一雫の涙
あの日は特に何もない日常だった。
だから、何がどうしてこんなことが起こってしまったのか、正直よくわからなかった。
ただ呆然と最初に起きた初めの悲劇を見つめていることしかできなかった。
こんなことになるのをもっと早くわかっていれば、何かが変わっていたのかもしれなかったのに…
父が、母を刺した。
多分ほとんど即死だったのだろう、
刺された母はその場に倒れ、父は母をまたいで私と姉の方に歩いてくる。
私たちは逃げた。
父は私たちも殺そうとしているのだとそう感じたから。
父が追いかけてくる。
階段を急いで駆け上り、窓から逃げようとした。
姉は私を先に行かせた。
窓から出るのは初めてではなかったので私はなるべく早く出ることができた。
そして、私は逃げ出た瞬間に先に出てはいけなかったと思い知ることになる。
姉は、窓から一度も出たことがなかったのだ。
そのため、姉は窓から出るのを一瞬ためらった。
その一瞬が取り返しのつかないことになってしまったのである。
父が、もう姉の背後に迫って来ていた。
父はナイフを思い切り振り上げた。
「お姉ちゃん‼︎‼︎お父さんが後ろに‼︎早く逃げてぇぇ‼︎」
そして、
ブシュッ…
残酷な音を立て、姉は父に背後から刺された。
「お姉ちゃぁぁぁん‼︎‼︎‼︎」
私は泣き叫んだ。
父はナイフを姉の身体から抜き、その身体を窓から突き落とした。
ドサッ
急いで姉のもとに駆けつける。
姉の状態を確認すると、姉はもう、死んでいるとわかった。
家族の手で家族を2人も殺されてしまった。
次は私が殺されてしまう。
私は急いで玄関から家の中へ入り、台所へ駆け込み、包丁を取り出した。
殺してやる。あの憎い父親を。
父が家の中に入ってきた。
辺りを見回しながら私を探している。
そして、物音を立てないようドアの影に隠れた。
ギシッギシッ…
足音が近づいてくる。
失敗したら私は死ぬ。死んでたまるものか、死ぬのはあの憎い父親だ。
父が台所に入ってきた。
隠れられそうなところをくまなく探す父。
そして、ドアに背中を向け探し始めた。
今だ…!あいつを殺してやる…‼︎
ブシュッ…
背後から思いっきり心臓めがけて包丁を突き刺した。
「ゔっ…」
苦しそうな呻き声をあげながら父は私の顔を見る。
怒りに満ちた目。母と姉の血で汚れた手。
この時、私はもう全てが終わってしまったのだなとなぜか、そう思った。
さっきまで憎く思った父親を目にしてももう何も思わなかった。
苦しみながらも父は死ぬ直前にナイフを私の腕に突き刺した。
刺された腕は血を吹き出し、
私の目の前にいるコイツは死に絶えた。
刺された時、痛みは感じなかった。
父の最期を見た後ただ私は静かに涙を流した。
ただ、静かに…。
しばらくした後、パトカーや救急車の音がした。
多分、近所の人が外の姉の死体を発見したのだろう。
騒がしい音がして、警察などが駆け込んできた。
「大丈夫ですか!」
私を見つけた警察は血まみれの姿をみて叫んだ。
「ーっ…」
何か言おうとしたけれど、言葉が出てこなかった。
そして、警察は私を救急車に乗せ私は病院へと運ばれた。
刺された腕は神経が切れたらしく、また腕を動かすことは難しいと医者に言われた。
警察には、父が狂乱し母と姉を殺した。私は正当防衛として、何も罪はないと言われた。
そんなことはどうでもよかった。
たとえ片腕が動かなかろうと、私には罪は無かろうと。
ただ、何も信じられなかった。
父が家族を殺した。
私が父を。父を殺した。
夢だと思いたかった。
夢ならば早く覚めて、嫌な夢だったなと家族で語りあいたかった。
警察や、医者の言葉から感じるのは、放心状態の私に
「現実を見るんだ。」
そう言われてるようにしか感じることができなかった。
そして、私は病院を退院し、高校生になるまでの二年間、孤児院に入ることになった。
私はそれが死ぬほど嫌だった。
