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病院の中に入ると強めに空調がきいていることに気がついた。やはり最近熱くなってきたせいだろう。身体にたまった熱が冷まされていくのを感じる。確か人体に最適な温度は24℃くらいだったっけ。汗をかいた後には涼しすぎるほどである。
昼間は外来で賑わうロビーも夕暮れともなると人影はまばらだ。2階まで吹き抜けの空間は広々としている、というより、今はがらんとしているという言葉が相応しい。全面ガラス張りの壁からオレンジ色の夕日が差し込み、誰も腰掛けていないソファーや雑誌棚、常緑の観葉植物が薄く影を落としている。
リノリウムのタイルを叩いた靴音が、空気に波紋を立てていく。
僕はこの時間のこの場所が好きだ。何となく、自分に似つかわしいように感じる。誰にも気兼ねしなくていいというのは実に気楽でいい。というのはまぁ、きっと僕は本質的に社会性のない人間であるということの証明なのだろう。
受付カウンターの前を横切って階段を上ると、ちょうど吹き抜けの空間を一望できる場所にこじんまりとした休憩所がある。休憩所といっても、自販機がある他はソファーが並べてあるだけだ。一応、部屋の隅に電話ボックスそっくりの喫煙スペースがあるが、思うにあれは設備ではなく喫煙者専用の拷問器具なのだと思う。
何気なく目を向けて、そこに志乃の姿を見つけた。小柄で、しかも髪を腰口まで伸ばしているという特徴的な容姿は見間違えようがない。志乃は窓際のソファーに腰掛け、膝の上に置いた文庫本に目を落としていた。あまり他の階をふらふら出歩かないようにと注意されているのに、また性懲りもなく抜け出してきたのだろう。
この休憩所は僕らが見つけたお気に入りの場所だった。そもそもは三井さんが煙草を吸いたいと何気なく立ち寄ったのがきっかけだったが、僕らはすぐにこの場所が気に入った。受付から離れていて近くにエレベーターもない。殺風景だからと余りものを並べて休憩所と称しているような場所だから、昼間の混雑している時でもあまり人を見かけることがない。忘れられたように使われることの少ないソファーがうずくまり、時折思い出したように自販機が低く唸り声をあげる。視界に入っていながら、気に留められることがない空間。そんなところを気に入るということは僕らにしろ三井さんにしろ似通ったものを持っていたということなのかもしれない。
というわけで、以来、たまに志乃や三井さんはこの場所でぼーっとしていることがある。あるのだが。
志乃は確かによく病室を抜け出す。ベッドで寝ているとまるで病人になったようで嫌なのだそうだ。実際、病人のくせに。とはいえ、出歩くときは屋上で三井さんと世間話をしていたり、病棟のロビーで五木さんと五目並べをしていたりと一人きりでいることはあまりない。それは一人でいるととっさの時に対処できない病を抱えていると理解しているからなのだと思う。
だから、志乃が一人きりでいたことに、僕は少し不可解なものを感じたのだった。
「どうかしましたか、お嬢さん? 」
おどけて話しかけると、志乃はまるでたった今気付いたというように顔を上げた。いつもそうだ。僕の来訪に気付いているくせに、僕が話しかけるまで気付かないふりをする。
「秀明君が来るかと思って」
つまらない冗談を言って、志乃、僕の幼馴染みの二宮志乃は微笑んで見せた。
「僕が来なかったらどうするつもりだったの?」
「部屋に帰ったよ」
「でも、待ってたんでしょ? 」
言外に何か理由があったんじゃないか、と僕は問う。
