僕は海を食べる
この小説はフィクションです。ゆえに文学賞の選考システムなど、妄想で書かれた部分が多いです。作者の知ったかぶりを許してくださるのみ、お読みください。
目が覚めた。気が付くと大学の研究室の仮眠室に横たわっていた。ブランケットが覆いかぶさられ、窓から春の日差しが俺の横顔を照らしていた。あ、じゃあ二度寝すっか、みたいなノリでしようかと思ったら、
「あ、単位。俺、終わった」
そう呟いて、ははと笑って泣き落としを教授にする準備を始めることにした。悲しいことを考える。風野くんってイケメンだよね~と女子からちやほやされていながら未だに童貞の道程を歩んでいる。一人だけ、地味な眼鏡の子、でもタイプの清楚系の子と意気投合してビジネスホテルのベッドに入ったことはあった。だがその子は酒に弱く、酒さえ飲ませれば女は誰だって気が乗るものだと思い込んでいたのが裏目に出て、結局キスしてかるく胸をさわったらいきなり、眠いから寝るね、と言い出して彼女は寝込んだ。それから朝までペイパービューでハリウッド映画を観て泣き酒をしていた。コメディ映画を笑うところで笑いつつも、最後はやっぱり大泣きしていたのであった。
そういったことを思い出したら馬鹿みたいだけど涙腺が熱くなった。単位消滅留年確定、成績表が届いたころに帰ったら母親が俺の好物のグラタンを用意して、無言で微笑みかけて、ああ、思えばこの時期から内定もらってないじゃないか。
ま、食いぶちはないことはないんだけど。
悲しい感情に隠れて、俺の日常で唯一わくわくする時間。ノートパソコンを立ち上げ、メールを見る。
編集さんからだ。先月発表した俺の作品が、文学賞を受賞した、との報告だった。
そう、俺はエンタメ小説家、高校時代にデビューし、大衆文学の文学賞の頂点、紅葉賞を目指して執筆し続けているのだ。だが疑問が残る。
いったい全体、なんでうちの偏差値五二の中堅馬鹿マンモス大学の女子学生は、この俺とセックスしないんだよお! 直してほしいところなら直す、メリットはたくさんある、なのになんで俺はこんなにモテないのお?
まあ、このときはこんなことを考えていたりして、しょっちゅう悶えていて、だけどそんな悶えている自分が、なんか可笑しくって、嬉しくって。生きてて良かったと、たまに思ったりする。
そして、俺がモテないという現実の向こうで、このときの俺は何も知らない、かけがえのない人が待っていて、それがモテなかった本当の理由なのかもしれない、と思うのは、ずいぶん後のことだった。
実家には土日帰ることになっている。面倒な家事を母親にやってもらい、小説の執筆に一日中当てている。怖いものは締切よりも返本率だ。俺は短時間で大量に書くスキルはあるものの、ドンピシャなヒット作を生み出すのはまちまちで、それでも編集さんたちが俺の要求に諦めず協力してくれるので、大学に通っていても編集さんは取材などを徹底的にやってくれ、非常に助かっている。
とりあえず時計を見た。三時過ぎのようだ。状況を思い出して整理する。とりあえず今日は卒業論文の提出の最終締切のはずだった。それを忘れて、就活生向けの講義を研究室と同じ学館で受けていたはずだ。そしてうつらうつらと眠くなり、研究室で分厚い資料につけておいた付箋をつけたページを、ノートパソコンの論文と照らし合わせながら捲っていき……おそらくその途中で俺は眠りについたのだろう。もう他の学生は卒論をとっくに仕上げていたので俺は研究室で一人だった。
だが普通に考えりゃ状況は察するだろう、この梅が咲き始めている時期に研究室で卒論やってる馬鹿、ヴァカ、つまり俺のことだよ! このヴァカを叩き起こしてくれる人はいるだろう普通。用務員のおばさんでも清掃係のおばさんでも、起こしてくれるはずだ。そもそも、俺のガタイは一八〇センチ六五キロだ。人っ子一人で運んでソファに横たえさせるには無理だろーが。まあできないことはないと思うけど。考えてみると違和感がにじみ出てくる。そして、俺の涙もにじみ出てくる。どうでもいい言葉遊びはよそう。
まあ、とりあえずそれは置いておくとして、冷静になって考えてみりゃ、うちの大学は某理科大学みたいな厳しい制度はないし、ゼミの先生は温情主義なので大丈夫だろう。まあ俺はこれでも売れっ子小説家だからな。長嶋茂雄選手が立教大学を卒業した時の逸話らしいんだが、彼はI live in Tokyo.の過去形を述べよという常識外れの試験問題を出されたとき、はい、わかりました先生! 過去形は、I live in Edo.ですね! と答えたにも関わらず、無事卒業できたんだから、まあ、課題出してもらおう。「先生、紅葉賞受賞のインタビューのときに、先生と同じロレックスの時計をつけて、お慕いしていた先生のもので大切につけているんですよ、って取材陣にアピールしますからね!」なーんて、口説き文句を用意すりゃたぶん長嶋茂雄さんみたいに、大甘で卒業させてくれるかもしれないしな。
学業に関してはこんな感じで上げ膳据え膳なわけだが、本業である小説においては妥協はしないと決めている。大学には信頼なんていらないからだ。小説の仕事は、一人じゃ太刀打ちできない。
俺はコミュ障、ぼっち、童貞の三要素がそろってる。だから味方が、必要なんだ。
なーんていう気障なこと言いたいんじゃないけどね。編集さんにはしょっちゅう怒られるから、こんな仕事やめてやると思ったことも何度もある。
中学時代から書き始めた小説だったが、俺には見せる友達がいなかった。けどもう俺は孤独じゃない。俺の生み出した作品が、ハードカバーになり、そして数年経つと文庫になり、もう俺は孤独じゃいられなくなってしまった。それが嬉しいことなのか、孤独慣れしていた俺には分からない。
深く考える前に卒論を片付ける作業に取り掛かることを決め、ステンレスラックからコーヒー粉のスティックを取り、自分のマグカップにポットのお湯を注いで粉末を溶かし、啜る。薄い味だ。能率が上がるとは思えない。とりあえずそれを片手にして今日の正午の締め切りまでに片してやろうと決めていた仕上げに取り掛かり、ちゃっちゃと済ませた。コピー機のUSBに接続し、印刷する。うちの大学の研究室のコピー機には印刷ポイントと呼ばれる、学生が印刷できるレポートなどの部数の限度はかからない。印刷したものをクリップで留め、ふった番号を確認してゼミの先生が目を通せるよう先生の席の上にとりあえず置いておく。そこに「提出遅れて申し訳ございませんでした」と綴ったメモを置いておく。希望の星だ、頼んだぞ。
なんていううちにいつのまにか卒論を終えてしまったわけで、ノートパソコンを閉じたら、向こうで開け放たれたドアの奥に、こちらをうかがっている、白いセーターを着た女子学生と思しき人物が立っていて、目が合った。遠目からすると目につくのは、セーターから大きく隆起した巨乳。推定Iカップ。俺は思わず視線を逸らした。きゅっきゅとリノリウムの床を歩く音が響き、こちらに来るのを察すると俺はノートパソコンを脇に抱えて退出しようとした、が。
「ちょっと待って」
女子学生は胸元に「教員」という札を首からぶら下げて乗せていて、おそらく俺にそう言葉を投げたのだと俺は解釈した。しかし教員というのはどういうことだろう。化粧が薄く、大人っぽい雰囲気だけど、どっからどう見ても女子大生にしか見えない。
「なんか用すか」
視線を戻して彼女に注意を向ける。ロングスカートを穿いている彼女は細い歩調で走ってきて、あいて、とデスクに脚をぶつけ、書類をばらしてしまう。
「ああ、ああ、どうしよう」
「いいですよ、俺やりますから」
そう言って屈んで書類を集めると、彼女も屈んで書類を集める。ミントの心地よい香りがして、心を奪われそうになったとき、女性は手を止めていた。
「え、大丈夫すか」
女性は突然四つん這いになった。俺は背中をデスクチェアで阻まれている。
どん。
彼女は俺の背後のチェアを収納しているデスクに、両肩越しに手をついて、俺は座り込んでしまった。
「あのこれ壁ド……」
「オーデコロン使ってるんだ。センスいいなあ」
「これ壁ド……」
「あなた私と年齢一緒なんだよ」
「え、マジすか? でもこれ壁ド……」
ここで俺は、
彼女に唇を奪われてしまった。
反則的なまでの笑みを、彼女は浮かべた。
「ずっと好きだったんだよ」
小説家になっても言い寄られることはなかった。この告白はあまりに勢いが強すぎた。だから俺は、乳がでかいという理由で、彼女と付き合ってみることにした。あのとき一緒にホテルに入った女子の胸、形は良かったんだけどな。
