黒竜襲来
それは遠い記憶であり、いつも心にある記憶。
道端に転がる、自分が愛情をこめて育てた野菜。
それを夢の中で思い出して、ミネルバは嫌な気分で目を覚ました。
あんな惨めな思いは、もう二度と嫌だ。
そのトラウマが、今のミネルバの原動力だ。
それを忘れないために、昨日も、市場へと野菜類を見に行った。
そこで食べたメロンは、過去を少し塗り替えてくれるようなおいしさだったが。
自分の育てたメロンを食べるミネルバをみて、嬉しそうに優しく微笑んでいる青年の顔を思い出すと、少し気分が良くなった。
身支度をして、ギルドのマスター室に入り、机に座る。
するとすぐに、彼女の秘書兼ギルドナンバー2のヨセフが入室してきた。いつも冷静な彼が、やや慌てているように見えて、ミネルバは聞いた。
「どうしたの? 緊急事態でも起きた?」
彼女にしてみれば、それは、慌てているヨセフを落ち着かせるための軽口のようなつもりだった。
しかしヨセフはにやりともせず、深刻な顔で告げた。
「ええ、過去ないほどの、緊急事態です」
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その報せは【栄光】にも届いていた。
歴史上初の、「王都にあるギルド所属の、全冒険者招集クエスト」
なんと災厄の竜と言われる、黒竜が王都に向かってきているらしい。
大陸に数種類生息するドラゴンの中でも最上位の強さと言われ、個体差はあれど中には人語を理解し、神のごとき力を振る舞う事もあるという。
ただ強力な個体になればなるほど人前には姿を見せないので、恐らく今回は若い個体だろうというのが専門家の見解だ。
ただ若い個体でも、町一つ滅ぼすのに足る力があるという。
そんな緊急事態にもかかわらず。
ピッケルが滞在すること数日、冒険者ギルド【栄光】はのんびりとした空気に包まれていた。
「似合いますか?」
「ああ、似合ってるぞ! 俺が女なら、一発で好きになっちゃうぜ」
「本当ですか!」
使い古されたボロボロの革鎧に身を包んだピッケルは、一通り自身の鎧を改めて眺めたあと
「でもこれ、なんかボロボロですね」
と、率直な感想を述べた。
そんなピッケルの言葉を、立てた指を左右に振りながら「チッチッチッ」と口を鳴らして否定しながら、ミランが話し始めた。
「それは、ヴィンテージっていう、流行りのスタイルなんだよ。
いいか? 綺麗な鎧ってことは、新人ってことだ。
新人だと、軽く見られるから、わざとボロボロの鎧でベテラン感を出すってことさ」
そんなミランの適当な言葉にいちいちうなずきながら、ピッケルは疑問を口にした。
「でもそれって、嘘ついてることになりませんかね?」
「いやいや、自分でベテランです、って言っちゃったら嘘だけど、相手が勝手に勘違いするのは責められないだろ?
ピッケルだって、勘違いすることくらいあるだろ? それと嘘とは全然別の話さ」
「なるほどー。奥が深いですね」
感心したように腕を組みながら何度も頷くピッケル。
それを見て、いや、こいつマジでちょろいな、むしろちょろすぎて俺ならいいけど、他の奴に騙されたら心配だな、と思い、ミランが釘をさす。
「ピッケル、いいか、とっても残念だけどな、王都ってのは、俺以外は結構嘘をつくやつがいるんだ」
「そうなんですか! 王都って怖いですね」
「ああ、だから俺はともかく、他の奴のいうことはすぐに信じるんじゃねえぞ?」
「わかりました」
おいおい、ほんとにわかってんのかよ、目の前の俺は大嘘つきだぞ。
と自分の事は棚に上げて心配するミランだったが、これ以上続けると自身の嘘のボロが出そうだったので、話題を変えることにした。
「それで、王宮から緊急⋯⋯ いや、害虫退治の依頼が来ててな。俺たちも三人で参加する。
まぁお前は初めてのことだし、まずは周りを見て、どういった感じか観察するんだ。
無理に退治しようとしなくていいからな?」
「はい、わかりました」
「んじゃ、いくか。ちなみに俺たちは王宮の信頼も篤くてな、今回は後方での他の冒険者たちのサポートになる。
無理に前に出るのはご法度だ、いいな?」
「はい!」
さっそくついた己の嘘に対しての、ピッケルの元気な返事を聞きながら、ミランは今回のクエストについての作戦を考える。
黒竜、伝説の災厄。
そんなものに正面から当たれば、あっさり死ぬだろう。
ただ、チャンスでもある。
他の冒険者たちが弱めたあと、手柄を掠めとれれば御の字。
無理そうなら、逃げればいい。
その時は、こいつを囮にすれば何とかなるさ。
ボロボロの鎧を着てご機嫌なピッケルを見ながら、ミランはそんな悪だくみを考えていた。
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これはチャンスだ。
ミネルバはそう考えていた。
自身が【鳶】から、【鷹】になる。
そう決めて設立した、このギルド。
