朝陽
ちょい同性愛を含みます。
薄暗い一室に、ぼんやりと浮かぶ朝焼けの日本海。
水平線上に浮かぶ太陽は、空いっぱいにその柔らかな色彩を映している。
オレンジ色に煌めきはじめた海は穏やかで、緩やかな漣が何処からか聞こえてくる。
少年は、静かにその一枚の絵画を見つめていた。
朝日というより、夕暮れのような…
彼がなぜ、晩年の作品に夕焼け空ではなく、はじまりである朝の景色を描いたのかは分からない。
けれど少年は、毎日のようにこの暗い部屋に来ては、焦がれるようにこの絵を見つめた。
―そっと目を閉じる。
瞼の裏に、穏やかな水平線が広がっていた。朝日がきらきらと輝いて手のひらに落ちてはぱらりとこぼれ落ちる。
早朝の、太陽がやっと登り始めた瞬間。濃い闇色は、やがて薄く紫色に染められてゆく。
遠い星の影を隠しながら、だんだんと白昼の世界が空を覆い尽くす。
遠い彼方から打ち寄せる波間に、白い足を滑らせた。ぞっとするような冷たさに全身が震えた。
嗚呼、広い。広くて、遠い…
目を細めて彼方を見つめる。冷ややかな、塩の香が混じる風が前髪をかきあげて、額や頬を突き刺していった。
切なかった。
ほんの一時の間だけ、煌めく、力強く在るように見えて、脆い、この…空が。海が。太陽が。
強い焦燥感に駆られて、両手を掻いて、ひんやりと澄んだ朝の空気を切り裂いて、氷のように冷め切った海に駆け出した。声が出なかった。叫ぶ代わりに、涙が一粒零れて、遥かな日本海の飛沫に溶けた。
ゆったりと、どこからか彼が流れてきた。仰向けに横たわり、このオレンジ色に煌めきだした波間に、海のような穏やかな表情を浮かべて。
閉じた瞼がふいにぱちりと開いた。空と同じ色彩が彼の真珠のような瞳にきらきらと映ろっていた。
その目で彼は少年を見据えた。少年はごくりと唾をのみこんだ。
彼はにっこりと微笑むと、水中に沈んでいた片手をあげ、少年の頬に流れた二粒目の涙を拭った。 少年が何か言おうと口を開くのを遮って、彼は濡れた指先で少年の唇にそっと触れ、また水中へその腕を戻した。
彼の瞳が再び閉じられた。
そしてそのまま、彼は水平線の彼方へと、ゆっくり、流れ消えていった。
少年は独り、広すぎる海に取り残されていた。塩の香りが全身を打った。
既に空は開け、太陽はさらに白く、眩しく、偉大なほどに直接肉眼でみることは叶わなかった。
――気がつくと、閉館の音楽が滑らかにしん、と静まりかえった館内を満たしていた。
絵の前に置かれている、柔らかい長椅子に座って絵を眺めているうちに、うたた寝をしてしまったらしい。
相変わらずそこに絵はあった。はじまりの、切なすぎる、どこか狂おしく、彼には似合わないその穏やかさが、強い焦燥感を何時もかきたてる。
それでいて、やはりこれは彼自身のような気がした。
―緩やかなメロディーが、早く帰れ、と、笑って背中を追い立てた。
くるりと背を向けて、少年は薄暗い一室を飛び出した。
しがない街にぽつりとある、県立美術館を後にして、取り囲むような並木道を歩いた。
既に夕暮れ時で、道路は帰宅途中のラッシュ・アワーで混み合っている。
駅への道をぶらぶらと通り過ぎ、回数券の残り一枚を使って、電車に乗った。 新しい回数券は、買わなかった。
――あの絵は、何時か大人になって、結婚したら、もう一度だけ、見に行こう。
少年は電車を降りて、闇色の空を仰いだ。
星が瞬く。もうすっかり夜だ。
ふいに頬を伝った涙が、歩き始めたアスファルトの地面に、じわりと染み込んで、消えていった。
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