「うん。でも、何となくだから」
しかし、志乃の笑みからは真意が読み取れない。ある意味で僕と同じだ。僕は無表情で内心が見えず、志乃は微笑んで心中を隠す。もっとも、本当に心中に何かがあるのかどうかは分からないけど。僕も人のことは言えないが、志乃は志乃で意図の読めない行動をすることがよくある。
それにいくら病気だからと言って、いつも誰かといなければならないというのは精神的にも負担がかかることなのだろう。ただ一人になりたかったのかもしれない。ならばまぁ、病室でおとなしくしてればいいことなのだが。
「じゃあ、僕が来なかったらどうしたの? 」
とりあえず、内心の疑問は放置することにして、話を続けることにした。
「部屋に帰ったよ」
「そこはあれでしょ、来るまで待ってたとか言うべきじゃない? 」
「だって風邪ひいちゃうし」
まぁそりゃそうだ。そりゃそうだが。
「もう少し僕を喜ばせてもいいと思うんだけどな」
「私が待ってたら何で秀明君を喜ばせることになるのか分からないな」
「そりゃ好きな子に待っててもらえたら嬉しいもんでしょ」
冗談めかして、志乃は言う。
「それってもしかして、愛の告白? 」
僕は即答する。
「もちろん。愛してるよ」
志乃は苦笑して答えた。
「秀明君は真顔でそういうこというんだから。冗談が冗談に見えないよ」
「僕はいつだって本気だよ」
そう、いつでも僕は本気だ。ただ冗談しか口から出てこないだけで。
「結婚したら子供は二人作ろう。まず女の子を一人、次に男の子を一人。近所でも評判の仲の良い姉弟に育てるんだ。僕が働くから君はいつも家にいて、たまにクッキーなんか焼いて食べさせてあげてさ、とにかく愛情を注いで育てなきゃ。あ、でも、あれか、僕が主夫やってもいいけど、どっちがいい? 」
「それ、楽しそうだね」
僕の戯言に、志乃は足がぶらぶらと揺らしながら笑う。
「でも、まだOKしてないよ」
「まだ、OKしてないのね。まだ、ならまぁいいや。よし、やる気出てきた」
膝を叩いて気合いを入れるふりをして、僕は立ちあがって伸びをした。
「さて、と。そろそろ部屋に戻りませんか、未来のマイハニー」
うん、と頷いて、志乃は指を挟んでいた文庫本に栞を挟んでから立ちあがろうとして、
―――ぐらりと志乃の身体が傾いで、手から離れた文庫本がバサリと床に落下した。
とっさに肩をつかんで身体を支える。志乃の身体からは力が抜け、バランスを欠いた案山子のように僕にもたれかかってきていた。
「……大丈夫?」
返事は、ない。乱れた髪が顔に掛かって、顔色もよく分からない。
とにかく、ソファーに横たえた。
髪をよけて、顔を見てみる。とりあえず、苦しそうな様子ではないが、名前を呼びかけながら軽く頬を打ってみても反応がない。どうやら意識をなくしているようだ。
今更になって凍えるような震えが背筋を走り抜けた。知らず知らずの内に息を止めていたらしい。ためていた呼気を吐き出すと、急に頭に血が回ったせいか目眩がして足ががくがくと震えてくる。
……大丈夫、大丈夫、小さく呟いて、不安と焦燥でばらばらになりそうな思考をかき集める。冷静に冷静に、落ちつけ落ち着け。
まず最初にやるべきことは?
呼吸だ。
息を吸って、吐く。
とりあえず、目眩は止まった。
次は?
改めてソファーに横たえた志乃の様子を見る。
少し汗ばんでいるが、他には目に見える異常はないようだ。苦しそうでもない。
手をさしのべて首筋に当てる。
少し速いようだが、脈はある。
鼻先に指を当てる。
呼吸も正常。落ち着いているらしくゆっくりとしたストロークで息が吐き出されている。
次は?
