死神の宣告
平原の隅々まで響き渡るような、大気を震わせる激しい衝突音が鳴り響く中。
自らの拳が破壊されたのを感じながら──
何が起きたか、は瞬時に理解していた。
しかし、何をされたのか、はフェイにはわからなかった。
突進の勢いとともに突き出した拳、その攻撃の威力と同等以上の力が、己の拳に返ってきた、という事は理解している。
まるで、武の修練をしていない者が、拳を鍛えずにそのまま壁や相手の頭蓋骨といった硬いものを殴れば、跳ね返ってきた衝撃に耐えられずに、かえって己の拳を傷つけてしまうように。
今、自分の右拳に起こった事を説明するなら、そんな簡単な出来事だ。
しかし、フェイは武の研鑽を「あの日」から怠ったことはない。
だからこそ、今起きた出来事を理解しながらも、腑に落ちてこない。
強固な城壁すら破壊可能な領域まで高められた、フェイの一撃。
勝利を確信した、一撃。
しかし、勝利は訪れなかった。
ピッケルは、ひょいと持ち上げた左手で会心の一撃を受け止めた。
体はもちろんのこと、直接受け止めた左手すら、一切後ろに下がることなく、手を出した場所、そこから微動だにしていない。
攻撃の力は、通常分散する。
その全てを無駄なく相手に伝えるのは困難を伴う。
相手が吹き飛ぶなり、受け止めるにせよ、力とは逃げるものだ。
しかし、ピッケルは攻撃を軽々と受け止め、結果、その力は全てフェイの拳へと返ってきた、ということなのか。
──だが。
それを成したもの、その正体がフェイにはわからない。
これは、人智を遥かに超えた怪力による、単純極まりない出来事でしかないのか。
はたまた、想像を遥かに超えた修練、戦いの技術を極めた者の成せる業か。
わからない。
だが、確認する猶予も、考える時間も、ない。
拳が破壊されるのと時を同じくして、ピッケルが右の拳を突き出してきたからだ。
合わせ鏡のごとく突き出された右拳を受けようと、フェイは左手を差し出した。
その手に、相手の拳が触れた瞬間──伝わってくるその威力に、受け止めるのは無理だと本能的に悟る。
──受けることが不可能、ならば。
『風柳』
この状況に最適な技を思い浮かべ──いや、思い浮かぶ前に、これまでの修練、積み重ねた研鑽が、自然と技の実行を促した。
先ほどピッケルが行ったのと、真逆の技。
攻撃と同等の速度で後ろに跳び、相手の攻撃を間合いギリギリで受け流し、勢いを殺す完全防御。
技の名が示すように、風に吹かれる柳のごとく、力を散らすのでもなく、受け止めるのでもなく、ただ、流す。
横に躱すのとも違う。
攻撃の威力、間合いに合わせ、紙一重の距離を維持しつつ、最小限後ろに下がる。
その後、攻撃終了時の相手の隙に、不可避のカウンターを叩き込む、攻防一対の奥義。
恐ろしいほどの威力が左手越しに伝わる極限の状態でも、己が積み重ねてきた修練が、期待を裏切ることなく応えてくれる。
この時のために、俺は業を磨いたのだ!
フェイは確信しかけた、が。
──フェイは後ろに跳べなかった。
今度は理解できた。
理由は単純だ。
拳を掴まれている。
己の右拳が当たる直前まで指先を広げていたはずの、ピッケルの左手は閉じていた。
全身の力、特に、地震の如き現象を生み出せる規格外の脚力で、全力で後ろへの跳躍を試みたにもかかわらず。
たった五本の指が振り解けない!
歯を食いしばり、さらに力を込める。
込めた力に耐えきれず奥歯が割れ、呼応したように足元に亀裂が入った。
掴まれた手を振りほどこうとする力に耐えきれず、右肩が外れた。
身体中の筋肉は刹那に酷使され、悲鳴をあげるように骨が軋んだ。
しかし全身の力を、玉砕覚悟の総力戦に駆り立てるように動員しても、相手の手、いや、指先の力に敵わない。
刹那、フェイの脳裏に浮かぶイメージ、それは──死神。
掴んだ死者の魂を、決して離すことなく、黄泉の世界に引きずり込む。
運命の終わりを告げる、絶望と恐怖を与える存在のように振る舞いながらも──
──目の前の男は、友人に投げ渡された果物を受け取ったかのような気安さで、フェイの右拳を掴み、跳躍を阻んだ。
それだけではない。
ここに至り、フェイは理解した。
ピッケルは、フェイが必殺を期して繰り出した『崩山』を。
突進の速度、拳に込めた『力』、過去から今に至るまでに培った修練。
フェイの今持てる「理」を尽くした、集大成とも言える一撃を。
──ただ、それ以上の力で握り潰したのだ。
まるで、攻撃などなかったと事実をねじ曲げられ。
都合の悪い出来事を、歴史から隠蔽する権力者のような振る舞いで。
神すら殺すと決めた、覚悟は。
これまでの修練に対しての、矜持も。
思い上がるな、と宣告されたように──文字通り握り潰されたのだ。
(化け物め⋯⋯)
自らの左手ごと、ピッケルの右拳が顔に叩き込まれるのを感じながら、フェイは意識を手放した。
__________
自らの左手に、釣り上げられているかのように気絶しているフェイを見下ろしながら、ピッケルは「ふぅ」と軽く息を吐いた。
手加減する気はなかった。
つまり、殺してしまっても仕方ない、という覚悟の上で殴った。
単にフェイが生きているのは──殴る直前に気が逸れたからだ。
その結果、少し『力』が逃げた。
付け加えるなら、とっさにフェイが左手を攻撃と顔の間に挟んだのも、命を繋いだ理由だろう。
いい反応だった。
予想通りとはいえ、やはりフェイは強かった。
左手を開き、フェイの拘束を解く。
支えを失ったフェイが、地面に伏すように倒れるのを最後まで見ずに、気を逸らした原因へとピッケルは振り向いた。
「あー間に合わなかったか⋯⋯」
視線の先で頭を掻きながら、虎吼亭の主人が歩み寄ってくる。
しばらく主人を見ていると、左目が霞んだ。
額からの出血だ。
手の甲で血を拭いながら、ピッケルは主人へと笑みを向けながら話した。
「間に合った、のかもしれません」
「ん? どういうことだ?」
「彼は死ななかったし、俺も殺さずに済んだ」
「ま、そう考えれば⋯⋯そうだな、間に合った」
主人はそのままピッケルの側まで来て、フェイを肩に担ぎ上げた。
「でも、まだ迷ってますよ。今からでも⋯⋯本当は、トドメをさすべきじゃないかって」
ここが実家で、相手が害虫なら。
後顧の憂いを排除する必要があれば、『駆除』は躊躇わない。
ピッケルの言葉に、主人はすぐに反応した。
「ん? 俺ごとか?」
しばし見つめ合い。
ピッケルは、我慢できずにふっと笑いが漏れた。
「ズルいですよ、そんな言い方」
「大人ってのは、ズルの一つくらい覚えるもんだ。それに、おまえたちには大事な役目がある」
「大事な役目?」
突然そんなことを言われてピッケルが戸惑っていると、主人は少し怒ったような、それでいて機嫌が良さそうに言った。
「ウチの煮込み、今日はお前らのせいでたぶん売れのこる、それを処理してもらわねぇとな。
ま、金はとらねぇから安心しな」
自分たちのせい、というのはよくわからなかったが、ピッケルは主人に与えられた役目はきちんと果たそうと思った。