黒竜の討伐に功績があれば、ギルドの地位は王都で盤石となるだろう。
もう、蔑まれ、惨めな思いをしないためにも、必ず、ドラゴンは私が倒す。
報せが届いてから準備をすること数日。
ミネルバは最前線で戦う決意をしていた。
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「ピッケル、どうした?」
集合場所に向かう道中、様子のおかしいピッケルが気になり、ミランが話しかけた。
「いや、王都の水が合わないのか、急におなかの調子が⋯⋯」
ぎゅるぎゅると鳴り響く腹を押さえながら、ピッケルが青い顔でつぶやいた。
「たく。しょうがねえな」
ミランは懐をごそごそとまさぐり、包みを取り出した。
「ほら、薬だ。あと早く用を足して来い。もうすぐ時間だから先にいくぞ。集合場所は門の外だからな、急げよ」
「でも、薬のお金が⋯⋯」
「ん? いいんだよ、そんなの。
ある時に払ってくれれば」
「わかりました、後でちゃんとお支払いします」
そういってピッケルはふらふらと歩きだす。
「大丈夫かよ⋯⋯ 囮に間に合えよ」
ミランはピッケルの背中を見ながら嘆息した。
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王都の城壁の外の平原に、王宮から派遣された兵士と、冒険者たちが集まっていた。
兵士たちの総数は千。
しかしこの兵士たちは、モンスターの退治は専門ではないため、あくまで冒険者たちがドラゴンに敗れたあと、出撃する予定だ。
冒険者たちの総数はおよそ百。
本来ならもっと冒険者たちは王都にいるが、ブラックドラゴンときいて逃げ出したり、仮病をつかったり、冒険者をやめたりしたものまでいた。
しばらくして「餌」が集まっているのを確認したドラゴンが、遠く上空から翼をはためかせながら現れた。
でかい。
最前線にいた【鳶鷹】ギルドマスターのミネルバは、己の認識の甘さをやや後悔し始めていた。
これは、人がどうこうできる存在ではない。
直感がそうささやいたが、自分の動揺は周りに伝わる、誰よりも落ち着かなくては、そう思い、号令をかけた。
「魔法を撃て! 使えないものは弓で射掛けろ!」
【鳶鷹】所属の魔法が使えるものたちが、上空を飛ぶ黒竜に、各々の使える最高の呪文を唱える。
黒竜に向かって、火、氷、雷、土の槍といった魔法と、放たれた矢が飛んでいき、すべてが命中した。
黒竜はダメージを食らった形跡は無かったものの、少し煩わしそうに、振り払うように首を振ったあと、その怒りをぶつけるために地上へと急降下してきた。
「さ、散開!」
慌ててミネルバが指令を出す。
全員が退避してしばらくしてから、地面が揺れ、轟音が鳴り響いた!
黒竜の着地の衝撃だけで、地面がえぐれていた。
「なんだ、この生き物は⋯⋯」
普段あいてにしているゴブリンやオークといった亜人や、同じドラゴンのワイバーンなどとは明らかに別格の存在に、ミネルバは体の震えを抑えることができなくなっていた。
そんなミネルバの様子を知ってか知らずか、黒竜はすうっと息を飲み込み、口を開こうとしていた。
「まずい! ブレスが来るぞ!」
【鳶鷹】の面々は、攻撃に特化しており、防御があまり得意ではない。
それを誰よりも知っているミネルバの頭に
【全滅】
の文字が浮かぶ。
そんなミネルバの考えを証明するかのように、ブラックドラゴンの口から、強力な炎のブレスが放たれた。
炎が【鳶鷹】の面々を飲み込もうとした、まさにそのとき。
「金剛壁!」
どこからともなく、そんな声が聞こえた。
するとブレスは、壁に阻まれたように一定の距離以上に火線が伸びず、結果として【鳶鷹】のメンバーを守った。
「これは【栄光】の⋯⋯?」
ふとミネルバが後ろを振り向くと、ミランの姿が見えた。
「ちっ。お嬢、一つ貸しだからな!」
まったく、俺が逃げるときのとっておきだってのに、何度も使える術じゃねえんだぞ、そんな悪態を心の中でミランがつぶやく。
ミランの信条は「死んだら終わり、だから生き残る」
そのため、防御の魔法を必死で訓練した。
防御は一流だが、突破力に欠けるため、モンスターの討伐は得意ではない。
だから【栄光】は、廃れていってしまった、ともいえる。
本来、人をサポートするのに向いているのだ。
しかし、今は【鳶鷹】を守ったとはいえ、討伐も、あまつさえその手柄のおこぼれにあずかるのも困難だろう。
潮時か。
あとはまぁ、兵士たちに任せてとんずらしよう。
ミランが考えていると。
「お待たせしました! いやー薬効きますねぇ! 助かりました」
そういってピッケルがのんきに姿を見せた。
そんなピッケルに、すこし毒気を抜かれたような表情をしたあと、ミランが口を開く。
「ち、遅いぞ。まぁそろそろ撤退⋯⋯」
と、ミランの言葉の途中でピッケルは遠目に黒竜の姿を認めて、つぶやいた。
「あっ、害虫だ」