俺は天性のウブだったから、いつかろくでもない女にひっかかるんじゃないかなー的なことを考えたりしていた。だけど付き合う前から分かっていた。この女の愛は重い。
彼女は見かけどおり、現役の女子大生だった。名を、星野華陽と言った。華陽は、評論家として最近、メディアに露出しだしているらしい。美しすぎる評論家、ともてはやされ、TV出演の依頼も受け始めた。今日、うちの大学で講義を行ったのだそうだ。それで「教員」の札を提げていたわけだ。見ての通りのナイスバディで、彼女に問いただしたら本当にIカップあるという(バストサイズだけが男のロマンではない、バイ、風野卓人)。ただ、グラビア活動はしない予定らしい。
肩を並べて並木道を歩き、互いのことを話し、華陽のことを知っても興味は湧かなかった。恵まれ過ぎていて、現実味がない人だ。脚色でもしているんじゃないか、と思ったが、華陽はスマホで講演会の写真などを見せてくれた。
「へえ、今度華陽さんの本読みますよ」
そう言うと華陽はぱあっと明るい笑顔を見せた。
「ねえ、手、つなご」
「いいっすよ」
彼女はまるで寿司のネタを頼むようにエスコートを求めてきた。ああ、重い愛だ。
そう思いつつもときめいていないと言えば嘘になる。性的にもときめいているし、恋愛感情も芽生えつつある。けど恋愛感情が芽吹く前に彼女はガンガン攻めてくるので、何か彼女は男性遍歴において問題があったのではないかといぶかしく思う。
「タメ口でいいよ」
「あ、うん」
「私、女子大なの。中高からもずっと女子校でね」
「へえ、そうなんだ。合コンとか行かなかったの?」
「男のひとが怖いから……」
「そ、そうなんだ。でも、力あるよね。俺をソファーに横たえてくれたの、君でしょ?」
「うん。緒瀬櫓っていう先生が手伝ってくれたんだよ」
緒瀬櫓……先生……。俺のゼミの先生です、ハイ。彼女に卒論の扱いについて何か言っていたかを尋ねたかったが、さし出がましいと思い、やめた。それから彼女は、緒瀬櫓先生と構内のカフェでお茶をして、俺と会ったときにはもう戻ってきたところだったと説明した。
「で、なんで俺に告白しようと思ったの」
「告白なんてしてないよ。ずっと好きだっただけ」
「うん……質問を変えよう。俺のことをどこで知った? やっぱり俺が作家だからか?」
「え、卓人くん小説書いてたの?」
意外な答えに俺は凍りついた。
「……あのね、女子大に、友達のエアリス・ロックハートっていう留学生がいてね、彼女からあなたのことを紹介されたわけ。エアリスは翻訳家だから、それであなたと関係があったっていうことになるのかな。でも彼女、私には卓人くんが小説家だなんて言わなかったんだよ」
簡単に事実を明らかにするのはつまらない、とエアリスは思っていたのだろう。エアリス・ロックハートのことは実は知っていた。彼女は偶然にも華陽が通っている大学で現代日本文学を専攻していて、月桂賞作家の受賞作などを細々と翻訳し、フリーランスで収入を賄っているらしい。月桂賞とは、純文学の最高峰の賞で、俺の目指している紅葉賞と並び称されている。エアリスは知名度の低い翻訳家なので、俺のような文学性に欠ける作品も、本人曰く特徴が強かったので翻訳を手がけ、そのとき打ち合わせもして顔見知りだった。彼女は身長が一七二もあり、スレンダーでブロンドを常になびかせていた。
「ねえ今度読むよ。サイン頂戴。一生の宝物にするから」
はあとため息をついても、俺は笑みを崩さなかった。まあ、ちょっと愛が重いだけで、十分可愛いし割とタイプだ。乳もでかいし、今すぐ揉みしだきたい。
突然スマホが鳴った。ごめんね、と言って、確認すると、見知らぬアドレスから、
〈件名:初メール 本文:今夜一緒にお風呂に入ろ。サインは肩にしてほしいな〉
俺は青ざめた。メールには写メが添付されており、ダウンロードすると、彼女のキャミソールの裾をまくって出した腹部に、五つサインがしてあった。
「どうしたの」
表情を硬直させた俺に、華陽は笑みを向けていた。
「これ、華陽のメールか?」
「そうだよ。卓人くんのアドレスはエアリスに教えてもらったんだ」
「このサインは?」
「今夜一緒にお風呂入ろうか」
答えをはぐらかそうとする華陽は、手を払って俺の胸にしがみついて見上げ、目を潤ませていた。俺は華陽を抱きしめ、わかった、と呟いた。すると華陽はまたメールした。
〈件名:女の子の情事にはあまり深入りしないほうがいいよ 本文:お腹のサインはすぐ消すから。ずいぶん前ね、五人の男性作家がセックスしようって頼んできたけど、怖かった。だから断らずに乱交して、そのときお腹にサインを書かれたの。分かってほしかった。本当に愛したいと思った人に出会うまで、嫌だけど消さなかった。あのときの辛さを分かってほしかったから。どうか分かって。私は男性が怖いの。それが嘘でないってこと〉
「なあ華陽、このメール何通り用意してる?」
「うーん、書き溜めてきたから二五〇〇パターンくらい下書きに溜めてるよ」
「二五〇〇!?」
華陽は頭がいいのか悪いのか分からない女だった。五人も小説家が集まる機会などあるのだろうか。作り話にしか思えない。確かに華陽は魅力的な女だが、たとえば、筆跡の違う彼女の通う女子大の仲間を五人用意して架空のサインを書かせれば済む話ではないだろうか。実際写真のサインは、どれも知らない作家のものだ。そもそも風呂に入れば消えるだろう。彼女のメール通りごく最近書かれたものでないなら、油性ペンで書かれても消えてしまう。何故なら人間の皮膚はあまり普段実感はないだろうが、古い角質は死滅してこぼれ落ちてしまうので、ペンは日がたてば消える。そのことを俺が見落とすとでも思っているのだろうか。どうごまかすのかは知らないが。ともあれ一番に考えられるのは、やはり最初の推察、ダミーだということだ。男が怖いとか怖くないとか、それは確かめようのないことなので、どちらでもいい。
「ねえ、卓人くん。これから説明する場所のホテルで待ってて。マスコミが来ると厄介だから。予約は済んでるし、今お金渡すから、チェックインしてて」
「いいよお金は。俺が出すから」
「メールの方が伝わるかな?」
「……はい、言うとおりにします」
華陽が指定したビジネスホテルは、初めて行くところだという。なんでも、デリヘル嬢を呼ぶ客が利用するホテルらしい。彼女はそこまで、エアリスの車に乗って行き、ホテルに入館して、エアリスもチェックインして、隣の部屋で夜を明かすのだそうだ。スキャンダルと隣合わせの場所かもしれないが、大学の学長や国会議員などがデリヘルを利用したって、まあ報道するにはするかもしれないが、見向きもされない昨今だ。だから取材陣は手薄になっているのだとか。都心からずいぶん離れたところだ。一人暮らしの俺が大学二年になってから、両親が神戸から引っ越して住んでいるあたりか。馬鹿でかい公園があり、森林が茂っている。
考えてみりゃ、メールの嵐が来ることは当然だった。電車に乗ってから延々と続いた俺の恋人のラブメールを紹介しよう。
〈件名:下着の色 本文:もう胸がどきどきして苦しいの。全部卓人くんのせいだよ♡ それで下着は何色を所望しますか? 私卓人くんに会うまでに一〇着も買っちゃった。女の衝動買いって本当に楽しいな。あ、でも心配しなくていいよ。卓人くんと結婚しても家事とかやってくれたら私卓人くんの分まで精一杯働くから。だから何も心配しなくていいんだよ〉
〈件名:愛してる 本文:私Mだからちょっと強気に責めて欲しいな。焦らされたりー意地悪されたりするのが大好きなのね。あ、でも卓人くんがMを所望するなら徹底的に追い詰めちゃうからね。トラウマになって私以外の女からの愛情が感じられなくなるまで責めてあ・げ・る♡〉
〈件名:生きててよかった 本文:もう着いた? もう着いた? ねえ、もう着いた? 化粧してるんだけど手が震えてしょうないの。卓人くんがいないと駄目になりそう。卓人くんもそうでしょう? そうなんでしょう?〉
〈件名:私の待ち受け 本文:あのとき見た卓人くんのイケメンフェイスの寝顔が忘れられないの。ねえ、今日ホテルで撮ってもいい? 卓人くんの寝顔? 私より先に起きないでね〉
俺は岐路に立っていた。一つの道は、この女を捨て、逃げ続けること。もう一つの道は、この女の言葉を愛の言葉に変換するよう精神構造システムをアップデートすること。精神構造システムとかわけがわからないな。要は華陽を徹底的に愛し続けるということだ。さあ風野卓人、どちらの道を選ぶ?
