月
この世界は神々の住まう天と悪魔たちの住まう地上、そしてその間に浮かぶ三つの浮国に分かれている。天空の様子は遥遠くであり下に住むもの達にはうかがい知れず、地はいつも炎の燃える灼熱である。その灼熱の大地の少し上に浮かぶのは精霊たちの住む『魂国』、神馬の住む『䥝国』、そして人間たちの住む『人国』。この三つの浮国は水面下でいつも交戦状態にあり、彼らの和解はほぼ不可能だった。
森の奥深く、人国に住む人間たちも知らない湖のほとりに一軒の木こり小屋が立っていた。月明かりの差し込んだ小さなその小屋の中には人間と、『神の馬』と、彼らの愛の結晶が眠っている。
― ふいに、小さなわが子を守るように抱いて眠っていた少女が表に何者かの気配に瞳を開いた。彼女は小さなわが子を抱いたまま神の馬の特徴であり一生逃れることのできない呪縛である黄金色の瞳と腰まで届く艶やかな髪を揺らして立ち上がる。その瞳と髪の色は普通の『変化』の術を使って変えることは不可能であり、もし変えることができたとしても全身を走る激痛と変化を続けるために莫大な魔力量が必要なため、数秒ほどしか持続できない。そのため、残忍で冷酷そして戦闘に長けた彼らを恐れる人間や精霊たちのすむ浮国に潜入するのは容易ではなく、見つかって捕まれば直ちに処刑された。
彼女の年は十七程に見えるが神馬という種族は寿命が千年ほどである。人間の十年を一年と考えると本当の年齢は百七十歳程だろう。だが、彼女の瞳に映る影はそれをも軽く超えるような年月を感じさせていた。
満月が空に浮かぶ中、外に出るとまだ冷たい風が彼女の月の光を帯び銀色になった髪をふわりとなびかせた。彼女の忌み嫌う王族であるという証のそれはだが、ますます彼女を神秘的に見せている。
「__、どうした?」
彼女があたりを『詮索』の魔法を使って探っていると小屋から甘栗色の髪の青年が出てきた。二人の左手の小指には夫婦の証である華奢な指輪が金色に輝いている。彼女より五つか六つ程年上に見える彼は月と同じ色の瞳で彼女に笑いかけた。
「ううん、なんでもないの」
彼女は背伸びをして彼の首に抱き着き、その厚い胸に顔を埋める。彼は真っ白なナイトドレスの彼女を優しく抱きとめるた。
「もうそろそろ二年になるな、__とここに隠れ始めてから。」
頷いた彼女は不安そうに彼の瞳を覗き込んだ。
「カイルは、私といるから隠れなきゃダメなんだよね。」
「そんなの全然関係ないだろ?」
自分を見上げてくる彼女にキスし、カイルはニヤッと笑って彼女をまた抱きしめた。
「__には俺が迷惑してるように見えるか?」
頷く彼女の額に彼はデコピンを放つ。パチンッと小気味いい音がして彼女は額を抑えた。
「いった~い!」
「あのなぁ――、俺は…」
彼の言葉は湖に突然現れた白い髪の美しい青年の放った水の球によって遮られた。魔力のエネルギーで圧縮された水は彼らの横を風切り音と共に通り過ぎる。
「取り込み中だった~?」
悪いことしたな~と水の上をすいすいと滑る彼はだが全く気にした風はなかった。漆黒の匣をそれとは正反対に真っ白なスーツのポケットから取り出す。見せつけられるように彼が掌に乗せた小さな匣を見た少女はカイルを守るように前に出た。
「__?」
カイルは自分を庇うように前に立ち動かない彼女が震えるのに気づき軽く息を飲む。
外の騒がしさに気づいたのか小屋の中の子供が泣き始めた。
「どうしてそれを貴方が!?」
青年は彼女の問いに水面で足を止めた。
「そんなの、どうでもい~よね?これでも貴方をその薄汚い人ごときから解放するために頑張ったんだ」
彼の灰色の瞳が忌々し気に彼女の後ろに立つカイルを一瞥する。まるで、ごみを見るような目つきから守るように小さな彼女はさらに前へ数歩出た。
「私は、彼に縛られているわけじゃない!」
彼女の声に嘆かわしそうに額を抑えた彼は湖面に左手に持っていた魔方陣を視覚化する媒介である杖を振り降ろす。
「貴方はな~んにも分かってないだけだよ」