もう一度呼吸だ。
大きく息を吐き出すと、安堵したせいか膝が砕けてへたり込んだ。知らないうちにずいぶん冷や汗をかいていたらしい。後頭部から背中までがぐっしょりとぬれていた。まったく、さっき拭いて乾いてきたばっかりだっていうのに。
一息つくと、やっとまともな思考が追いついてきた。
少し取り乱したとは言え、急場の対処としてはまぁそれなりにできたほうだろう。もっとも、対処といっても何ともなさそうだというのを確認しただけだけど。
幸か不幸か、志乃がこうして倒れるのは初めてではない。
志乃の抱える病気の一つに睡眠発作というものがある。集中して思考していようが、運動していようが、何の前触れもなく強い眠気に襲われて、最悪の場合、意識が断線するように突然眠り込んでしまうというものだ。ナルコレプシーの名前で良く知られている睡眠障害の一つである。
急に眠り込むだけ、言うなればそれだけの疾患ではあるが、しかし問題なのはいつ発作が起こるのか分からないということだ。例えば、階段を降りている時、火を使っている時、踏切を渡っている時、車を運転している時、意識がなくなれば死に直結しかねない状況というのは日常の中にいくらでも存在する。今だって僕が支えなければ床に頭を打ち付けていただろう。
あらかじめその可能性が念頭になければ、僕はもっと混乱していただろう。もっとも、何度経験したところで慣れるものではないのだろうけど。
まったく、たちが悪い。
立ち上がって、とりあえず脈を計り直してみる。やはり、志乃の脈拍は少し速い。
頬にかかった髪を払ってやる。志乃の顔は僕の内心を知ってか知らずか穏やかだった。薄い胸がゆっくりと規則的に上下を繰り返している。その無垢な姿を見る限り、志乃は安らかに眠っているようにしか見えなかった。
だが、実際には、たぶん……。
たぶん、志乃はとても強い人間なのだと思う。
だから、僕は右手を志乃の額の上にかざし、思い切りためてから、デコピンをした。
「いたーっ!?」
もう一発。
「痛い痛いっ!」
「やっぱり起きてやがったか!」
志乃は額をガードしながら上目遣いに僕を見上げた。目尻に涙をためているが、瞳の奥は笑っている。
「えへへ、驚いた? …って、痛いって!」
「心臓が止まるかと思ったわっ!」
あぁまったく志乃は大した人間だ。自分の病気を冗談にできるんだから。尊敬したって良い、もう少し節度を持ってくれるならば。
「あはは、心配してくれたんだ?」
「当たり前だろうが!」
「そっか、当たり前なんだ、嬉しいな」
本当に嬉しそうに笑う志乃を見て、僕は頭が回らず言葉が出てこなくなった。
「…………あのね」
思わず言葉につまった僕を見て、志乃はふっと笑いを消す。
それから、心の底から満ち足りたように微笑んだ。
「嬉しいな、ありがと」
何か言おうとして口を開き、言葉の代わりにため息がもれた。
何だか、全てがどうでもよくなっていた。
「よく演技だって分かったね」
「分からなかったよ、一息つくまではね」
志乃は起き上がって文庫本を拾い上げ、丁寧に埃を払ってから膝の上に置いた。そして、自分の隣をぽんぽんと叩く。座れ、ということらしい。
「でも、分かったんでしょ」
「まぁね」
答えながら、志乃の隣に腰掛ける。
「落ち着いてから、眩暈がして座り込んだ。その時、思い出したんだよ。この前、こんな風にへたり込んだことがあったなぁって」
体育の授業で炎天下の中で持久走をやらされた時だ。マラソン大会のための予習だそうが、あの時はいくらなんでもこんな炎天下の中を走らせるなんて、この教師は僕らに何か恨みでもあるんじゃないかと思ったものだった。案の定、授業が終わってからは死屍累々。僕もまた膝から落ちるという言葉そのままにへたりこんだのだった。
「普通ね、全身から力が抜けると膝が砕けて尻餅をつく。頭を打たないためか、人体の構造上、歩いていたりかがんだりしていなければ前には倒れないんだよ。膝の関節は前に曲がらないからね」
「でも、それって確実じゃないよね。例えば、私は倒れたふりをして秀明君に抱きつこうとしていたとか。それで、その後本当に倒れてしまったということも考えられるよね」
「それはないと思うね」
「どうして?」
「じゃあ、今抱きついてかまわないよ」
「遠慮しとく」
何か複雑だ。
「まぁ、確かにそれは証拠でもなんでもないよ。ただ引っかかっただけ。でも、実は志乃は起きているんじゃないかと考えると、もう一つ引っかかることがあった。分かる?」
志乃はしばらく目をつむってから首をふった。
「……うまく演技できたと思ったんだけどな」
「確かに、見た目じゃ眠っているようにしか見えなかったよ。それは純粋に賞賛する」