ホテルの近くまでタクシーで来て、少し周囲をうろついてみると、駐車場にワゴンカーが一台停めてあって、そこから分厚いコートを羽織った女性が背の高い男性と車に寄りかかって話している。車に隠れて観察すると、女性は堂々と香水をつけ、それからガムを噛んでいた。おそらくデリヘル嬢と運転手だろう。
「イソジン持った?」
「うん、持ってる」
イソジンというのはその名の通りうがい薬だ。風邪予防には効果が薄くても、性病予防においては基本なのだろう。
「そろそろ行くね」
「オッケー、今回の客、チェンジ限度超えそうだから、そのこと真っ先に伝えといて」
「あいよー」
デリヘルにはチェンジが許されているのが普通だが、しつこくチェンジして料金を払いたがらない客もいるので、限度を設けている店もある。
いかん、ムラムラきてしまう。相手はヤンデレ気質有のダークサイドなのに、あのエロい体つきで、私Mです♡ 的なことをメールに書かれてしまうと、SでもないのにS心をくすぐられてしまう。人間にはSとMの両面が、誰しもあるのである、バイ、風野卓人。
ホテルに入ると、フロントにボーイが一人立っており、清楚な身なりで、
「星野様2名様ですね。先に星野華陽様がいらしておりますので、お部屋までご案内いたします」
五階建ての質素なビジネスホテルだ。デリヘルOKのビジネスホテルはほとんどないと聞いた。穴場、というやつか。
ボーイに連れられてエレベーターに乗り、俺は生唾を何度も飲む。今になって分かった。俺は童貞だからこんなにどぎまぎしているのだな。少なくとも週に一回は欠かさず観ているAVの世界にテレビ画面から入り込み、あんな上等な巨乳美女に好き放題悪戯ができるのだ。本当に、生きてて良かったなあ!
……そんなこんなで部屋に着いたら、いきなり華陽が飛びついてきた。そして大声で泣き出しているではないか。部屋には缶ビールの栓が何本か開けられており、完全にできあがってる。
「卓ちゃあああああああああん!」
華陽は豊かな胸元をはだけさせたネグリシェで迫り、胸に顔を埋めてくる彼女を俺はよいしょと抱っこして運び、ボーイは状況を察して去って行った。部屋の説明もせずに。
ベッドに彼女を横たえ、俺はソファに座り、ため息をついた。なんだよ、やっぱりこのパターンか。
「卓ちゃん?」
枕に頬を押し付けて尋ねてくる。
「私のお腹、見る?」
頭から離れていたお腹のサインのことを、その一言で思い出し、それから華陽が黙るので、俺は突然緊迫感に襲われ、背中の汗が引いていくようだった。彼女はネグリシェをそっとめくった。
『小泉俊也』
『斎藤俊樹』
『高木宏』
『松本富雄』
『沢渡亘』
写真で確認した通りの、作家だった。実は、その作家が実在していることを俺は知っていた。短時間であったが、ネットで調べたのだ。すると、どの作家もごく最近に新人賞を受賞し、それから売れ行きが伸びないでいる部類の人間のようだった。小泉俊也は月桂賞への登竜門のひとつの文学賞の選考委員をやっており、斎藤俊樹は高木宏と合作を行っていたりした。沢渡亘は文芸誌の連載を最近始めたようで、そしてそのなかで松本富雄は、月桂賞候補に三度なって落選し続けている。五人に共通しているのは、月桂賞を狙って互いに牽制しあっているということだ。
とはいえ問題はそこではない。俺は彼女に尋ねた。
「それさ……俺思ってたんだけど、風呂入ったら、文字って消えるよね」
そう呟くと、華陽はおもむろに起き上がり、俯き、わなわな震えて、
「抱きしめて……」
「華陽……」
「抱きしめてって……言ってるじゃない」
華陽がおかしい。俺は華陽に迫り、顎に指をそっと添え、唇を重ねた。
抱きしめるよりも、もっと彼女に愛を伝えたかった。だから彼女の期待を裏切った。
「残酷なひと」
華陽は笑みを浮かべ、ぽろぽろと涙を零した。俺はここで、三度目の抱擁、だけど、一番心を込めた抱擁をした。頭を撫でてやり、再びキスをした。
「俺今の華陽見て分かったよ……お前、ずっとその腹のサインに、風呂に入るたびなのか知らないけど、自分でペン使って上書きしてたんだな……ごめんな、俺、お前のこと疑ってた」
「女の子が一番愛してほしいときって、暴言を吐いたり取り乱したりしてるときだって、卓ちゃんなら分かると思ってた。あの屈辱を忘れないように、何度も上書きしてたの、お腹のサイン。何度も何度も上書きし続けた。もう執念以外の何物でもないよね。でも卓ちゃんは全部分かってくれた。それが一番うれしいの」
「華陽……」
俺はこの夜、童貞を捨てた。
俺には許せない人間共がいる。
ひとつは華陽の人格を歪め、愛に溺れないと生きられない性格にした人間。
もうひとつは、華陽に同意の上とはいえ性格の弱みにつけこみセックスさせた五人の人間。
敵は明確になった。俺の闘志はむき出しになっている。
泥酔して眠りこけている華陽を見た。女の寝相というのは見られているほうはもちろん、見ているほうも恥ずかしくなってくる。華陽の場合性格が出ているのか、コンタクトを外して掛けた眼鏡がずれてフレームがゆがみそうで、口を何とも気持ちよさそうにあんぐり開けている。シーツがよだれでびしょびしょだ。
それはいいとして、隣の部屋にいると思しきエアリスのもとを訪ねた。ドアベルを鳴らすと、バスローブを纏った、ブロンドのエアリスが流暢な日本語で、
「久しぶりね」
ときた。
「覚えててくれたんだね」
「あら、タメ口なのね」
「あ、すいません」
エアリスはくすくす笑い、
「構わないわ。タメ口でいいわよ。あなた、彼女とよっぽど仲良しになったのね」
俺は赤面した。
「要件は何かしら? カウンセリング? 構わないわよ、資格持ってないけど」
「いや、違くて、その……まあ、悩み事相談」
あははとエアリスは笑った。
「いいわよ。お入り」
部屋に入ると、エアリスの香水で香りが満ちていた。ローズ系だった。そのことを指摘すると、エアリスは即座に窓を開けた。
「ごめんなさいね。私気遣いが苦手な女なの。家庭的な女と、いくぶん違ってね」
意外とそういう女って最近増えてきてると思うのよね、と彼女は加えた。
「本題に入りましょう。くつろげる場所を見つけて座ってちょうだい」
ベッドに座るエアリスに、椅子を持ってきて、九〇度の角度でエアリスと向かった。
「華陽は、君が知り合った頃からああいう女なのか?」
エアリスは言葉を選ぶように顎に指を乗せ、何かを数える仕草をしてみせた。
「まあ、ああいう女というのがどうかは知らないけどね。可愛いでしょ?」
「質問の答えになってない。華陽が可愛いのは……当たり前だ」
このとき俺はすごく頬が赤らんでいたと思う。
「なら結構でしょう。可愛がってあげれば彼女は喜ぶそれでいいじゃない」
「そうじゃないだから華陽はどうしてあんなに独占欲が強くなったかって聞いてるんだよ!」
「独占欲……ねえ」
エアリスの微笑みはトランプのジョーカーさながら、不気味だった。
「俺は華陽に……その……普通に……愛してほし……くて……」
しどろもどろに答える俺は、エアリスが微笑みを浮かべながら、シーツを真っ赤なマニキュアの先で力強くわしづかみにし、くしゃくしゃにしていたのを見逃さなかった。
「どうした? エアリス……怒ってるのか?」
エアリスは一瞬凍りついた表情を覗かせたが、ぱっと明るい表情に変わり、
「いいえ、可笑しくてたまらないのよ。ねえ、取引をしない?」