彼がそう言って湖面に浮かび上がる、魔方陣を発動する。
「『霧』」
一瞬で膨張した彼の魔方陣は湖面を覆い隠した。水が急速に蒸発し、霧状になっていく。彼女はカイルを抱いてその霧から逃げるように上に跳躍し、魔方陣なしで空に立った。
「相変わらずいい動きだよ、す~っごく綺麗だ。人間がこの霧に触れれば体中の水分が蒸発して死ぬからね~」
青年は後ろの小屋に気遣いつつ風で霧を吹き飛ばした彼女に取引を持ち掛けた。
「いくら__だってその調子ではそんなに持たないでしょ?十秒だけ待ってあげるのでその猫っ毛の彼と話し合ってかわい~子供さんに防御魔法をかけることを許してあげる」
ただし、と彼は続けた。
「貴方はここに残って俺と少~しお話しよ」
「分かった」
絵になるほどに完璧な微笑を浮かべた彼になんの迷いもなくそれを承諾した彼女の肩をカイルは揺さぶる。
「待て、俺はそんなこと許さねぇ。俺は、おとなしく防御魔法の中に入ったりしねぇ!」
そう息巻く彼の頬に彼女は一つキスをした。湖面に立つ彼があと六秒という言葉を投げかける。
「カイル、家の中に入ってて。いざとなったらミーをお願い」
彼女はカイルを魔法で弾き飛ばし、小屋の中に入れると右手の親指と中指をすり合わせ防御魔法を家の周りに張る。カイルは防御魔法を張られて開かない扉を内側から叩いたが、びくともしなかった。
「__!__!開けろ、死ぬ気か!?」
彼女はその問いかけに肩を震わせただけだった。
「__!行くな!」
時間だよ、といった青年は魔方陣を消してまた濃度が高くなった霧を霧散させ水面を滑り彼女の前に出る。彼は彼女の長い銀色に光る髪を弄びそれに口付けた。
「__、貴方に彼は似合わないよ。俺こそ貴方にふさわし~んだ。永遠に死ぬことのない俺たちは共に生きよ~って前にもいったよね」
「そんなこと、ない」
彼女はそういったがその声に力はなかった。彼女の様子に満足げに頷き笑みを浮かべる青年は右手に持っていた匣の蓋を撫でる。
「貴方ががのとこに返ってくる気になるまで俺はな~んでもする気。もちろん、なんでも」
青年が小屋の方をちらりと見る。
「や、やめて!」
彼女の声に唇の端を歪めた彼は左手の親指を嚙み切ってその血を匣に落とした。彼真っ白な指から落ちた血の触れたところから匣は金装飾を表してゆく。
現れた装飾が漆黒の匣を覆い隠すとそれを止めるため匣を彼の手から奪い取ろうとした彼女の動きが止まった。
「では、始めましょうか?」
両手を彼の持つ匣のほうに伸ばしたまま彼女はその声に首を少し振る。
「不思議だよね~。神馬たちがなんでこ~んな弱点の匣を生まれたときにわざわざ作るんだろ。仮契約をしてなんでもいうことを聞かせられる匣なんて」
笑った彼は匣のせいで動けない少女の耳を少し舐める。
「__に触るんじゃねぇ!」
カイルが窓の中から白い青年の隣の彼女に向かい手を向ける。彼の掌に魔方陣が現れ右耳に光る片方だけの真っ青なピアスが彼女の左耳に光る同じデザインのピアスが同調するように光りだした。
青年は彼のしようとしていることに気が付いたのかニヤリと笑った。
「『解放』だっけ~?それはやめておいたほうがいいんじゃないでかな~。彼女、命令の相違で俺にもど~なっちゃうかわかんないから」
クスクス、と笑う声が耳につきカイルは魔方陣を霧散させた。その様子を見て彼はまた笑う。
「物分かりが良くていいね~彼君は。俺も__には、死んでもらってたら困るから~」
力なく肩を落とし右手を窓にたたきつけたカイルを見て青年隣に立つ少女を見た。
「そうだ、いいこと思いつ~いた。」
彼女は青年の楽し気な瞳の色をみて彼が何をやろうとしているのか分かったのか思い通りにならない自分の体に鞭打つように声を絞り出した。
「お、おねがい…。やめて」
「無理~。それに俺、人なんか殺したくないし?」
彼女の必死な様子を眺めて言葉を区切った彼はさらに口の端を歪めて笑った。
「や、やめて!」