なぜなら、殺人を犯した犯罪者の娘であり、その犯罪者を殺したのが私だと孤児院に知れれば、私は間違いなく誰からも近づかれるのを拒否するだろうと思ったから。
そして、私はあの事件以来
声が…出ないのだ。
精神的なショックで一時的なものだろうと言われていたが、私が病院にいた期間は約半年。
色々なケアを受けてきたが、片腕と声だけは何も回復を見せなかった。
しかも、笑うなどの表情のどのようにして表情を作ればいいのか忘れてしまった。そのため心の中では笑っていたとしても、全く表情は動かなくなってしまったのである。
そんな私はまるで人形のような人になってしまったのである。
そんな感情を無くした私を親戚は皆気味の悪いものを見たという顔をして私を引き取ることを拒否し、そのため私は孤児院に入れられたのだ。
予想通り、犯罪者の娘であり声が出なく、表情のない私を孤児院の子どもたち、そして孤児院の子どもたちを世話する大人たちまでもが私を避けた。
私が通りかかるたびに子どもたちは怯えた表情をした。
大人たちは皆、不気味な私と関わるのを嫌がった。
もちろん、私の前で嫌がった素振りは見せなかったが。
聞いてしまったのだ。大人達が集まって私と関わるのが一番大変だととても嫌な顔をしながら言っているのが。
それからというものも、私は部屋に閉じこもるようになった。
食事もとらなかった。
死にたかった
死んだら家族に会えるから。
なぜ、あの時私は父を殺した時自分も死ななかったのだろう。
あの事件で消え失せたものを考えると数えきれないほど消えたものは出てくる。
こんなに心の中では泣き叫びたい気分なのに涙は一雫もこぼれ落ちることはない。
孤児院の人達は皆嫌いだけど、
私は自分が一番嫌いで、憎たらしかった。
死んでしまいたかった。
私は部屋の窓を開け、窓から飛び降りた。
私の部屋は3階、多分死ねるだろう。
ここから飛び降りれば死ねるかもしれない。
死んだら、また家族に会えるかもしれない。
しかし、私は窓を開けたまま飛び降りようともせず動かなかった。
いや、動けなかった。
私は死にたかった。
なのに、死ぬのが怖かった。
死にたいのに、怖くて死ねないなんて実に馬鹿馬鹿しいことだ。
私は窓を閉め、床に座り込んだ。
ひたすら自分の頭を壁に打ち付けた。
死ね、死ね、死ね…!
こう思いながら、頭を打ち付け続けた。
ゴンッ…ガンッ…
打ち付ける音が部屋の中に響いていた。
額はぱっくりと割れ、血が滴り落ちた。
パタタ…
床に血がたくさん流れ落ちた。
だが私は血が流れ落ちても、私はこの行為をやめなかった。
他の部屋からこの打ち付ける音が聞こえてきたのか、孤児院の人達が入ってきた。
ひたすら頭を打ち付ける私をみて
「やめなさい!死んでしまうわよ!」
と、ほとんど発狂しながら叫んだ。
しばらくした後、私は大人二人掛かりで押さえつけられ病院へ行かされた。
額はずっと打ち続けたため、相当深い傷ができ、十針も縫うことになった。
このような問題が起こってしまったため、私は病院で暮らすことになった。
孤児院でなく、病院で暮らすと聞いて私心底ホッとした。
私は表情は相変わらず動かなかったが、心の中では喜んでいた。
病院で暮らすになった私は毎日精神のリハビリと腕を少しでも動かせるよう腕のリハビリをしていた。
腕のリハビリをしていると、一人の私と年の近そうな男の子がリハビリ室に入ってきた。
私がリハビリの先生に聞いてみると
「腕を骨折した人でね、あの人もリハビリをしているんですよ。
もうすぐあの人は退院できるそうですけどね〜。」
と語ってくれた。
腕のリハビリをしている人は私とあの男の子しか今のところいないらしく、度々リハビリの予定がかぶることもあった。
今日もリハビリ室であの男の子と会った。
男の子は会釈をしてくれた。
会釈を返し、それぞれリハビリを始める。
