第2部第64話 サウス・インカン市の一日
(7月23日です。)
今日は、サウス・インカン市内の巡視に出かけた。随行者はシェルとイリス衛士隊長それにケバック行政長官代行だ。サウス・インカン市という名称は、領土割譲交渉が無事終了した後、『サウス・アメリア市』と名称変更するつもりだ。
離宮を出てから、まず市の繁華街に行ってみる。大商店が並んでいるが、どうにも活気がない。人通りは多いのだが、店内は客足が鈍そうだ。ケバック長官代行が、
「この大商店の上得意は貴族達で、後、羽振りの良い騎士やゴロツキ達でした。売り上げが50%以上落ち込んだ店もあるそうです。貴族達の家族は、それぞれ実家に帰ったようだし、また騎士達の家族も、それぞれの郷里に帰ったみたいなので、上得意がいなくなってしまったみたいです。」
と教えてくれた。ある用品店は、『店仕舞いセール中。全品半額。」と刺激的なキャッチコピーが掲げられている。シェルの目つきが変わった。今日は、『市内巡視』だと言おうとしたが、遅かった。僕はケバック長官代行を見て、ため息をついた。ケバック長官代行の目に、哀れみの気持ちが溢れていた。そんな目で僕を見ないでください。
市内巡視は、暫く中断だった。僕は、ボンヤリと街行く人達を見ていたが、あるお店の中から悲鳴が聞こえて来た。イリス隊長には聞こえなかったようだ。僕は走り始めていた。イリス隊長が、必死について来た。悲鳴が聞こえて来たのは大きな両替店だった。両替だけでなく、質屋のようなこともしている。店の前には騎乗用の馬が3頭止まっている。
僕は、店の中に入っていくと、3人の男が剣を抜いて立っていた。黒くて長い布を顔に巻いて、目だけを出している。古典的な盗賊の格好だ。賊達は僕が店内に入ってきたことに吃驚していたようだ。僕は、右手を前に突き出し、『グー』を握って、親指と人差し指だけを伸ばした。そのまま、人差し指を真ん中の賊に向けて一言、
「フリーズ!」
まったく意味が通じなかったが構わない。もう、賊達は動くことが出来なかった。僕の『威嚇』の力の放射で固まってしまったのだ。あ、床の濡れたのは店員さん、きちんと掃除してくださいね。イリスさんが、様子を見に入ってきたので、後の事は任せて店を出た。この店にシェルが入ってきたら大変だと思ったからだ。しかし、ちょっと遅かった。店の入り口でシェルと鉢合わせしてしまった。ああ!
結局、この日の『市内巡視』は、シェルの買い物になってしまい、イリスさんは強盗事件の処理に衛士隊本部に戻って行ったので、ケバックさんも行政庁に戻ってしまった。こんど、ゆっくりと『市内巡視』に行こう。シェルを連れて行かないで。
屋敷に戻ると、セレンちゃんが迎えに来て抱き着いて来た。最近、僕が外出ばかりしているので寂しい思いをしているらしい。セレンちゃんは、推定100歳以上だろうが、ずっとボッチだったため、他人とのコミュニケーション力に欠けている所がある。それと言葉も分からないので、話し相手もおらず、ずっと窓の外を眺めながら僕の帰りを待っていたらしい。それでも、あのダンジョンの中で待つ人もなく、ずっと岩の上に座っていたことを考えれば、食事はきちんと食べられるし、夕方には僕が帰ってくるので時間はあっという間に過ぎていくのだが。
セレンちゃんは、見た目12~13歳位の美少女なので、僕に抱き着くとシェルがジト目で見るが、セレンちゃんにはそんな気持ちは全くない。そう思う。シルフが首に翻訳機を巻いているのだが、歌は歌えるのに、人間族の発音機能が発達していないのか上手く話すことは出来ない。ただ、他人の言葉は理解できるみたいだ。メリちゃんが、色々発音を教えているが、うまく行かないようだ。この子は、速い段階で『白龍城』に移して、専門の言語学者に指導をお願いした方が良いのかも知れない。最終的にはグレーテル語を話して貰いたいのだから。そう言えばシルフが、セレンちゃんに話す時には翻訳機の機能をオフにしているそうだ。僕やシェルが話す時は、グレーテル語だし、セレンちゃんが話す時は『念話』で聴けるから問題ないそうだ。
メリちゃんも、グレーテル語を覚えたいみたいだ。まあ、覚えておいて損は無いと思う。そのうち、この国とゴロタ帝国や、エルフ大公国、グレーテル王国、ヘンデル帝国などと交易が開始され、相互の人間が行き来するようになるのだろうから。でも、メリちゃん、王都で、職人の師匠に弟子入りするんでしょう。最近、そのような話を全くしなくなってきたけど。まあ、戦闘員の一員として活躍して貰っているし、それも楽しいみたいだからいいけど。
夕食後、皆とこれからの活動について話し合った。活動計画というより、戦争準備の話だった。インカン王国は、割譲について絶対に認めないだろう。そうなると、すでに戦争準備に入っているはずだ。敵の勢力は、周辺の貴族の応援次第だが、正規王国軍が15000名、公爵は国王陛下の弟気味と従妹たちなので必ず参戦するだろうから、それが10,000名、侯爵以下が15000名位だろうから、合計で4万人、あと、北の国境で戦闘中の国王直轄部隊が20000名位いるが、この部隊が停戦して帰ってくるには2か月以上かかるだろうから、計算に入れなくても良いだろうとのことだった。