「取引……?」
シーツを握る手を放してベッドから立ち上がり、冷蔵庫からドリンクサービスのコーラとスプライトの缶を二つ取り出し、コーラの方を投げてきた。どちらを選ぶかを尋ねるのさえ、この空間では野暮だということが俺にも分かっていた。
「私は心の中に二つの武器を持っています。本物の武器じゃないわよ。一つはあなたに向けた武器、もう一つはあなたが手にしたいという武器。そのあなたが欲しい武器をあげる代わりに、私の武器であなたを撃つ」
くす、と彼女は微笑んだ。
「何故あなたに武器を撃ちこむか。この二つの武器は両方とも、あなたのためなの。一つ目の武器で銃弾を撃ち込まれてあなたは、相当の苦しみに迫られるけど、たくましくなれる。そして二つ目の武器であなたの望みは叶う。簡単なこと。すべては『真実』のままにあることだから」
俺は彼女の話の意味を探りながらも警戒していた。武器がダミーではなく実弾銃であったとして、こうした取引を行うのは彼女が全てを知っているからだ。だが、彼女は口にした。
「あなたが欲しがる武器、それは星野華陽を追い詰めた五人の人間に報復するための情報と戦略。もちろん合法的な」
からだじゅうの鳥肌が立った。
エアリスはスプライトの栓を開けて、
「でも残念だけどその武器はこれから作るところだから」
「ハッタリかよ!」
そりゃ、エアリスには動機が揃っていないのだから、無理もないことではある。ただ不本意だ。聞くだけだと、彼女は俺の困る顔を見ないと動き出さないような話だからだ。五人の文筆家を破滅においやるのと、一人のしがない翻訳家、それも学歴が普通の私大という程度のフリーランスで、彼女を文壇から蹴落とすのと、どちらが容易かは比べるまでもない。
「どうするの?」
何を言われても動じない、馬耳東風、明日起きたら忘れてる、ホテル出たら酒飲もう、そんなことを頭のなかで巡らせて、俺は黙ってこくりとうなずいた。
「じゃあ話しましょう。華陽と会ったのは大学の一年次だったかしら」
華陽は眼鏡をかけていて地味な子だったわ。初めて目にとまったとき、図書館で谷崎潤一郎を読んでいたわね。印象に残っていたわ。あの美しい横顔。大人っぽい雰囲気。たまらないと思った。私は自由選択科目、いわゆる教養課程で心理学の授業をとって、日本文学を専攻する傍ら、何冊も心理学の本を読んでいた。私は速度家だし速筆家でもあるから、授業はトップでありながら遊んでた。レポートさえ提出すればいい授業なら、出席しないで図書館で華陽を探した。どうしてかわかる? 華陽の座っている席に立ち尽くして、彼女を見下ろした。案の定、華陽は怯えていた。身長差ね。それを利用した。心理学で人の心は動かせない。大事なのは、そうじゃないの。そのまま華陽を近くの更衣室まで連れて行った。何ですかいきなり、と、ネズミが鳴く声で抵抗したから、心理学の難しい話をした。学んだなかで一番難しい理論、数学の知識も必要だったわね。私は延々と続けた。華陽は頭のなかがさぞかし真っ白になっていたことでしょう。やめてと言われても私は心理学の話をつづけた。三回目の、やめて、で、私は、つまり本当に誤差の少ない方式を利用するということの有用性はね、と説明したところでやめると、喉乾かない? と尋ねると、あなたなんて怖く……怖くは……ない……の、とフェードアウトしたので、私は華陽にキスしていい? って聞いて、うん、って言われたから唇をそっと重ねた。
一切心理学の知識なんて無用だったというわけね。哲学でも数学でも、わけのわからない話をされるとまあ、逃げるわね。終わればいいのに、早く、早く終わればいいのにってずっと願うのね。あの更衣室は逃げられようと思えば逃げられた造りになっていたのかもしれないけれど、私は直感で、この子は私のことを庇ってくれるんだと思った。更衣室に変な女がいたなんてことが知れたら、私がどれだけダメージを負うか彼女は分かっていたのね。で、告白しますけど私、バイセクシャルなんです。それから華陽と交際を始めたら、華陽は私を求めてくるようになった。馬鹿だと思ったわ。
「黙れ! やっぱりお前はろくな女じゃなかった」
どうしてこんなに嫉妬しているか、わからない。
「悪気はないわよ。華陽は素直なのよ」
「じゃあ言えばよかったじゃねえか、馬鹿だと思ったなら、そう言えよ、卑怯だ!」
「話を続ける? といっても続きはほとんどないけどね。性的な話ばかりになっちゃうから、殿方の前では気がひけるわね」
俺は肩で息をして、落ち着かせた。
「じゃあ、なんで華陽をあんな性格に変えたのか、それだけは説明しろ」
「ええ」
それで華陽が元通りになるのかは、定かではない。だけどどうしても聞かずにはいられなかった。
「華陽はね、たったひとつの答えを探している」
エアリスは鼻で強く息をした。
「彼女はいずれ知名度が落ちる。いずれはアダルトビデオに出演するところまで堕ちるかもしれない。なぜかっていうと、みんなが良識を持てば平和は実現すると考えているから」
俺はコーラ缶を飲んでげっぷして、すまん、と呟いて聞いた。
「ネット右翼っているじゃない。だんだんネット人口が増えて、感化されていく。起きてもいない戦争の準備だとか予定だとかを憂いたり、都合の悪い人間は在日認定なんて茶飯事よ。」
それが何と関係があるのだろう。
「華陽は、戦争は絶対に起こしちゃいけない、集団的自衛権も、核兵器も、断固として認めないって思っている。あの子は信じてる。力を合わせて正義と美徳を合わせるならば、それは右翼でもかまわない、答えのない問題も、その答えはきっと見つかるってね」
「で、エアリスはどうしたんだ」
「私はね、間違ったことをした。とにかく彼女は馬鹿なのよ。私は政治にうとかった。彼女は政治学部で、別に政治家になるわけじゃなかったんだけれど。心理学について私がべらべらしゃべるほど精通していたことは自明だったけれど、彼女の政治のコアさ加減と言ったら。私は何を言われても分からないので、愛についての問題を彼女に呈した」
「愛、ね。なるほど。行きずりの終着点としては人を選ばない問題だ」
「華陽は自分が愛に満ちていると錯覚したわけね。今の卓人くんにはすごく言いにくいのだけれど……、彼女は万能感に浸り、もうその愛が重すぎて、私の受け皿になってくれる、一番安全で信頼できる人としてあなたを紹介したのね。これで全部よ」
はあ、と俺は脱力した。エアリスはふふと笑う。
全部、と言われたが、納得はしていない。長ったらしく半分以上中身のない話で、はぐらかされたも同然だということは承知だ。何か華陽がエアリスに性的にも愛情にも依存するようになった理由があるのではないか。
それを見ぬふりをして、
「で、もうひとつの武器を手にする資格を得たはずだと思うのだが。お前が知っているようである以上、名前は挙げないが、その五人に復讐する協力をしてくれるんだろ?」
「そうね。ほんとうのことを打ち明けるというのは楽しいわ。とはいえ、もう十分楽しませてもらったから、飽きちゃったわ。いいでしょう、でも、それに関してはまた後日、連絡するから」
そう言って連絡先を交換し、俺は華陽の部屋へ戻って添い寝し眠りについた。
目覚めたとき、華陽はいなかった。ドアを開け、エアリスの部屋を尋ねると、仲睦まじく華陽とエアリスが話しており、笑い合ったりしていた。
