するようになっていた。
戦争でも起きない限り、減り続けるのが必然のはずの魔法疑似生命体の数が増えるのは明らかにおかしい。
アンナ・アンリはそれを不可解に思ったが、“国がヘマをして、魔法疑似生命体を逃がしでもしたのかもしれない”と考え、大して気にしていなかった。
恐らくは、失態が明るみになるのを恐れて、国は事件をもみ消したのだろう。
いかにもありそうな話だ。
彼女はそれでこの辺り一帯を監視するようにした。そしてその監視網に、魔法疑似生命体が引っ掛かる度に退治していたのだ。軍事用の疑似生命体は、放っておけば動植物を襲う。人間だって襲われる。いずれ、悪い影響しか及ばさない。
その時、一度だけ森で迷子になった子供を彼女は助けた事があった。その子を襲っていた疑似生命体を退治してから、村にまで連れて行ってあげたのだ。
「もう、一人で森に入っちゃダメよ」と、優しく注意して。
恐らくはその子が彼女を助けるように、オリバー・セルフリッジにお願いしたのだろう。
「あなたが魔法疑似生命体を造って放っているのだという噂話を聞いた時、僕は全く疑わなかった。あなたは研究で魔法疑似生命体を用いていますし、村人達の間であなたは恐れられてもいましたから……
今思えば、とても浅はかです」
オリバー・セルフリッジはそう語り終えた。
そう。
彼の言う通り、いつの間にか魔法疑似生命体が徘徊するようになったのは、闇の森の魔女が原因だという事になってしまっていたのだ。実験の為に、闇の森の魔女が魔法疑似生命体を製造し放っているのだ、と。
そして、その所為で、彼女には懸賞金がかけられてしまったのだった。
しばらくが経つと、賞金稼ぎ(バウンティハンター)を自称する女がこの土地にやって来た。イザベラという名のその女は、配下に男達を十数人ほども従えていた。
それほどの規模となると、冒険者ではなさそうだった。彼らは貧乏だ。その女は賞金稼ぎ(バウンティハンター)だと言ってはいるが、普段は別の仕事をしているのだろうと思われた。
が、いずれにしろ、アンナ・アンリは大して気にしなかった。
何十人だろうが、何百人だろうが、“闇の森の魔女の魔術”の敵ではないと考えていたからだ。
しかし、それが油断だった。
イザベラというその女は、あっけなく結界を破って彼女の屋敷にまで侵入して来たのだ。もっとも、その程度ならば恐れるに足りない。どうせ、彼女には敵わないのだから。
しかし、イザベラというその女は、変則的な手段に出た。何故か、このような事を告げてアンナを挑発したのだ。
「ごめんなさないねー。あなたが疑似生命体を造ってばら撒いているって噂を流したのは、実はアタシ達なのー。
その所為で、あなたは村の人達から嫌われちゃって、あー、カワイソー」
その言葉にアンナは目を剥いた。
なんだと?
イザベラは続けた。
「しかし村の人達も愚かよね。その言葉を信じて、あなたに懸賞金までかけちゃって。本当は自分達を助けてくれていたのは、あなただっていうのにね。
ま、お陰でこっちは懸賞金を稼げて大助かりなんだけど」
アンナ・アンリはその言葉に激怒した。自分では無自覚だったが、彼女はどうやら守ってあげていた村人達から嫌われた事に深く傷ついていたらしかった。
「この女ー!」
そう叫びながら、魔法を使う。闇という闇の中から、黒い亡霊のようなものが浮かび上がり、一斉にイザベラとその男の従者達に襲いかかろうとする。
しかし、それが罠だった。
どんなトラップだったのかは、彼女には分からなかったのだが、その瞬間、彼女が使った魔力を吸収してか、彼女の両手両足が巨大な甲虫類の幼虫の姿に変わってしまったのだ。
なにこれ?
その異変に慄く彼女を、イザベラは笑う。
「かかったわね! アハハハハ! なんて間抜けな女でしょう!」
両手両足が変じた幼虫は、大いに荒ぶってイザベラに襲いかかった。しかしその攻撃をイザベラは簡単に躱してしまう。
「あっっっと、あっぶなーい! こりゃ、凄い魔力だわ!」
余裕すら感じられる身のこなしで、とても楽しそうに。
幼虫はイザベラを追撃したが、彼女は巧みにそれを躱しながら逃げてしまう。倉庫のある方角に向っている。
アンナにはその幼虫達をどうする事もできなかった。魔法を使ってなんとかしようとすると、益々幼虫達は荒ぶってしまう。そして、そのまま幼虫達は、猛烈な力で彼女を引っ張り続けたのだった。
「鬼さん、こーちらー 手の鳴る方へ~」
イザベラがそう挑発する。
飽くまでアンナをからかうような態度は変わらない。
それからイザベラは倉庫の中に逃げ込んだ。幼虫達に引っ張られて、アンナ・アンリもその中に入ってしまう。
そして、その倉庫の中で、イザベラは姿を消したのだった。どうやら倉庫の窓から外へ逃げたようだ。
目標を失った幼虫達は、それからデタラメに蠢き始めた。法則性も統一性もない。アンナ・アンリはまったくそれらをコントロールできなかった。
出られない?