シルフの話では、まだ王国の部隊には動きは無いそうだ。どうしたら良いか悩んでいるだろう。セント・アメリア市から国境まで200キロ、そこから王都まで400キロもあるのだ。4万人の部隊の出撃準備に1か月、それから1日平均20キロの移動速度を考えると、国境に到着するのは、9月中旬以降だろう。しかし、無駄に移動させる糧食などを考えると、早期に決着した方が良いのだろう。相手方の返事次第だが、場合によっては、こちらから先制攻撃を仕掛けたほうが良いこともある。そのためには、宣戦布告が必要だが、とにかく8月1日の期限でどう出てくるか、それによるだろう。
ビンセント君は頭を抱えていた。このまま、王国を裏切るのか、それとも一旦帰任して、それから考えるかだ。しかし、王国が戦争を選んだ場合、ビンセント君はゲシュタルト男爵として間違い無く招集され、部隊を任されてしまうだろう。そんなことになったら、ゴロタ殿と対戦しなければならない。そんな恐ろしい事、考えただけでオシッコがちびってしまう。ああ、どうしよう。
シルフが、ある提案をしてきた。王国の重臣、特にブレードナット宰相とベンジャミン国防軍総司令官は、きちんと道理をわきまえているようなので、この二人をここに呼んで話をしてみたらどうだろうというのだ。うん、それ、かなりいいかも知れない。無駄に軍を招集して余計な戦費を掛けるのも勿体ないし。明日、さっそく行動に移すことにしよう。
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(7月24日です。)
ブレードナット宰相は、ここ数日、よく眠れなかった。この前、王国の進路を国王陛下にお聞きしたところ、『潰せ。』の一言だった。それも愛妾の犬人女を貫きながらだ。厚く張ってある御簾ごしだから、見えはしないが、女の声の様子から何をしているか良く分かった。ゴロタという恐ろしい男の実力やこの前見た空飛ぶ機械に対する対応策が皆無だと言う事も説明したが、『それはそちが考えろ。余は忙しい。』といって、人払いの紐を引っ張られた。私は、そのまま警護の屈強な獣人女どもに両腕を抱えられて後宮御伺所から追い出されてしまった。
今日、朝一番に開催された臨時閣議では、『開戦』が決定されてしまった。我が王国軍は、精鋭35000名とは言うが、本当の精鋭20000は、今、北方戦線で、北の蛮族どもと交戦中だ。向こうには、更に北にある魔人族の国の支援があるようで1か月で圧勝の予定がもう2年も戦い続けている。その戦費を賄うのに四苦八苦しているのに、新しい戦争などできる訳無いではないか。応援してくれる公爵達の騎士隊が、王都まで来るのに10日、糧食や武器を揃えるのに20日間位、部隊を揃えて出発しても相手の本拠地であるサウス・インカン市まで600キロ、通常の移動でも30日もかかってしまう。この間、兵士達が費消する糧食は、天文学的数字になってしまう。また、あの忌々しい大商人達から借金をしなければならない。もう、担保など何もないのに、どうしたらよいのだ。ブレードナット宰相は、幸せが逃げていくのも構わず、深いため息をついてしまった。
ベンジャミン国防長官は、深いため息をついていた。もともとは、一介の騎士に過ぎなかった自分だが、周辺国との小競り合いの度に武勲をあげ、また宝刀『ミステリア』を手にしてからは、王国軍の中でも実力一位と評価されて、この前、王国軍司令官に任じられた。また、その時男爵にも叙せられた。平民の農家出身の自分が男爵になるなど信じられなかったが、これも若いころから苦労を一緒にしてきたブレードナットのおかげだ。国王陛下もブレードナットの言う事なら常に『良きに計らえ。』だし。しかし、戦況は超厳しい。あの精鋭20000が北方前線から帰ってきたのなら何とかなるかも知れないが、今の現有勢力では心元ない。とにかくまともに魔法を使える者がいないのだ。現代の戦争は、剣や弓矢ばかりでは絶対に勝てない。相手を上回る攻撃魔法により、相手を無力化してからの直接攻撃、これが味方の損耗を最小限に抑える方法だというのに。周辺の公爵領や貴族領から参戦して貰う騎士団だって、使えるのは何人かだろう。あとは、騎士である特典で上手い汁を吸おうという山賊みたいなやつらばかりでは戦力になるのかどうかも怪しい。今回、やっと死に場所を見つけられるかも知れない。ジャンヌ、もうすぐお前の所へ行けるぞ。ベンジャミンは、去年、病で亡くなった妻を思っていた。
その時、国防長官執務室の出入り口ドアの前の空間が明るく光り始めた。ベンジャミン国防長官は、直ぐ脇に置いてある我が愛剣『ミステリア』を抜き放った。