「おはよう、卓ちゃん」
「おはよう、卓人」
俺も疲労を見せまいとにこやかにおはようと挨拶を返した。エアリスは四時間程度しか寝ていないはずなのに、しれっとしていた。
チェックアウトをし、エアリスの車に乗せてもらい、俺は自宅で降ろしてもらった。エアリスたちと大学がそれほど離れていないということ、彼女らも卒論を済ませ、本業で忙しいらしいことなどを聞いた。ただ彼女らは優秀で、華陽は政治学部総合政策学科、エアリスは文学部日本文学科で、それぞれ首席で卒業する見込みがあると教授に励まされたのだという。
執筆に時間をあてて、夜になり、ベッドに伸び伸びと寝転がる。スマホが鳴った。華陽からのメールが一五通来ているなか、エアリスのメールが一通届いていた。本当に華陽は嫌がらせで大量にメールを送っているわけではないのか? エアリスのメールを読むと、内容は端的で安心した。華陽は改行を使わないので長いメールのときは文字で画面が真っ黒になる。
〈件名:ごきげんよう 本文:明日一〇時私のキャンパスの近くの喫茶店で、お茶でもどう?〉
俺は構わない旨を返信して、執筆に少し取り掛かり、風呂に入った。
まあ、俺とエアリスは、顔を出さないで仕事をする人間だから、なんて向こうは思ってるんだろうな。というようなことを風呂で考えた。華陽からのメールは何通届いたのか。風呂から上がって寝巻に着替えたら一二〇通を超していたので、俺はもう泣きたくなった。俺が返信しなければ、ストックのメールを大量にぶつける戦法なのだろう。ざっと見た限り内容に話の脈絡はなく、ただ共通していることは「卓人くんは私のこと愛してるよね?」というような言葉が形を変えて出てきているということだ。卓人くん、という呼び方から、ああ俺は愛情表現によって卓ちゃんと呼ばれるようになってしまったのだなとげんなりした。
喫茶店に着くと、カプチーノを頼んでエアリスの席についた。
「ずいぶん早くに私の席が分かったのね」
「周囲の視線からもうそういうオーラが読み取れるんだよ」
ふふ、と、彼女は俺が早く来ることさえ見透かしているのか、既にフレンチトーストを頼んで朝食モードだ。少し遅い朝食だと思わるが、まあ忙しいのだろうから。
「大学出たら国に帰るのか」
はあ? とエアリスは訝しくオーバーリアクションをとって、
「あなたの本が翻訳できなくなるじゃない」
皮肉で返してきた。前述した通り彼女が俺の本の翻訳を手掛けたことはあったが、一作だけだ。あのときの打ち合わせのときのエアリスの印象は、後味が悪い翻訳家という感じだった。
「国際結婚は考えてないとか、華陽から聞いたぞ」
「どうかな。あなたのことを見てると、悪くないなとか、思ったけど」
馬鹿、よせよ、と俺は顔が真っ赤になり、
「冗談。あなたには華陽がお似合いよ。間違っても取って食ったりはしないわ」
ふふふとエアリスは笑う。
「お前がいてくれなかったら――」
カプチーノを啜る。苦味が広がってからだが軽くなるような心地になる。
「こんなに華陽を好きだという感情が、強くはならなくなった気がするよ」
飲みさしのカップを眺め、本当に、濃くて長い三日間だと思った。
「で、月桂賞ショック作戦の件だけど」
「なんだそりゃ」
エアリスは説明を始めた。
「とりあえず整理するわね。小泉は選考委員。斎藤、高木はコンビ作家。沢渡は連載作家。そして松本は月桂賞の有力候補者。どれも実力は相当高く、文壇から追放するのは難しい。沢渡はこの中で一見するとぱっとしないけど、実は親が政治家で、月桂賞を取ったら衆議院選挙に出馬する予定らしいの。東大大学院在学中で、文章はうまい」
「邪まな奴だな。絶対賞は取らせたらいけない」
エアリスもどこか考えながら話しているような気がしていた。そしてあろうことかエアリスは急に黙りこんだ。俺も他人任せにせず考えようとはしていたが、なかなかいい案は浮かばなかった。俺は小説家、彼女は翻訳家、だけど彼らの知己でもなんでもない。
しばらくして、
「うん、だいたいどうすればいいか分かった」
エアリスが唐突に告げた。
「どうするんだ」
「あなたの協力が必要になってくる。そして、華陽の力も」
華陽? 俺は眉を顰める。
「小説家、評論家、翻訳家、非力でも三人が力を合わせれば、五人を潰すなんて容易い」
そして俺はエアリスからおおまかな戦略を聞かされた。
華陽は仕事で忙しく、ひっきりなしに掛けてくる電話越しにいつも泣きじゃくりながら愛してると言ってくるし、メールの数もおびただしい。俺はなんとか華陽と会うための(まあ対価として夜のお楽しみをするわけだが)日にちを決め、華陽の情緒不安定を抑えようとしていた。華陽に会うことはできなくはないが、俺の執筆の忙しさと、向こうの予定で、直接会って触れ合う機会は限られてくる。だから俺も華陽もじれったい思いを抱えながら、会える時間を待っているのだ。ただ俺はエアリスの提示した、華陽の任務を伝えることをためらっていた。
気づけば、もう卒業式シーズンだった。結局俺は就活はせずに、小説一本で食っていくことにした。対談の依頼や連載の依頼などの仕事が増えていき、さらに好都合なことに選考委員を引き受ける運びとまでなった。何故好都合なのかと言えば、引き受けたのは、復讐の相手、小泉俊也の担当する文学賞だったからだということだ。小泉に近づくことができたわけで、誰が代わりに選考委員から抜けるかは未定だが、俺の選任は確定とのことだった。いずれにしろ、俺の小説家としての基盤は固められていくようで、不安が少しずつ薄れていくような気がした。
大学も無事に単位を修得し卒業となった。そこで、俺の大学より先の華陽とエアリスの学位授与式、つまり卒業式に行くことにした。
守衛所のあたりで、受付を済ませた。高いビルが立ち並び、学び舎というより縮小した丸の内を想起させた。学舎ビルが空を隠している下で、袴を着た女学生が何人もいて、騒いでいた。
もしこのなかに華陽がいなければ、こいつら何も苦労してないんだろうな、と思ったかもしれない、だけど、華陽とエアリスがこの中にいると実感すると、ここにいる女学生全員の卒業を、自然と喜ばしく思える自分がいる。
振り返ると、記者や編集員が校門で何人か待ち構えている。そのことは知っているのだが、華陽と一緒に出ることはできないと少し残念になった。
「卓ちゃん!」
人垣のなかから華陽とエアリスが出てきた。華陽は袴をたくし上げて走ってきて、俺に飛びついた。
「卓ちゃん卓ちゃん卓ちゃん卓ちゃん!」
「やめなさい危ない人に思われるから」
と言って、低身長の彼女を胸に埋めて口を封じた。それでも、胸の中で卓ちゃん卓ちゃん卓ちゃん卓ちゃんと言い続けている。
「エアリスも袴、様になってるな」
「たしなみですわ」
胸はないが一七二センチの長身で、モデル体型の彼女。生意気な日本語を使うのが悪い癖だと本人は言うが、嫌味たらしくなくあえて言うなら気高いのが魅力。トキをモチーフとした白と赤の下地に、金メッキで波が描かれている。力強い袴だ。
「なあ、華陽の袴もよく見せてくれよ」
華陽は俺から離れてにっこりと微笑み袖を肩まで上げた。桃色を基調としているようだ。近くに寄ってよく見ると桜の花びらが細かく描かれている。散り行く桜がテーマなのだろう。
「授与式は済んだんだよな」
そうだよ、と華陽が言うとエアリスと示し合わせて、
「これなーんだ」
