契約の日
ミシェラは自室の天窓から降り注ぐ朝日の中で目を覚ました。
ベッドサイドに降りる彼女の『神の馬』特有の瞳の色と同じ黄金の髪が華奢な腰のあたりで揺れた。
セルロイドのように感情のない瞳を自身の手に向けて小さなため息を吐く。
― 目覚めたくなかった。
指を一つ鳴らしたのち、漆黒のドレスをイメージすると一瞬で彼女の身をイメージした通りのドレスが包んだ。彼女の魔力で織られたドレスは朝日の中で不思議な光沢を放っている。
家具の少ない部屋の壁掛けの鏡に姿を映し、そこに映る少女のような自分にまた一つため息をついた。
「『人国』」
繊細な彫刻の施された鏡のフレームに手を置き魔力を流し込みながらそう呟くと彼女の作った異界から人間達のすむ浮国の首都ラーマが見えた。年に一度のこの契約祭は魔力を持たぬ者にはあまり関係はない、が、王が決めたこの日には魔力に対する人々の確執を拭う目的がある。
外に出て踊り歌い笑う人々と対象に家の中で一人魔法陣を黙々と描き上げている人々は『魔力持ち(サウマタジスト)』だろう。
彼らは人の中では珍しい『魔力壺』と呼ばれる魔力を集める器官を身体のどこかに持っている。
魔力の覚醒時期はまちまちだが、彼らは魔導士養成学校に入ることを強制される。
養成後、徴兵によって他の浮国との戦争に行かなくてはならない彼らは、戦うために強き魔物と契約しなくてはならない。
最も、彼らの魔力壺が発見される時期はまちまちで人ではないものとして気味悪がられる彼らは秘密裏に肉親の手により殺されることも少なくはない。
今日、この日こそが一斉契約の日であり参加する生物すべての戦いの日だ。
契約とはつまり見えない魔力の綱をひきあう綱引きである。
正午を告げる鐘が鳴ったとき契約をしたい生物は一斉にランダムに決められた相手とその綱を引き合い引き出された方が奴隷そして引き出した方が主人となる。毎年その勝負に勝つ人間は一握りしかいず、魔力持ちは減る一方である。
人々の踊りに飽きたミシェは鏡から離れ部屋の中央にある机の上のピアスを手に取る。深紅の輝きを放つ片方だけのピアスを左耳につけて部屋を出た。
最上階の部屋からダイニングに向かい2階へ小さなハイヒールの踵を鳴らし降りてゆく。
途中、前を通ったキッチンの中で黒髪の人懐っこそうな青年がアップルパイを切り分けているところだった。背の高い彼が背中を丸めて包丁の切っ先を入れたそれが辺りにリンゴの甘い香りを振りまく。
誘われるようにダイニングの扉に手を掛けていたミシェは方向転換してキッチンに入った。
「おはよう、ロワ。」
「え?あ、あ、はいっ!おはようございます」
突然声を掛けられて勢いよく振り返った彼は自分の胸程しかない主を見下ろした。いつもの表情のない黄金の瞳がアップルパイにくぎ付けなのを見てとり、柔らかくほほ笑む。
「今日の朝ご飯です」
切り終えたアップルパイを皿に乗せて彼女をダイニングへ促した。
彼女は待ちきれないとゆうように速足で真っ白なクロスのかけられたテーブルの椅子に座る。ロワは彼女の前に暖かいアップルパイを置いた。
「どうぞ、いっぱい食べてください」
待ちきれないというようにそれを手で持った彼女は急いで口いっぱいに頬張った。林檎の程よい酸味が甘さの中で際立つ。
「どうですか?」
横に立って彼女が食べる様子を見ていたロワが聞く。
「美味しい。」
一言だがハッキリとした返答が返され、彼は満足したように頷いた。
その時、ダイニングの扉が開きロワよりも少し背の低い男が入ってきた。
「おはようミシェ、それとロワも」
彼は落ち着いた声でそう言いミシェが挨拶も返さずに夢中で食べているアップルパイを見て笑みを浮かべた。
「おはようございますシュー兄さん!」
ロワは彼の手を引いてミシェの前の席に座らせるとキッチンに駆け戻りアップルパイを二皿持って帰ってきた。
自分とシューリの分の皿を四角いテーブルに置いて席に着く。
「いただきまーす」
シューリが自分のアップルパイに手を付けるより早くロワは朝早くから作り出した過去最高傑作にかぶりつく。
遅れて口を付けたシューリも口の中に広がった林檎の甘酸っぱい香りに目を見張った。
「おいしい…」
だが、ロワは少し残念そうに手に持ったそれを置いた。それに気づいたシューリはロワの顔を覗き込んだ。
「どうしたのロワ、凄くおいしいよ?」
「ありがとうございます…でも、まだまだです。」
彼は少し首を振った。