ランダムなその動きでは、偶然、倉庫の扉から抜け出る可能性は極めて低そうだったのだ。
「んふっ」
そしてアンナがそんな恐怖を覚えたタイミングで、とても可笑しそうなイザベラの声が倉庫の中に反響した。
「もうこれで、あなたはその倉庫の外には出られないわよ。そのお馬鹿な幼虫達は、反応する事しかできないの。アタシはもう姿を見せないから、ずっとそこで動き回っているだけってワケね」
その声に向けてアンナ・アンリは怒鳴る。
「ふざけないで! あなた、自分のした事を分かっているの? ここから出たら、八つ裂きにしてやるから!」
するとイザベラは嬉しそうな声でこう返した。
「あら? それは面白いわね。楽しみにしているわ。でも、どーやって、そこから出るつもりかしら?
その両手両足は、もうずっとそのままよ? あなたはそこから出られない。そこで衰弱して死ぬだけなのよ?」
アハハハハハ!と、笑い声が響く。
アンナは歯を食いしばる。少しの間の後でイザベラの声は言った。
「それじゃ、アタシはもう行くわ。お前みたいな気持ち悪い姿の女の近くになんて、もうこれ以上片時だっていたくないし。
えーんがちょ! じゃあ、ねー!」
それから、また「アハハハ」とイザベラは笑った。その声は急速に遠のいていく。
静かになった。
アンナはそれからイザベラとその手下達が魔法技術関連のデータや道具を盗み出そうとすることを祈った。この屋敷の重要な部分には厳重なセキュリティがかけられている。もし盗み出そうとすれば、無事では済まない。
しかし、それから何のセキュリティシステムも作動はしなかった。
それで彼女は悟る。
連中は自分の事をよく調べた上で、ここに攻めて来たのだと。だから、余計なものには手出ししなかったのだ。
完全に油断していた。
罠にかかってしまった。
どうやら魔力を吸収するらしいこの巨大な幼虫を彼女はまったく知らなかった。こんな呪術が存在するのだろうか? 師のログナの残した資料を調べれば、或いはどこかに書かれているかもしれないが、今の状態ではそれは不可能だ。
しかし、どうにかして解呪の方法を見つけなければ、このままでは本当にあの憎らしい女の言う通りに死んでしまう……
「……僕は村人達からあなたがどんな姿に変わっていたのかを知りました。
イザベラという女が、“闇の森の魔女を退治した”と言うので、それを確かめに彼らはここを訪ねたのですよ。
そしてそれによって、僕はあなたの症状が特殊な感染症によるものだと直ぐに気が付いたのです。ですが、騙されているとは思わなかった」
深く悔いるような表情で、オリバー・セルフリッジはそう説明した。
「おかしいとはその前から思っていたのですよ。魔法疑似生命体を放っていたあなたが行動不能に陥っているはずなのに、疑似生命体の数は減るどころか、むしろ益々増えているのですから。
しかも、あなたが行動不能になるのと同時に、軍隊が魔法疑似生命体討伐の為に動き出すというニュースが流れました。あまりにも迅速で、そしてタイミングが良すぎます」
そこで彼は言葉を切る。そして、アンナを優しそうに見やるとこう続けた。
「そして、子供にあなたを助けるようお願いされた時、その違和感の全てが繋がったのです。
スミニア国は魔法疑似生命体討伐を言い訳にして、国境沿いに軍を進めたがっていたのでしょう。ところが、あなたが退治してしまうからそれができない。そこで、イザベラという女を利用してあなたを罠に嵌めて排除した。
――恐らくは、それが事の真相です」
そこまでを話し終えると、彼はアンナに向ってゆっくりと近づいていった。それに彼女はこう返す。
「あなたは何者です?」
「僕はあの村の住人ではありません。ちょっとした用事で、しばらく滞在しているだけの者です。村にいる間は、医術でお金を稼いでいます」
「医者ですか?」
そう言った彼女の目には、警戒心が含まれてあった。この国の医者は、権力の息がかかった者がほとんどだ。
「違います」
と、それにセルフリッジは返す。
「正式な医療行為ではありません。医療行為だと免許がいりますし、国が上前をはねるために価格を上乗せしてしまうので、とても高くなる。
だから“健康法”という名目で、僕は医術を使っています。もしバレたらまずいですがね」
そう言い終えると、彼は彼女の傍で背負っていたリュックサックを下ろした。そして、その中から水筒を取り出す。
“水!”