と、二人は『記念品』と印字された白い箱を見せる。そして開けると、それぞれ一本ずつ、エボナイトの高級万年筆が入っていた。
「まさか……本当に主席獲ったんだな。すげえや」
エアリスはふぁさっと髪をかき上げてさも、当然、という仕草で、一方華陽はねえ褒めてよ褒めてよ、という意思表示をきらきらした眼差しで向けてきたので、俺は頭を撫でてやった。
「華陽、私教授に呼ばれてるから」
「ああ、そう。じゃあ、卓ちゃん。私の両親に挨拶……」
「華陽、校舎案内してくれ。俺の大事な華陽がどんなところで勉強してたのか知りたい」
咄嗟にはぐらかした。華陽は俺の手を両手で握って、うんうんと何度もうなずいた。
校舎には立ち入らず、二人で手を繋いで並んで歩いた。いつになく俺たちは無言で、何か大事なことを、互いに話さなければならないような気分になっていた。
もちろん俺にはあった。エアリスの提案で、華陽にはある主張をマスコミに向けてしてもらわなければならないこと。
エアリスの狙いは短絡的に言えばこうだ。
あの男たち五人を合作させて、それを月桂賞候補にまでのしあげたところで、選考委員に袋叩きにさせ、もう合作でしか知名度を上げられない五人の作家全員を、文壇から追放することだ。
文壇から追放しても、彼らはそれなりの職場が用意されているのだろう。ただ、月桂賞さえ獲れない純文学作家など、世間も誰も、目を向けない。月桂賞を獲れなくともノーベル賞候補に挙がることもある昨今だが、そんな恵まれた才能があるのなら彼らはとっくに何らかの功績を海外であげているはずだ。あの五人は好都合なことに、全員プライドが高く、月桂賞受賞に野心を燃やしている。小泉は選考委員の座についているが、新作も年に二作出している。とはいえ、小泉以外の選考委員は全員月桂賞受賞者なので、彼は非常にコンプレックスを抱いている。で、その賞に俺も携わるわけだが、未だに純文学系の文学賞に俺が何故必要とされているのかわからない。
で、華陽にはそうしたもろもろのことを話し、何人とは言わず、合作作家のあり方について批判的な意見を述べ牽制してもらうのだ。確かに日本にはまだ合作作家は少ないので、そういう形でのデビューが増えてもよい。ただ、人数が多ければ金銭的利益の分配と、ばらばらになってやっていくときの名誉の配当が争点となり、共倒れで堕落してしまうことも懸念せねばならない。そういう形に挑戦するのは一向に構わない、今後も合作形式でやるならそうすればいい、むしろ文学界に新しい風を吹かせるいい原動力だ。だが、失敗したときの読者の辛辣な意見で、現在苦境の出版業界に悪い波が押し寄せることはあってはならない、というようなことをだ。俺が述べるとあたりまえの意見になってしまうが、華陽ならうまく論点を明確にし、かつ美しい流れを持たせ巧く脚色をして、演説できるだろう。というより華陽は政治評論家であり、文芸評論においては専門外だから多少稚拙なコメントでも支持率があるので十分な影響力を持つ。
「あのな…」
と言葉にする。
だが俺は、こんな難しいことを口にすることはできなかった。
尋ねたいこと、それなしに。
「……エアリスに何された」
視線を空に上げて尋ねると、俺のウールジャケットの裾を華陽が引っ張った。そこには、笑みの消えた華陽が立ち尽くしていた。
「ごめん」
俺は自分の意思で華陽を抱きしめた。
思えば、華陽は評論家でありながら、俺の前で自分の意見を論じたことがない。エアリスにも言い寄られて根負けしたのだ。そう考えると不思議だ。
「聞いて」
腕のなかで華陽が呟いた。強い声だ。俺は華陽を抱いていた腕を解いた。
華陽は、少し戦慄きながら、
「エアリスの悪口を言うなら、もうやめてほしいの」
ごくりと生唾を飲む。
「私はあの人のことをすごく尊敬してるから」
「華陽は、俺のどこが好き?」
そう尋ねると彼女は俯き、目が充血し、鼻を啜りだし、肩を震わせて泣きじゃくり始めた。
「助けて……」
意図不明なことを言う華陽を、俺は抱きしめた。
「大丈夫。大丈夫だよ。俺はお前を愛してるから」
わああと華陽は大泣きした。
卒業式の翌日の夜、卒業記念に俺と華陽とエアリスの三人で麻布十番の高級中華を食べようと企画していた。エアリスは急用が入ったからということで参加しなかった。華陽のテンションは相当高くなるはずだ。
だが、華陽の『助けて……』という言葉の余韻が、俺たちに残っていて、華陽も俺も黙って歩いていた。手を繋いで歩き、メールは送られてこなかった。
華陽はショールを纏ったドレス姿で、俺は見惚れていた。
飛行機の音が空に響き、虚無感に襲われたところで、華陽が手をきゅっと握って俺に笑顔を向け、
「幸せだね」
と呟いた。
綺麗な服装、高級な料理、美人な恋人……こんなに恵まれているのに、その幸せだね、という言葉が風穴を通り抜けていく。俺は切な過ぎて、本当に泣きそうになった。めげずに、
「俺は華陽より、ずっと幸せだよ」
華陽は俯き、
「やさしいね。卓ちゃん」
いやあ、そんなことないと返すと、
「エアリスはね、卓ちゃんに出会う前の、私の恋人だった。ああ見えても遊び人でしょ、エアリスって。更衣室でキスされたときは、すごく怖かった。だけどね、エアリスはスキンシップだって言い張ってね。それは頬にするものでしょ、フレンチキスはそういうのとは違うよねって私が反論すると、私はあなたが好きだし、あなたも拒まなかったでしょって言われて。男性と女性だったら私は男性の方がロマンチストだと思うけど、エアリスはそれを超えてロマンチストだから、私エアリスのこと好きだったんだ。」
華陽は立ち止り、俺と向き合った。
「でも今は卓ちゃんのことだけが好き。なんでどんなに好きになっても、欲求が満たされないのか分からない。たぶんそれは、エアリスが初恋の相手だったからだと思う。初恋の相手が女子だったからだと思う。悲しみのトンネルを抜けたから、こんなにあなたが愛おしいんだよね。同性とした恋愛の苦しみ、きっと卓ちゃんには分からない。だけど今、私はあなたが必要。あなたの声と肌の温もりが必要なの。そして、こうしてやさしくしてくれる、心の温かさ」
華陽はようやく笑顔になってくれた。
エアリスは男勝りなのかもしれない、と思った。今頃思うが、彼女は口調が女らしいだけで、本当の意味で女らしいところを見せたことがない。ゆえに、理屈で物事を解決できると思ったから、彼女は、政治と愛を結びつけ、華陽と自分に責任を押し付けたのだろう。だが華陽はエアリスと別れたと告げるが、内心ではまだ依存している。だから俺にも病的に依存してくる。というのも、エアリスが支えてくれるから、手放されることを恐れないで俺を愛することができる。といっても矛盾するようだが、反面俺にいくらでも愛を注げることができるから、ベタベタの恋愛を求めれば俺が逃げないと思いこんでいて、執着するのだろう。
俺たちはふたりで、高級中華料亭に立ち入った。生まれて初めて、『時価』の品目を注文した。ちなみに何かというと、アワビのスープだ。
エアリスは沢渡とコンタクトをとり、その結果沢渡の自宅に行くことが実現した。閑散とした一等地住宅地のなかに潜んでいるのだそうだ。
エアリスと一緒に電車に乗り、沢渡の元へ向かう。降りると、駅ビルが高くそびえ、巨大なマンションが点在している。沢渡の住宅には歩いて数分で着くそうだ。ここは芸能人や官僚や国会議員の一家が住んでいる。