彼はその金の装飾を凝らされた匣を指でなぞる。
「愛しい貴方の願いを聞いてあげられないのは心苦しいな~、でもさ、これは~貴方が悪いんだよ」
青年はそういうと匣の蓋を開けた。カチッと音がしてそれは美しい音色を奏でだす。
「さあ、まず手始めにあの家の周りに張られた防御魔法を解いてもらお~か」
「そ、んな、ことしない…」
オルゴールの音色が流れてゆくと少女はその身を切り裂かれるような痛みに襲われその場にうずくまった。
「__!?お前何したんだよ!」
「君はたぶん彼女の心配よりも自分の心配をしたほうがいいんじゃな~い?」
笑う青年は足元に転がる少女に目をやる。
「さあ、早く解除しなさいこれは命令だよ?」
命令という言葉に彼女は体を痙攣させて痛みをおさえつけるように下唇を血がにじむほど噛んだ。かれは彼女を見て一層笑みを深くする。
「そういう顔もいいね~__、そそられるよ~でも大事な貴方の体には傷がつくのは困るんだよね」
彼は彼女の銀色に光る髪を掴んで引き上げ、掌の音を紡ぎ続ける匣を近づけてもう一度言った。
「命令だよ~。解除解除~」
「あ、うあ。」
その言葉で彼女の右手が意思とは関係なしに動き、指を鳴らした。小屋の周囲に張られていた防御魔法が解けて消える。
「そ~、いい子。俺いい子が大~好き」
掴まれていた髪を放された彼女は冷たい地面に顔から倒れ込んだ。小屋から走り出てきたカインの方へ縋るように手を伸ばす。
「カイン!」
彼女のほうへ走ってくる彼を止めるべく名を呼ぶが少し遅く、彼は先ほどから構成を進められ容赦なく飛ばされた氷の球に胸を貫かれた。彼女の前でカインはスローモーションで仰向けに倒れる。
彼は何度か起き上がろうともがいた後咳と共に血を吐き出した。
「カ、イン?」
彼女はカインの下に広がり続ける鮮血を眺める。
「嘘、嘘嘘嘘、カイン!」
青年は純白の靴が血で染まるのも気にせずにその血を踏みつけてカインに近づき、彼の襟首を掴んで引き上げ、木の根元に座る格好にさせた。浅い息を繰り返すカインは薄く瞳を開いたがその目もすぐに閉じられた。
「クククククッ…」
さぞおかし気に笑う青年を無視し少女はカインの方へ手を伸ばす。
「カイン、カイン、カイン!」
青年は彼女の伸ばした手を血で赤黒く染まった靴で踏みつけた。鼻を突いた濃い人間の血の香に微かだが混じるその香りに青年は少し目を見張る。
一瞬、彼の脳裏に過ったものを振り払うように頭を振り青年は顔に笑みを張り付けた。
「あっぶな~い、弱すぎて危うく殺しちゃうとこだったじゃん。ほんっと、これだから人間はさ~。じゃ~次の命令ね」
「カイン!やだ、カイン!」
彼女はその手をカインの方へ伸ばし治癒魔法を発動させる。だがそれはもう一度開かれた匣から流れ出る旋律とそれによって縛られる痛みによって阻まれた。
「やめて、カインが、カインが、死んじゃう!」
「そ~だよ__、貴方のせいで彼は死んじゃうんだ。あなたの周りにいるものはこれから先み~んな死に続けるんだ」
「ち、ちがう!」
彼の残酷な笑みに、彼女の瞳から絶望が零れ落ちる。
「違くないでしょ?いつもそ~だったし、これからもそう。永遠を止めるために彼を選んだみたいだけど、残念だったね~」
「や、やだ、カインは、カインだけは!」
自分を見上げる彼女を見下ろした青年は先ほどのフラッシュバックをも嘲笑うようにその日最後の命令を下した。
「さ~、人間になり切れなかった彼と、子供を…」
彼のその続きは聴かずともわかった。絶対に逃れられないと分かっていても命令から逃れるために叫んだ、聞きたくない、と。
「…殺せ」
命令は下された。抵抗するために自我を喰おうとするそれを抑え込む。
「カイ…ッ。逃げ…て」
「ククッ。終わらせることを、終わらせてよ」
命令は下された。
堕ちてゆく意識の中で彼女の記憶に焼き付いたのは最愛の人の微笑みと微かな言葉。
「____。」
彼の一言は、暗闇に呑まれていく彼女の意識に確かに届いた。