一年ぶりの王都
デスマウンテン、と呼ばれる山の麓にあるヴォルス家から王都は、通常、人の足で五日はかかる距離だ。
だが、走快リヤカーを引くピッケルの常識外の速さ。
その速度に寿命の縮むような心境で耐えていた二人の忍耐力。
その甲斐あってか、午前中に出発した一行は、日暮れ前には間もなく王都という場所まで進んでいた。
当初、声を上げることもできないほどの恐怖心があった座席の二人も、王都到着の少し前ともなると、その速さにすっかり慣れていた。
慣れてみると、通常なら体験できない早さで切り替わる景色に、むしろ快感を覚える。
前方にかすかに見えた王都の門が、どんどんとその姿を大きくしていく。
その少し手前で走快リヤカーの浮遊モードは解除され、そのまま普通のリヤカーのように引っ張られながら王都の門をくぐり、一行は中へと入った。
王都の道は街道と違い石畳が整備されており、リヤカーはガラガラと音を立てて進んだ。
「たった一年なのに、懐かしいわ」
引き続きピッケルが引っ張るリヤカーの座席に座りながら、王都の街並みを眺めていたミネルバが感想をもらした。
王都は歴史ある街だ。それゆえ、門をくぐってすぐに見える範囲に限って言えば、一年前とほとんど変わらなかった。
ただ、そんな街並みに懐かしさをおぼえるのは、もう自分がここの住人ではない、と今更ながら街から告げられたような錯覚をミネルバに与えた。
日はすでに地平線のすぐ上にあり、夕暮れの訪れた王都では飲食店が賑わい始める。それと入れ替わるように、市場の商店は店じまいをすでに終えているだろう。
農作物の卸は明日になる。
──と、ミネルバがピッケルへと今の街の様子を伝えながら移動していると、ピッケルがリヤカーを引くのを停め、きょろきょろと周囲を見回した。
「どうしたの? ピッケル」
「⋯⋯いや、視線を感じて」
ピッケルの言葉に、ミネルバも周囲を見た。
街を歩く数人が、確かにこちらを興味深げに眺めている。
「このリヤカーが珍しいんじゃないの? 普通の人はこんなの引っ張れないし」
「そうなのかな? ⋯⋯うん、そうだね」
ミネルバの言葉に納得したのか、ピッケルは再度リヤカーを引き始めたが、時々止まって周囲に目を配っていた。
ミネルバがヴォルス家に嫁ぐことになった折、以前住んでいた場所はすでに引き払っている。そのため、夜を過ごす今日の宿について考えることにした。
「ガンツは今晩は自宅に戻る? 私とピッケルは【栄光】でいいんじゃない? ちょっとおんぼろだけど贅沢言わないわ、宿屋だとお金が掛かるし。ガンツ、鍵を貸してくれない?」
ミネルバの言葉に、ガンツは少し慌てた様子で
「⋯⋯ギルドの鍵はマスターが持ってて、今は入れない。このリヤカーは野営も可能なんだろう? これで夜を明かしてもいいんじゃないか? 盗まれたりしたら事だろう」
と答えた。
もちろんミネルバも冒険者時代は野営を行うことも少なくなかった。
だが、冒険者時代に野営を行ってきたからこそ、野営というのが人に与える影響についても熟知していた。
「⋯⋯ふーん、そっか。でも初日からいきなり野営ってのもねぇ。街道ならともかく、街中のような泊まれる施設がある場所なら、多少お金が掛かってもそっち泊まった方がいいわ、疲れ方が変わってくるし。
それに積んでる荷物が一つ二つ取られるとかならともかく、こんなでっかいリヤカー、それこそ牛や馬を何頭か連れてこなければ盗むのも一苦労よ、そんな心配いらないと思うわ」
「それはそうだが⋯⋯」
「じゃあ宿を取るとして、とりあえず私たち夫婦の宿代は建て替えとくから、その料金の支払いは【栄光】に回していい? あれもこれも請求する気はないけど、ミラン救出の経費くらいは出して貰えるわよね?」
「⋯⋯俺個人としてはもちろんそうしたいが、うちのギルドで収支を管理しているのはマスターだからな、とりあえず救出後に請求してみてくれ」
「あのねぇ、本来なら監督庁か【鳶鷹】に寄って、今回の救出を依頼化して、依頼料をもらってもいいのよ? でも時間もかかるし、知らぬ仲ではないからそこはサービスしてるの。経費くらいは確約してもらえないと動けないわ」
「わかってる、わかってるよ」
「それに、ピッケルの黒竜撃退のお金だって入ってるんでしょ? お金の心配なんて不要でしょ?」
「⋯⋯まぁ、そうなんだが」
「あー! ミネルバ! 久しぶりー!」
二人が宿と今後の経費のことで話していると、一人の女性が声を掛けてきた。
聞き覚えのある声にミネルバが振り向くと、そこにいたのは彼女が冒険者をしていた頃に馴染みのあった、冒険者向けの宿屋兼酒場、【虎吼亭】の女店員だった。