「そうかな? えへへ」
いやまったく賞賛するよ。こういうくだらない悪戯に真剣になれることには。
「引っかかったのは目には見えないところ。脈拍だよ。あの時、志乃の脈拍は少し速かった」
最初は気にもとめなかった。というか、そもそもそんな余裕がなかった。でも、改めて考えてみると何か妙な気がした。
「脈拍が速い? 確かにそれは考えなかったなぁ。でも、それが何なの?」
「脈が速いということは身体が興奮しているってことだよね。もし本当に意識がなかったならば、当然、鼓動に合わせて呼吸が乱れていたはずだ。でも、志乃の姿はどう見ても落ち着いて眠っているようにしか見えなかった」
基本的に身体の状態は心臓の鼓動に比例する。例えば、暑くなくても運動していなくても、緊張して鼓動が速くなると汗をかく。呼吸もまたしかり。なのに、それが矛盾していた。
「つまり、考えられるのは、本当は志乃は起きている。起きていて、僕があたふたするのを内心笑いながら見ている。そして、それに気付かれないように狸寝入りをしているのではないか、というのが僕の考え、なんだけど」
尻つぼみ気味に推測を話し終えると、志乃は一つ息を吐いて膝を叩きながらうなった。
「爪が甘かったかぁ、もっと研究するよ」
「すんな」
プロの役者は鼓動すら操作して嘘発見器すら騙せるというが。自律神経まで制御して一体何をする気だ。
「でも、すごいね。名探偵だね」
「いかにも、僕は迷探偵だとも」
そんなに感心されると嘘をついてるみたいで気がとがめる。実際、僕は迷探偵だ。実のところ、確証なんて何一つなかったのだから。
志乃に説明した通り、違和感を覚えたのは事実だ。だが、志乃の身体のことを差し引いて考えれば、それは根拠になるような代物ではない。志乃の身体はまともじゃない。何があってもおかしくない。そもそも、僕には医学に関する知識なんてほとんどないのだ。確かなことなんて断言できようがない。
ただ、今話したような違和感を覚えた時に思い当ったのだ。最初にこの休憩所になぜ志乃が一人でいたのか。その理由がこの下らなくも心臓に悪い悪戯だったと考えれば筋が通るかもしれない、そう思っただけだ。
結局のところ、違和感の連続が気になっただけで確かなことなんて一つもなかった。一つあるとすれば、つき合いの長さだけか。志乃がこういう悪戯を思いついたとしたら実行するに違いない。確信があったとすればそれだけだ。
しかし、と思う。もし、僕が医者を呼びに行ったりしたらどうしてたんだろう。きっと、僕がいない隙に逃げて何を聞いてもとぼけたりされたんだろう。僕を騙して恥をかかせるのはいいとしても、お医者様にかける迷惑はどう考えてたんだろうか。冗談を言ったり嘘をついたり悪戯を仕掛けてみたり、そんなことはいくらでもやりそうな志乃ではあるが、赤の他人に迷惑をかけるようなことは絶対にしない、というか性格的にできないはずなのだ。
一難去ってまた一難ならぬ、違和感去ってまた違和感。今日の志乃は、何というか、少し向こう見ず過ぎるというか、テンションが高過ぎる気がする。あるいは三井さんの影響なんだろうか。あの人のスタンス、面白ければ即実行、後のことは謝れば何とかなるという。実際、これが三井さんだったら大いに腑に落ちる話ではあるんだけど。
「どうしてこういうわけの分からないことをするかな」
「だって、秀明君が気を遣われると嬉しいって言ったんでしょ。だから、早速気を遣って合法的にお姫様だっこできる状況を作ってあげたんだよ」
「そういうのは気を遣うって言わない。大体、僕が意識がないことをいいことにあれやこれやときたらどうするつもりだったの?」
「悲鳴をあげる。警察に電話する」
そうですか。それはそうですね。
僕はにっこり笑い、感謝の念をこめてデコピンした。
「人を試すようなことはやめれ」
あぅぅ、と額を抑えてうなる志乃を見ながら、ぼんやりと考える。
僕はほぼ毎日志乃の見舞いに来ている。でも、入院生活はそのものはまるで判で押したように変わり映えがしない。入院患者が退屈するのはもちろん、見舞いに来る方だって辟易するくらいに退屈だ。
だから、志乃は僕を気遣ったんじゃないだろうか。精一杯知恵をしぼって下らない悪戯を考えて、わざと明るくふるまって。日頃、志乃を見舞っている僕のために。
もし、そうだとするならば、そんなのはとんだ余計なお世話ではあるけれど、何ともありがたいことだ。
それともやはり、それは僕の考え過ぎなんだろうか?
「見抜かれちゃったね」
志乃は笑った。僕の気持ちなんて、とうの昔に知っているという風に、含みをこめて。
「今度、リベンジするよ」
「すんな」
やっぱり、僕の考え過ぎかもしれない。