「リンゴは上手くできたんですけど、皮が…」
皮のザクザクした感じが足りないと彼は力説し、ズボンのポケットから取り出した小さな手帳に何かを書き込み始めた。
その様子を見てシューリはあきれたようにもう一度パイを食べ始める。
「このままでも僕は十分美味しいと思う」
思わず、といったように出た彼の呟きにロワは手帳から顔を上げて思い切り首を横に振る。
「お二人にはいつか本当に美味しいアップルパイを食べていただきたいんです!」
特にミシェはアップルパイが大の好物だ。だから張り切っているのだろうが他の事を後回しにするのが困りものだ。
「ロワが頑張りたいんだったらいいけど修練の方、最近おろそかになりがちだよね」
痛いところを疲れたロワは明後日の方向を向いた。逃げるように丁度からになった皿を三人分下げ始める。
「そ、そっちの方は、良いんです。修練しててもビーグルに襲われるとき以外滅多に戦闘なんてしませんし。」
彼は言い訳をするようにダイニングの扉に手を掛けようとしてそれを小さな手に阻まれた。
「ロワ、修練が面倒なのは分かるけどこれは貴方の安全のためだから。」
自分の手に触れている白い手に表情に出ないが気遣われているような気がしてロワはその場に立ち直って片膝をついた。
「すみませんミシェ様。ご心配おかけして」
ミシェの手を口元にもっていって柔らかく口付けた。
「ううん。言うのが遅れたけど、今日から戦闘機会が増えるから心の準備しておいて。」
その言葉を聞いて今まで彼女たちの会話を優しく見守っていたシューリが勢いよく立ち上がった。彼の周りの空気が張り詰めているように見える。
「見つかったのか」
普段は優しい色を浮かべている髪と同じ焦げ茶色の瞳に影を落として彼は小さな主を少し睨みつける。ミシェは微かにうなづいた。
「なぜもっと早く言わなかったんだ。」
突然硬くなった空気に戸惑うようにロワが二人を交互に見る。
「言っても何も出来ないわ。」
説明してほしそうにする彼を無視してミシェはダイニングの扉を開いた。
「それでも…!」
「今日迎えに行く。ロワはシューに聞いてゲストように部屋を準備しておいて。」
シューリの怒りの混じった声にかぶせるように彼女はそういって扉を後ろ手に閉めた。
王城の鐘が鳴った。
先ほどまで騒がしかった町が嘘のように静まりかえる。ハクラの甘栗色の瞳が蝋燭の灯りの中で不思議な光を帯び始めた。
一度、二度、三度…
魔力で作り出された鐘の音が王城から遠く離れた彼の町にも響き渡る。
この浮国だけでない。他二つの浮国でも同じように鐘が鳴り響いているはずだ。
この鐘が十二度鳴り終わったとき、魔力を持つ儀式に参加する生き物が己の書き出した魔法陣に一斉に魔力を流し込み力比べを始める。力が弱いものは勝てないと分かっていても使役されたことによって力が強くなることを知っているためにこの勝負に挑む。
相手はランダムで一度始めると途中放棄はできず人間の場合相手に引きずり込まれれば命の保証は無い。何しろ、人間の肉は美味く、魔力が上がるといって魔物の間で人気なのだ。
―絶対に負けられねぇ
鐘の音に集中し魔力をヴォルヴァの右目で練る
彼の魔力は3歳の時に覚醒した。母は魔力持ちであった彼でも気味悪がることもなく女手一つで育ててくれた。
彼がこの戦いに負けられないのはそれが理由でもあった。
村や国として大きな戦力であった父が死んだのは赤子の頃に彼を炎の中から救い出し自分はその時に負った火傷が酷く、翌年に帰らぬ人となった。村の皆はハクが彼の父を死なせた原因だとでも言うように遠巻きにし、彼が魔力持ちだと判明したのは彼らをより遠ざける引き金となった。母だけが彼の見方でありよき理解者だった、彼女は彼を魔導士養成学校に行かせるために毎日働きづめた。そして二年前過労で死んでしまった。
町内の人々の嫌な視線が一人の部屋の中でも絡みつくような気がし、彼は魔力を煉ることに集中する。
―11……12……!!
十二度目の鐘が鳴り終えると同時に彼は部屋いっぱいに描かれた陣に魔力を流し込んだ。
―っっっ!!?
いきなり心臓を捕まれるような衝撃が身体を貫いた。引きずり込まれる感覚に負けぬよう彼は右目に残る魔力を注ぎ込む。魔力を大量に使ったせいで右目を中心に体中が痛んだ。
相手と互角の力で引き合っているように思えたのも一瞬で、相手が少し魔力を注ぎ込んだのを最後に彼の身体は魔法陣に引き込まれていった。
決着は一瞬でついた。