リハビリを終えると男の子が近づいてきた。
「こんにちは。よく会うね。君はどうしてリハビリをしているの?」
話しかけられ、私はどうすればいいのかわからなかった。
声が出ないため、話すこともできない。
表情も無く、声も出さない私を男の子は不思議そうに言った。
「どうして、無表情なの?あと、なんで話してくれないの?」
何とか返事を返したかったが、どうすればいいかわからない。
私はためしにジェスチャーで伝えてみた。
私の動きを最初は驚いた様子だった男の子だったが、やがて何か伝えようとしているのだとわかってくれたらしく、真剣に私の動きを見てくれた。
「つまり…声が出ないのかな?」
この答えに私は頷く。
男の子は納得したようだった。
そして、何かを思ったのか急いでリハビリ室を出て行った。
謎に思いながらも私は男の子の背中を見送った。
しばらくして、男の子は手に何かを持って私のもとへ戻ってきた。
男の子が近づいてくるにつれて私は男の子が紙とペンを持ってきたことに気づいた。
「これで話すことが出来るでしょ?」
にっこりと私を見つめ男の子は紙を渡してくれた。
「じゃあ、自己紹介からだね。俺は悠。高校二年生なんだ。君の名前は?」
私は紙に【琴音です。今、中二。】と書いた。
「琴音ちゃんか〜。俺と三歳差だね!俺はあと、一カ月ぐらいで退院だけどよろしくね!」
悠の笑った顔はすごく素敵だった。
紙に【よろしくね】と書くと悠はまた笑顔を見せ
「琴音ちゃんはどうしてここに?」
この質問にたいして私は一瞬本当のことを言った方がいいのか迷った。
しかし、悠には正直に言った方がいいだろうと思い紙に
【お父さんがお母さんとお姉ちゃんを殺した。私は正当防衛としてお父さんを殺して、そのショックからか声が出なくなって、あと表情もつくれなくなった。腕はお父さんに刺されて神経が切れたかもしれない。だけど一応リハビリをしてみてるんだ。】
と書いた。
悠がどんな反応をするのか心配だったが、悠は今までの子達とは違い
「そっか…。辛かったんだね。」
と私を慰めてくれた。
私は
【でも、感情がなくなったわけではないよ!ちゃんと気持ちはあるけど顔に表せられなくなっただけ。慰めてくれてありがとう。とっても嬉しい。】
と伝えた。
悠は笑って
「よかった!あのさ、リハビリじゃない時も会いに行ってもいいかな?病院あんまり話し相手いなくてさ〜。」
と言った。
私はとても嬉しかった。
紙には
【もちろん!こんな私で良ければ全然!ていうか、こちらこそいいの?】
と書いた。
「やった!じゃあ、これからよろしくね、琴音ちゃん!」
と笑顔で悠は言った。
それからというものの私はあの事件以来毎日を楽しいと思うことがなかったのだが、悠がいることによって楽しいと思えるようになった。
悠はいつも楽しいことを言ってくれた。
感情を顔では表せられない私は必死で感情を紙に書いて悠に伝えた。
あの事件以来、初めて私は毎日を幸せだと思えるようになった。
しかし、幸せな日常はあまり長くは続かなかった。
悠の退院が近づいてきていた。
ある時の事、悠は回復力が高く、もう腕の調子も大丈夫だろうということで、退院する日が一週間早い日になった。
悠はあと五日で退院する。
それが、私の心を苦しめた。
「俺、もうすぐ退院なんだけど、絶対に退院してもまた琴音ちゃんに会いに行くからね!」
悠のこの言葉がとても嬉しかった。
私は紙に
【ありがとう。悠が退院したら寂しいけど、悠がまた私に会いに来てくれるなら寂しくない。】
と書いた。
悠は少し照れくさそうに
「俺なんかで良ければ琴音ちゃんみたいな可愛い娘に退院しても毎日会いに行ってもいいくらいだよ。」
と言った。
私は驚いて、思わずペンを落とすところだったが、かろうじてペンを握りかえし紙に文字を書いた。
