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病室に入ってすぐに気がついた。
三井さんのベッドが空だった。ベッドの横に乱雑に積まれていた本の山も消えている。いつも服か何かの切れ端が挟まって半開きになっていた棚も隙間から中身が綺麗に片づけられているが見て取れた。
僕はやっと今まで感じていた違和感の理由に気がついた。
「そうか、三井さん、退院しちゃったんだ」
志乃はうんと頷きながら、ベッドに横になった。
「そうか、明日か明後日だって言ってたもんね。いつ?」
「今朝の早くだったよ」
「そか」
短く答えて、今まで三井さんがいたベッドを見つめる。
丁寧にベッドメイクされ、私物が綺麗に片づけられた空間は、まるで三井なんて人間が最初から存在しなかったかのようにがらんとしていた。
「寂しくなるね」
と僕は言った。
今まで感じた違和感。一人で休憩室にいたのは、たぶん、志乃はここに一人でいたくなかったのだ。三井さんのいなくなった空間は、いずれは慣れてしまうのかもしれないけれど、今はあまりにも空虚過ぎる。そして、少し感情が高ぶっていたのは寂しさを紛らわすためで、五木さんが声をかけたのはそんな志乃を気遣ったからだったのだろう。
「うん、そうだね」
それでも、志乃は寂しそうな顔を見せずに微笑んでいる。志乃は滅多に本心を口にしないし、感情を表に出さない。きっともう、そういう風に志乃という人格は形成されてしまっているのだろう。
「寂しくなるけど、でも、今度遊びに来るって言ってたよ」
思わず、僕は苦笑する。懲りない人だ。
「そりゃ、楽しそうな話だね」
三井さんのことだ。何か想像もつかないような悪戯を携えて、僕らを驚かせてくれるに違いない。
「それと、今後のことを話したいから、後で連絡して欲しいって。これ、連絡先。」
志乃の差し出したメモを確認してから、僕は大切に財布にしまいこんだ。
「家電か、なら夜に電話した方が良さそうだ」
「うん、まだ退院したばっかりでごたごたしてると思うし、その方がいいと思う」
それきり、何となくお互い黙り込んでしまう。
開け放たれた窓から入ってくる気の早い蝉時雨が静かな病室を塗りつぶした。
僕はごまかす様に鞄から参考書を出して、課題を片付け始めた。
僕は概ね志乃の病室で学校の予復習や課題を済ましてしまうことにしている。最初は休学している志乃や大学を休んでいる三井さんに嫌味になるんじゃないかと控えていたのだが、帰ってからやるのが面倒くさくてさぼりがちだという話をしたら、むしろ二人からここでするようにすすめてくれたのだ。それから、話題に困ると僕は課題をしてごまかすことにしていた。
が、どうにも今日はうまく集中できなかった。余計な事が頭をかすめて、しかもそれが漠然とした形のないことなのだから仕様がない。仕方なく、何か志乃と話そうかとも思うが、何も話題が思い浮んでこない。そもそも、僕らは互いに話題を持っていないのだった。例えば、今日何をしていたかとか、何か変わったことがあったかとか。そういう場当たり的な会話は停まってしまった時間を改めて思い出させるだけなのだと理解していた。だったら、最初から何も話さない方が良い。少なくとも、僕はそう思っていた。それに、ここで流れる気だるい時間は僕にとってまるで苦にはならなかったのだ。
でも、何となく。今日は何となくずれた感じがして仕方なかった。まるで自分以外の存在が書き割りのような安っぽい偽物にすり替えられてしまったようで。僕らの過ごしていた時間はこんなにも空虚だっただろうか?