市場からの買い物帰りなのか、胸に食材の入った袋を抱きかかえていた。
「あら、イリアじゃない! 久しぶりね!」
久しぶりに出会った友人の姿に、ミネルバは走快リヤカーの座席から勢いよく飛び降りて駆け寄った。
「元気そうね!」
「ミネルバこそ。急にお嫁に行っちゃって、会えなかったから心配してたんだから。
男なんて興味なさそうにしてたのに、まさか先を越されるなんてね」
そう言ったイリアは、リヤカーの前にいるピッケルの方をちらりと見てから、再度ミネルバへと向き、口元に手を添えて話し始めた。
「あれが噂の旦那さん?」
「噂? は知らないけど、彼が主人よ」
「へー。ドラゴンを投げ飛ばしちゃうような人って聞いてたから、どんないかつい男かと思ってたけど、優しそうな旦那さんじゃん」
「ええ、優しいし、最高の男よ⋯⋯少なくとも私にとっては」
「へへへ、あの男にお堅いミネルバ嬢が、そんなふうにのろけるようなこと言う日が来るなんて、ほんと、恋って人を変えてしまうのね、羨ましいわぁ。
あ、今日の夜ご飯はまだ? 良かったらうちに来ない? いろいろと話を聞きたいわ」
「いいわね、私もマスターの料理が久しぶりに食べたいわ」
女二人がかしましく話していると、ガンツは慌てたように話しかけてきた。
「あ、【虎吼亭】もいいけど、折角ならもっといい店にしないか? 俺がそこの支払いはするから⋯⋯」
ガンツの言葉に、イリアは不服そうな表情を浮かべて反論し始めた。
「なによガンツさん。そりゃあうちは高級料理店じゃないけど、味はどこにも負けないわ。マスターに言いつけるわよ?」
「いや、もちろんそうなんだが⋯⋯」
「あ、それに彼毎晩ちゃんと来てるわよ? 見に来た方がいいんじゃ⋯⋯」
「よしわかった! 【虎吼亭】にしよう! 決定!」
まだまだ続きそうなイリアの言葉を遮って、ガンツが宣言した。
「あ、じゃあよかったらイリアさん? も座席に」
ミネルバが呼んでいた名前を確かめるようにして、ピッケルが声をかけた。
「あら、いいの? ありがとうございます!
挨拶が遅れてごめんなさい、私はイリア。
ミネルバとはお友達なの、これからよろしくね」
「うん、俺はピッケル。こちらこそよろしく」
挨拶を交わして、ミネルバは座席を掴んで飛び上がって席に戻り、イリアが追うようにリヤカーに乗ろうとする。
上からミネルバがイリアを引っ張り上げようと手を出し、買い物袋を持っていたイリアは、手を取るために一旦荷物を座席に置こうと、腕を上げた時──
ピッケルがイリアを、脇の下からひょいと持ち上げた。
「わ、わわっ」
慌てるイリアをよそに、ピッケルは何事もなかったように彼女を座席へと座らせると、リヤカーのハンドルを握った。
「あ、ありがとうピッケル」
「いいえ、どういたしまして」
顔を少し赤くしてイリアはお礼を言った。
その様子を見ていたミネルバは、少し不機嫌そうに
「ねぇ、ピッケル。私以外の女の人に、断りもなく勝手に触れてはだめよ? マナーとしてよくないわ」
と注意をした。
ピッケルは少し驚いたような表情を浮かべたあと、返事をした。
「そうなの? うん、わかった。次から触れる時は、一言断るようにするよ」
「⋯⋯そうね。でも、基本は女性に触れてはだめよ?」
「わかった。イリアごめん、勝手に触れてしまって、失礼だったかな」
「ううん、いいのよ、別に。
簡単に持ち上げるものだからちょっと恥ずかしかっただけ、気にしないで。じゃあお店まで道を案内するわね」
「うん、よろしく」
ピッケルがリヤカーを引き始めると、車輪が王都の石畳の上で、再びガラガラと音を立て始めた。
その音に隠れるような小声で、イリアがミネルバの耳元で
「ヤキモチやくなんて、本当に変わってしまったのね」
と、からかうように囁いた。
ミネルバは顔を赤くして
「違うわ、彼は人と接する機会が少ないから、マナーを教えただけよ」
と抗弁した。
その様子を見て、イリアはふふふと笑顔を浮かべ
「じゃあ私に限れば、いくらでも断り無く触れて良いのよ? と旦那さんに言おうかしら」
「⋯⋯それもマナー違反よ? 今度はあなたが私に対して、だけどね」
「ふふ、それもそうね。あ! ピッケルその道を左に」
ピッケルに道を指示するイリアの顔を、少し睨みつけるように見た後、ミネルバはふっと笑顔を浮かべる。
──からかうように軽口を向けてくるイリアの友情が、王都を離れる前と変わらない事に気が付いて──それが、とてもありがたいことだと感じて。