02:見果てぬ——
叩きつけられる!と思っていたりなだったが、いつまで経っても衝撃は来ない。不思議に思い、恐る恐る目を開けてみれば……。
「?」
そのおかしさに気付く。目を開けているはずなのに、その視界には何も映っていない。見える景色は白く染まったままであり、照明に向かって目を閉じているようにも思え、本当に目を開けているのか疑問に思うほどである。辺りを見渡してもそれは変わらない。振り向くときに、視界の端で自分の髪を捉えていることから、目が明いていないということではないのだろう。自分の手を目線の高さに挙げれば、当然これも見えるのだから。
結局、ここはこんな真っ白な場所なんだとりなは結論付けた。
すべてが白く、立っているかどうかすらも判断がつかない空間。浮かんでいるようにも感じるが、果たしてどれが本当なのか。
「ようこそ、神の座へ。」
背後から、鈴の音のように軽やかな声がかけられる。振り返ってみると、真っ白な背景の中にショートヘアの女の子が微笑んでいた。この少女もりなと同様、浮かんでいるのか、立っているのか。床が見えないこの空間で、それを決定するのは難しいだろう。
少女の肌は真っ白であり、注意深く見つめなければ、空間と一体化しているようにも見える。銀色の髪は、長いりなとは対照的にとても短く、肩にすら届かない。眼は深く透き通った蒼色で、その姿形はまさに人形と表現するのがふさわしい。少女の見た目でありながら可愛さではなく、神秘的な美しさを湛えていた。
「えっと……あの……」
突然人が現れたことや今を取り巻く状況のせいで、声が出せずに詰まってしまう。
その様子を見て察したのか、少女が口を開く。
「うーん、混乱してる?とりあえずお話しましょ。落ち着くかもしれないから。」
話し方は見た目相応に子供っぽいようだ。
「貴女は状況が理解できないと思うから、私が先に話すね。まずはおめでとう!君は選ばれた。別の世界で生きることが、あなたにはできるの!剣と魔法の世界。力と神秘が満ちる真の世界!」
いきなりそんなことを言われて、混乱から覚めるような人がいるのだろうか。いるならきっと、その人は勇者や英雄なのだろう。りなが読む物語の主人公達はみな、そのような強者ばかりであった。彼らは迷うことなく異世界へと飛び込んでいく。理由はそれぞれだが、違う現実を受け入れることに恐怖する人はいない。しかしながら、実際にこの言葉が掛けられたとき、受ける圧力は想像をはるかに超えるだろう。物語として読むことと現実に遭遇することは違う。
事実、りなが混乱から覚めることは無く、
「いきなりそんなことを言われても……。なんで私なの?」
とっさに返せたのはそのくらいだった。どうして私なのか。友達や家族の誰かではなく、私なのだろうか。
「え……わからないの?これは貴女が望んだことなのにな~。せっかくだから思い出させてあげるね。」
少女が近づき、りなの額に手を当てる。見える景色は一瞬で変わり、そして……
忘れたはずの記憶が、頭の中を駆け巡る。
強い憎しみ、悲しみ、やり場のない怒り。
身を焦がすほどの感情の嵐。
再び少女が話しかけてくる。
「思い出したでしょ~?『小説の中に行ければいい』って強く思ったでしょ~?それが理由。貴女が、別の世界で生きる権利を持つ理由。さすがに小説から小説に行くのは難しいけど、小説の中に行くくらいなら、叶えてあげられるもの。」
この瞬間、りなの決意は固められた。
(どうして私は、こんな大切なことを忘れていたの?そう、あの世界はもう真っ暗なんだ。なら行ってしまえばいい。旅立ってしまおう。この少女が言うには、私にはその権利がある。なら使おう。権利はつかうべきだから。)
(ああ、でも落ち着いて。肝心なことを聞かないと。)
「私が……」
「ん?」
「私が行く世界は……輝きに満ちているの?あんな暗い世界じゃなくて、たくさんの物語たちのように、光に満ち溢れているの?」
りなは静かに問う。この点を確かめなければ。そうでなければ行く意味がない。行った先は暗い世界でした、なんて悪い冗談でしかない。
少女が口を開く。胸に手を当て、堂々と答える。
「もっちろん!この『モノディア』が保証してあげる。貴女の新しい生き方は、きっと輝くものになるわ!」
――なら、もう迷わない。
「行ってあげる。その『別の世界』に。ここよりも良い所なんでしょ?」
「ええ、貴女にとっては良い所よ。ついでに贈り物をしましょう。貴女が不自由をしないように。願いをかなえるのだから、それくらいは当然のこと。
あなたのカバンに魔法をかけましょう。あなたが生まれて初めて見る魔法になるわね。
文字も言葉も気にしなくていい。すべて日本語で通じるわ。夢を叶えるのに『異世界では言葉が通じませんでした』じゃ、訴えられても文句は言えないもの。
住環境も普通に生きる分には大丈夫。もし不自由があるとしたら……『知らないことは勉強して』くらいかな。」
「知らないこと?」
「日常的な魔法の使い方とかね。これだけは知っておいた方が便利よ?せっかく魔法の世界に行くわけなんだし。あとは貴女次第だけど、戦い方とか、礼儀とか、歴史や学問とか!『常識』って言った方がわかるかも?」
「あー、そういうところ。そのくらいは勉強するよ。全部知ってたらつまらなさそうだし。」
(当然だ。私は世界を旅するから、全て知ってたら行く必要もないもんね)。
「おっけーおっけー。じゃあ最後に一つだけお約束ね。向こうで最初に会った人にこう言って。『私、記憶がないの。』これさえ言ってくれれば、あとは流れに任せていいわ。やさしい人が全部教えてくれるから。」
「『私、記憶がないの。』……うん、覚えた。それじゃあ、もう行っていいの?」
「どうぞ~。楽しい第二の人生を!」
少女が――ううん、彼女は名前を言ってた。――モノディアが手を振りながらぼやけていく。背景と見分けがつかなくなり、消えていく。真っ白な背景はだんだん暗くなり、そして――。
――りながいなくなった後。
モノディアは独り、何をするというわけでもなく、ぼんやりと佇んでいた。しかしその顔には笑みが浮かんでいるように思える。
そこへ、ローブの裾を引きずる音とともに、男性が現れる。その顔はフードで隠され、よく見えない。
「おい、解する力を渡したことは伝えなくていいのか?」
その声は若い青年の声であった。その問いに、モノディアは答える。
「別に伝えなくてもいいわ。あの子にとっては知らない方が良いことだもの。そもそも、あれは私があげたものではないし。
彼女自身の持つ力、いわば本質にあたる物よ。私たちの未来のためを考えるなら、ゆっくりなじむ方が都合がいいわ。」
「……そうか。」
「とにかく、解する力については私たちだけの秘密。そのほかは誰も知るべきじゃない。そもそも、今すぐにあの子の後を追うこともできないわ。もう、時は過ぎ去ったの。さあ、私たちにもやるべきことはあるわ。最後の鍵がそろったのよ?」
「わかった。私は何も言うまい。それが貴女の決定なら。」
そういって、男はどこかへ去って行った。
「大丈夫……ここまで準備してきたんだから……。すべては私たちの思い通りに。」
モノディアのつぶやきは、白い世界に消えていった。