志乃の方はというと、さっき休憩室で読んでいた文庫本の続きを読んでいるようだった。相変わらず。顔色が読めないので、何を考え何を感じているのか、よく分からない。
そうか、と思う。こんな時、三井さんがいたならば、決まって三井さんが下らない馬鹿話を始めたのだった。僕が好きだったあの安穏とした空気を形作っていた要素の中には三井さんという存在が大きく関わっていたのだろう。背後で志乃と三井さんが話す他愛もない世間話だとか、そんなノイズが僕の好きだった時間には不可欠だったのだ。
志乃がこの病院に入院して約4か月。最初に同室だった七瀬さんという物静かなおばあさんは一週間ほどで退院していき、それから三井さんが同室になって3か月余り。その間、ずっと一緒に過ごしてきたのだ。僕らの中でそれほど三井さんという存在は大きくなっていたのだろう。
何となく、三井さんのことを思い出す。
三井さんは志乃の2代目のルームメイトだった。とは言っても、三井さんはこの病院に志乃より先に入院していて、他の病棟にいたらしいのでニューカマーというわけでもなかったのだけど。
三井さんは人懐っこい猫のような印象を与える人だった。特徴的な大きな瞳は面白いことは何一つ見逃さないぞとでも言わんばかりに好奇の光に溢れ、肩口までのショートヘアは大抵寝癖がぴんとはねていたけど、そのはねが狙いすましたようにぴたりとはまっていた。
三井さんはたいそうな読書家で、寝食を惜しんで本を読み、活字を食べて命を繋いでいるような人だった。もっとも、入院してから暇を持て余して始めたことで、本人曰く「読書家というよりは乱読家」らしい。
でも、本好きだからといって物静かで穏やかかと言えば、全然そんなことはなかった。三井さんは少し変わった人だった。ていうか、クレイジーだった。何せ、病室に宅配ピザを注文したり、車椅子を押させてドリフトを要求するような人だ。まともじゃない。まともじゃないが、その奔放さはともすれば暗く重たくなりがちな入院生活を明るく照らして、僕らを楽しませてくれた。そして、いつのまにかそんな三井さんは僕らにとってかけがえのない存在になっていたのだ。
だから、三井さんがいないとどうにも調子がおかしくなる。何となく、空気が色あせて比重を増したように、普段通りのことをしているはずなのに味気なく感じて、気分が暗く落ち込んできてしまう。
……いかんね、どうにも。
「───そんな何気ない時間がいかにかけがえのないものだったか、後に僕は思い知ることになる。そう……あの時の僕らはなんて愚かで、そしてなんて幸福だったことだろう。あの惨劇のことを、想像することすらできなかったのだから……」
道化は道化たるべき。それは僕が経験から学んだ教訓で、三井さんが裏打ちしてくれたことだ。
「何それ?」
文庫本から顔を上げた志乃が訝しげにたずねてくる。
「暇だからモノローグを入れてみた」
「やめてよ、そんな不吉なモノローグ。大体、秀明君の冗談はつまらないよね」
志乃もいい具合に合わせてくれる。
よしよし、こんな感じだ。
「ほほぅ、それは僕に対する挑戦だな」
僕は不敵に笑う。
「違うよ、本当のことを言っただけだよ」
そこまで言われては本気を出さざるをえないな。後悔させてやろうじゃないか。
「───わたし、二宮志乃、17歳。いつもはちょっぴりドジな町娘のわたしだけど、ほんとのわたしはマジカントワールドのプリンセスなのっ♪」
もちろん、声色はできる限り高くしている。
「大変! 今日もお江戸が大ピンチ!? 八百屋町を南蛮渡来のエレキテルが跳梁跋扈! お供の虚無僧を引き連れてぇ、電光石火で変身よ! みんなっ! 用意はいい? 魔法の呪文、NA・MU・A・MI・DA・BU-TU!」
「……うわぁ……」
志乃はがくがくした。
ふん、他愛もないな。
「まぁ、僕が本気を出せばこんなもんだよ。どうだね、後悔しただろう?」
「……ごめんなさいでした」
志乃は何とも言い難い顔で素直に謝る。じゃっかん、日本語が変だけど。
「ちなみに、江戸と魔法のコラボが売りなんだ」
「自分で説明しないでよっ! こっちが恥ずかしいよっ! ……あともう、忘れさせてよ……」
下らないかけ合いをしていると時間がとろとろと流れ出すのを感じる。
そうそう、やっぱりこういう感じじゃないと。
それからも、しばらく僕の灰色の頭脳が唸りをあげて、志乃をこてんぱんにのした。僕を本気にさせるからだ。
ちなみに、課題の方はまるで進捗しなかった。