彼女はそれに目を奪われる。彼に対する警戒心も不信感もそれで何処かに消えてしまった。
「色々と準備をして来たんです」
そう言って優しそうに彼は笑った。
それから水筒のフタを外す。それを見て、「水筒だけ渡してくれれば、自分で飲みます」と彼女は返す。
「その状態で、どうやって飲むんですか?」
そう言った彼の口調は、彼女を軽くからかっているような、だけど愛おしんでいるような、少しだけふざけたものだった。そして、彼女に飲ませようと水筒を近づけ、彼女の頭を少し持ち上げると、彼女の口の中にそれを注ぎ始める。
「美味しい」
それが終わると、彼女はそう思わず呟いた。ただの水ではない。
「糖分と塩分を混ぜてある特性のドリンクです。胃や腸にも優しいですし、脱水状態にも効果的です。もっと飲みますか?」
その彼女の疑問を察してか、そう彼は説明した。
「く、ください」
気付くと、彼女は思わずそう彼に懇願してしまっていた。彼は「はい」と嬉しそうに言うと、再びドリンクを彼女の口の中に注いだ。
それが終わると、今度は消化に良さそうな柔らかいパンをリュックの中から取り出して、彼女の口の中に入れる。
それも彼女はとても美味しく感じた。
食べ終わると、アンナは言う。
「もう、今度こそ充分です。あなたはこの場から離れてください」
彼は首を横に振る。
「いいえ、離れません。さっきも言いましたが、あなたの病気が治るまで、僕は戻りません」
その言葉に彼女は声を荒げる。
「わたしは、あなたがいては、邪魔だと言っているんです!」
しかし、それを聞いても彼は動こうとしなかった。その時、その彼女の声に反応してか、彼女の右手…… 巨大な甲虫類の幼虫の姿になってしまったそれが“カサカサカサカサカサ”と音を発てて近づいて来た。
“まずい!”
彼女は思う。
「さっさと逃げてください!」
そして、そう怒鳴った。
だが、それでも彼は動かない。しかも、その彼の身体を、彼女の右手は這い上がり始めてしまう。
そして、彼は身動ぎひとつしないで、それをただ黙って受け止めている。
「どうして、わたしの頼みが聞けないんですか?」
彼女はそう訴えた。しかし、その口調からは怒りが消えていた。
「あなたが病気で苦しんでいるからです」
オリバー・セルフリッジは、そう淡々と答える。感情が感じられないのに、その言葉はとても優しく響いていた。
「違うんです」
アンナは再び声を発する。
その声は、怒るどころか、懇願する口調に変わっていた。
「わたし、この幼虫をまったくコントロールできていないんです。早く逃げないと……」
“…あなたを傷つけてしまう”
そう彼女が言おうとしたその刹那、幼虫の凶悪な顎が彼の頭を挟んでしまった。
ダメ!
彼女は心の中で、必死に幼虫に放すように命令したが、幼虫はまったくその通りには動かない。
“ガキッ”という頭蓋を砕く音がする。
「いやぁぁぁ!」という、彼女の悲鳴が響き渡った。
大量の血が、オリバー・セルフリッジの頭から流れている。
“早く治さないと!”
その時、ほぼ条件反射で、彼女は治癒魔法を使っていた。
「駄目です。魔力はもう残り少ないのですから!」
オリバー・セルフリッジはそう言ったが、既に彼女は魔法を使い終えた後だった。眩い光が、彼の頭を覆い、傷を瞬く間に治癒していく。
――そして、そこで彼女は自分の右手が軽くなっているのに気が付いたのだった。何故か、懐かしい感触が。不思議に思って見てみると、彼女の右手は元に戻っていた。
え?
しかも元に戻っていたのは右手ばかりではなかった。抜け殻のようなものだけを残し、幼虫は全て消えていた。あるべき場所に、以前の両手両足が全て揃っている。
「やっぱり、思った通り。あなたは優しい人だったみたいです」
それを見て、そう言ったオリバー・セルフリッジはとても嬉しそうだった。
ただ、喜ぶ前に、なけなしの魔力を使い果たしてしまった彼女の意識は、その時、ショック症状によって、急速に遠のいていってしまっていたのだが。