沢渡の家についた。一二〇坪はあるのではないだろうか。中層階級の家庭の敷地と比べると三倍はある。かなりでかい。相当金のある国会議員なのだろう、沢渡の父親は。
呼び鈴を鳴らすと、沢渡家の当主、沢渡亘の父親の夫人と思しき高齢の女性が出てきた。息子と会う約束をしている、というようなことを告げたら、すんなり通してくれた。
広々とした空間で、大型のゴールデンレトリバーが鳴きながらこちらに向かってきた。
「母さん、散歩に連れて行ってあげたら」
声の主を探した。その男は、ソファーに座り、背を向けていた。
彼は立ち上がりこちらに向き直ると、ああ、と笑みを見せた。
「ようこそおいでくださいました。どうぞ、お茶請けを用意いたしますので」
沢渡夫人は犬を連れて出ていき、俺たちは絨毯の上のソファに腰かけた。彼はふふ、と笑い。
「いやですね、誕生日というのは」
は? と俺は口を開けた。
「僕の誕生日なんです。二五歳になりました」
俺は直感した。二五歳になったということは、衆議院選挙の被選挙権の資格を得られる年齢に達したことを意味する。
「何がそんなに嫌なんでしょう」
エアリスが見透かしたように聞く。
「僕は月桂賞を獲らなければならない」
「誰がそう決めたんです?」
俺も問い詰める。
「僕の父です」
じゃあ、沢渡は本当は小説を書きたくないのか。
「月桂賞を、政治家になるための登竜門にしている連中もいる」
突然やわらかな物腰だった沢渡の表情が変わった。
「僕は小説を書くのが大好きですが、金にならないですからね。イマドキの若者は純文学を読まないからねえ。風野さんがうらやましい。金を積んでるから、女にたいそうモテるでしょう。だけど勘違いしちゃいけないのは、あなたの内面やルックスでなく、金に惚れてるってことですよ」
俺はこの男の浅はかさをくっくと笑った。
「何がおかしいのです」
「上等だ。俺は俺のすべてを愛してくれる人がいる。彼女、言ったんだよ。俺が売れなくなっても結婚したら代わりに稼ぐってな」
「惚気話に興味はないですね。話を戻しましょう。僕は一刻も早く月桂賞を獲らなければならない。月桂賞受賞は、文学をやめて政界に行く、つまりペンを置くための条件です。父親に反対され続けましたからね、文学をやりたいと僕が言い出した頃は。しかしもう僕も本が売れず、好きな仕事はいえ、執筆をあきらめ、親の七光りにあずかりたいと考えた。ところが、中途半端な引退は我が沢渡家の家系の恥になるので、僕の父親は月桂賞を取らないで小説家を辞めることを許さないのです。僕って偉いでしょ? 自分の立場をよく分かってる。ははっ」
沢渡はやれやれと、肩をすくめて述べた。
「あんたにはプライドってもんが……」
「いい話があるんです」
エアリスが遮り、俺は目的を見失っていたことを自覚した。
「ほう……お聞かせ願いますかな」
そのとき沢渡は怪しい笑みを浮かべたが、エアリスはそれを上回る黒い笑みを浮かべた。
夜、俺は華陽と都庁の展望台で食事をしていた。都庁は有料のエレベーターで最上階まで上ることができ、そこからの眺めは恐らく日本で一番絢爛だろう。小学生の頃親父に連れられたとき、我を忘れるくらいはしゃいだ。
少し敷居が高いが、予約を取ってそこのレストランで俺は華陽とフォアグラなどを堪能した。あのとき華陽が本当のことを話してから、少しだけ、華陽は俺と距離を置くようになった。
「美味しいね。夜景も綺麗」
「ああ、なんてったって、今日は俺の奢りだからな。損はさせないよ」
「うん……」
華陽はどこか意気消沈していた。メールも今日、一通も送ってこない。
「元気ねえな……もしかして、昨日頼んだこと……が、抵抗ある?」
俺は昨日、華陽に初めて自分からメールをした。挨拶から始めて、そのとき華陽はハイテンションの文面をぶつけてきた。俺はそれをまともに相手せずに、エアリスの作戦を華陽に伝えた。例の、月桂賞合作失敗作戦の件で、華陽に合作について批判するようお願いすることだった。すると華陽はもう寝るね、とそれだけ打ち、メールは途絶えた。
明日、楽しみにしてる。
そんなことさえ華陽は送らなかった。
「ううん。全部私のために動いてくれてること、知ってるから。でも……そこまでしなくてもいいよ。なんか、悪いから」
「大丈夫、華陽の名誉を傷つけるようなへまはしない」
「……」
沈黙が流れる。フォアグラを黙々と食べる。俺は華陽のグラスにワインを注ぐ。華陽は俯いたままだった。
「……私って、めんどくさいよね」
「へ?」
凍り付きそうになる。
「卓ちゃんに嫌われてるんじゃないかって思うたびにね……」
「愛してる、俺は華陽を愛してるよ、面倒くさいところも」
「今めんどくさいって言ったよね!?」
華陽が声を張り上げた。
「卓ちゃんを愛してるとね……私、わからないけど、胸が傷ついて摩耗していくようで……」
「華陽……」
「ごめんね。しばらくの間ひとりにさせて。卓ちゃんとこれからどう付き合うか考えたい。意思が固まったらメールするね。じゃあ、悪いけど、お勘定お願い」
華陽は去って行った。
残された俺は、放心状態だった。どれだけの時間、ナイフとフォークを置いたまま過ごしていたのか、分からなかった。時間が凍り付いたかのように、感じられた。
都庁を後にして、エアリスから電話がきた。コンビ作家の高木と斎藤に話をつけて、沢渡と合作をするようまるめこめたのだ。沢渡の自宅で商談したとき、合作を勧めて月桂賞に近づけるように仕向けたのであった。
『華陽がそんなことを……私にも責任があるわね。ごめんなさい』
「エアリスのせいじゃないよ。言い方が悪いが、あの五人の作家のせいでもない。俺が言葉を誤らなければ」
『華陽の協力が得られなくても、私がなんとかするわ。ただ……奴らを徹底的に追い込むことは難しくなるわね』
「華陽はそれでも満足するよ」
『言っとくけどね、あなたそうやってすぐ何でも決めつけるのやめたら? だから華陽にフラれた……あ、ごめんなさい』
いや……ごめん。そう独りごとのように告げ、黙った。作家になってもモテない理由が分かった気がする。俺はすぐ、調子に乗ってしまうんだ。
『とにかく、次は小泉を落とすわよ。小泉の弱み、実は私もうすでに握ってるの』
エアリスは得意げに言い張った。
一週間後、エアリスと俺はファミレスで席につき、ドリンクバのジュースを二人でちびちび飲みながら、文芸についての議論をしていた。時刻は深夜二時を回っている。そこに青白い表情の青年がやってきた。
「どうも……」
この青年こそ、小泉俊也だった。細い目にのっぺりとした顔。そして不気味なほどある背丈。一九〇センチは超えている。小泉は席についた。
「風野さん……でしたっけ。筆名を使わないでいらっしゃるとお聞きしておりますので、この呼び方であってますよね」
「ええ、風野で構いません」
こんな凡庸な会話なのに、なぜか緊張している。
「このたびは、サイコロ青年文学賞の選考委員に選任なされたようですね。おめでとうございます」
いやあ、と俺は呟き、それからエアリスが軽く自己紹介をして、切り出した。
「高木先生たちとは連絡は取っていますか」
「いえ、選考委員から外されそうなもんで、見てください、今日もこんなに顔が青ざめて、よく見るとほら、無精ひげが……」