【可愛いだなんて…。毎日は悠君が大変だろうし、一カ月に一回とか二カ月に一回とかで全然構わないよ!悠君は悠君の予定もあるだろうし。】
悠は私の書いた文を読んで言った。
「わかった。俺退院したらまず色々としなくちゃいけないことがあるからそれを終わらせてから琴音ちゃんに会いに行く。それまで待っててくれるかな?」
不安そうな悠の表情をみて、
【もちろん。悠君のこと待ってるよ。】
と紙に書いた。
悠はにっこりと笑って
「うん。待っててね!」
と言った。
そして、五日はあっという間に過ぎ悠は元気な姿で病院を退院した。
私は日々悠の事を思いながら過ごした。
何をしているのかな。いつまた会えるかな。
こんなことを思いながら。
悠がいなくなってから過ごす病院は何か心にぽっかりと穴があいたような感じだった。
あんなに楽しかった日々が悠がいないだけでこんなにも違う。
悠にまたいつか会える。その時まで私は待ってるよ。
そう思って、待ち続けた。
しかし、悠は一年経っても病院に現れることはなかった。
私との約束忘れてしまったのかな。
ずっと待っていたけれど、一年経っても来ないということは悠はまだ忙しいのか、それとも、私との約束を忘れてしまったのか。
悠を疑いたくはなかった。
悠はきっと来てくれる。待ち続ければまた会えると信じて。
結局、悠が退院してからもう三年も経った。
三年経っても悠はまだ私に会いに来ていなかった。
悠はもう来ないのかな。
度々こんなことを思うようになった。
思うたび、胸が苦しくなった。
信じたくなかった。
今日は精神のケアも腕のリハビリもなく、私は久々に何もない暇な一日を過ごしていた。
何もしていないと、必ず悠の顔を思い浮かべる。
私はもう、悠にまた会えるという希望を失いかけていた。
三年も待ち続けても来なかった。
ずっと待っていたのに。
本当は泣きたい。
でも、やっぱり私の瞳からは一雫も涙は零れ落ちることはない。
孤児院にいた時のように、また、自分に嫌気がさした。
どんなに悲しい気持ちだったとしても、泣けない。
どんなに楽しく、幸せな気持ちだったとしても、笑えない。
そして、声も出せない。
私は、紙からでしか気持ちを伝えられないのだ。
紙に書くだけでは伝わらない思いもある。
それは、私が悠に出会ってしばらく経った日に気づいた想い。
紙に書いて伝えたくなかった。
できることなら声に出して伝えたかった。
どう頑張っても声は出なかった。
そして、この想いを伝えられぬまま悠は退院してしまった。
もう、会えないのかな。
もう、この想いを伝えることはできないのかな。
そう、思っていた。
その時…!
バンッ!
いきなり私の個室の病室のドアが開き、ある人が室内へ入ってきた。
その人は、私が今、一番会いたかった人であり、一番大切な人だった。
その人はこう言った。
「遅くなってごめん。色々あって病院に行けなかったんだ。待たせたよね。」
懐かしい声だった。
少し、背が高くなっていたりしたが、間違いなく、悠だった。
そして…、
「あ…会いたかっ…た。」
驚いた。
そして、悠も驚いていた。
「琴音ちゃん、声出せるようになったの⁈」
この質問に、
「い…今…、声が、あの日、以来、は、初めて…で…た。」
あの事件から約四年ほど経ってからはじめて声を出した私はゆっくりゆっくり慎重に声を出していった。
「悠君に、会ったら、勝手に、言葉、が、出て、きた。
悠君の、お…かげ、だね。」
悠は驚いた様子だったが、にっこりと笑って言った。
「まじか!なんか嬉しい。てか、ほんとに待たせてごめんね。心配したでしょ?」
ほとんど、悠の言葉は聞いていなかった。
悠に会えた。
声が、出た。
とても嬉しいことが一日にして起こったから。
ふと気づくと、私の瞳から
一雫の涙が零れ落ちた。
そして、
「悠君。本当に、ありがとう。大好きだよ。」
満面の笑顔で私は言った。
あの日以来、初めて私は心から笑った。