これも戦略なのか? と、思ったが、多分ただの天然キャラなのだろう。
「選考委員から外されるのがいやでしたら、お考えがありますわ」
小泉は目をぱちくりさせた。
「沢渡亘先生をご存じ?」
しらをきったように尋ねる。小泉は頷く。
「彼がね、高木先生、斎藤先生、そしてあなたとの合作を希望しておりますの。あ、予定では松本先生も加わるところです。皆様たいそう仲がよろしいようで、私、こんなに実力のある作家が五人集まってひとつの作品を築き上げ、月桂賞を獲るという文学界への衝撃を与える素晴らしいことを強く期待しているのですよ。それで勝手ながら、私がその実現のお手伝いをしようかと」
「え、松本先生と沢渡先生が!?」
小泉の顔に血色が戻った。面白い人間だ。
「たしかあなた、お父様が社長さんですわよね」
「ええ……数年前に脱サラして、最近のカードゲームブームにあやかり、トレーディングカードゲームを製造しているのですが、もう事業をたたむほどの窮地に立たされて……。いまいち人気イラストレーターをゲットできず、父親が自らデザインを手がけたりもして、同じような絵柄ばかりで、それにもともと数学者を集めて作ったゲームなんですが、開発部に回す予算がなくて、すぐメタカード、メタデッキなどが多数出て、挙句クソゲー呼ばわり……まあ本当の失敗の原因は、漫画やアニメなどのメディアとの提携を全く視野に入れないで始めてしまった事業なので……」
「沢渡先生は、今度の合作で月桂賞を獲得したら、大手玩具メーカーのコネを使って戦略事業部をそちらの会社に作っても構わないとおっしゃってましたわ。そうすればきっと、あなたのお父様の事業もうまくいくのでは?」
「ホ、ホントですか!? 是非携わらせてください! 僕も月桂賞を獲れれば、本当に悲願叶ったりなんです」
俺とエアリスは顔を向かい合わせ、微笑んだ。
「じゃあ、選考委員はおやめになるということでいいですね」
「まあ、はい、そうですね。また執筆に専念します」
とんとん拍子に進んだ。後は松本だけだ。
華陽からのメールはこない。
からだだけの関係なら、どうとなれと思うだろう。
俺は華陽のプロポーションが目当てで、そもそも付き合ったんだ。
じゃあ何故、華陽を誰に奪われたわけでもないのに、こんなにも悔しいのだろう。
本当に苦しい日々が続いた。
華陽からどんな返事がくるのかも、その返事がいつくるのかも分からない。華陽は残酷な女なのかもしれないと思った。
ただ、傍にいて欲しい。声を聞かせてほしい。
もう本当に切なくて……俺はあることを思いついた。エアリスにはしばらくの間内緒にしておくつもりの、秘策だった。
松本のアパートをエアリスと尋ねた。チャイムを鳴らすと、ぼさぼさ頭で丸渕眼鏡をしている猫背の男が出てきた。
「話は聞いた。まあ上がれ」
男は着物を着ていて、年齢は三〇代後半と見受けられた。明らかにも硬派な文学者気取りだ。
部屋に上がると、原稿用紙が散乱して、足の踏み場もない。本棚には文学全集が並べられている。
「どうだい、いかにもデカダンふうな部屋でびっくりしたろう」
「ええ、風情があって、いい部屋ですわね。私は好きですよ」
上品にエアリスが持ち上げる。松本は機嫌が少しよくなったようで、
「ウヰスキーでもいかがかな。いつも執筆する前に必ず飲むんだ」
冷蔵庫からサントリーウヰスキーを出し、曇ったグラスを出して注ぐ。
「いただきます」
俺は氷や水で割らずに、直に飲んだ。エアリスも負けじと、一気に飲み干した。
「大したうわばみだな」
「それは言い過ぎですわ」
エアリスと俺は作り笑いをした。
そしてエアリスは合作の話を持ち出した。今度もスムーズに行くと思われたが、
「私は反対だね」
「どうしてです?」
エアリスは屈しない。
「私は独りで月桂賞を獲りたい。確かにあの四人とは仲睦まじくさせてもらっているが、だからこそ、執筆の過程で無駄ないさかいを起こして、決別はしたくない。というより、合作というものについて幾分簡単にお考えのようだが、お互いの意見を合わせ、更には文体も調和させなければならない。そんな脆いベースで、月桂賞など無理だろう」
「四人の方と話をつけましたが、皆様松本先生にメインの執筆を任せるようですわ。理由は単純、松本先生の文体が一番美しいからです」
「褒めてその気にさせようと思っても無駄だよ」
「サイコロ青年文学賞をご存じ?」
松本が、ん? と眉を顰めた。
「ああ、月桂賞作家を多く輩出している文学賞か。私も狙っているが、通った覚えはないな」
「実はその選考委員に、こちらの風野卓人先生が選任されるのですよ」
「ほう……つまり、彼に根回ししてもらうと」
「根回しだなんてとんでもない。僕は新人ですし、あの賞の他の委員の方は全員月桂賞作家なんです。僕一人でどうにかなるかは分かりません」
俺は緊張しながら言葉をひねり出した。
「ふん。私は大衆文学などに興味はないが、君の作品は読ませてもらっている。なかなか面白い。ファンの一人だ。だから今日お会いできて嬉しく思っていたんだよ」
そうですか、と俺が笑みを作ると、
「ではサインしたまえ、私の腹に」
俺は顔を硬直させた。そして湧き上がる怒りに震い上がり、
「……アンタ、全部見透かしていたのか」
「何のことだ? ほら、早く書き給え」
松本は高笑いし、着物を解いた。
「……じゃあ取引だ。俺のサインが欲しければ、合作に参加しろ。そうしたらうまくいくかは分からないが、サイコロ青年文学賞の選考委員にかけあって、通して、月桂賞ダービーに参加させてやるよ、いいな?」
「かまわん。私のためにせいぜい働くことだ」
俺は悔し涙をにじませながら、松本から油性ペンを借り、小太りの腹にサインをした。
帰り道、エアリスはジュエリーショップに付き合えと言った。エアリスはそこで何気なく告白をした。
「私、通っていた大学の教授と結婚するの」
え? と俺は目を見開いた。確かに、何回か彼女は、教授に会いに行くから、と俺と華陽を残して去り、二人きりにさせてくれた。あれは俺らに気を利かせた嘘だと思っていたのだが……。
「このなかから一番高い指輪を所望するつもりよ」
「教授って、随分高齢だろう」
「いいえ、まだ若いほう。三五歳」
まあ、いい年だよな……、と、相槌を打っておく。
俺は、このタイミングで、エアリスに秘策を打ち出すことにした。
「なあエアリス、頼みたいことがあるんだが……」
華陽からメールが届いた。
〈件名:卓ちゃん、今までありがとう 本文:もう卓ちゃんには関わらないようにするね。卓ちゃんに全部打ち明けたら、胸のなかがすっきりしちゃって。だから、変わろうって思った。勝手だけど、フレンチご馳走になっちゃったけど……大好きで、短い間だったけど一緒にいた時間のすべてが最高だった……けどね、私よりピュアな愛情を注いであげられる女の人のもとで幸せになってほしいから。ありがとう。もう何も連絡してこないでね。じゃあね〉
俺はそれを無視し、このメールを送った。
〈件名:華陽、愛してる 本文:華陽、お願いがある。
――俺と結婚してくれ
俺は月桂賞を目指すことにした。添付した写真、エアリスと行ったジュエリーショップで店員にもらったカタログの婚約指輪。五〇万円はする。純文学なんて初めて書くけど、編集さんが全力で協力してくれるって。来年の夏の月桂賞、あの五人が出る予定の選考で、俺も候補に挙がるよう頑張って執筆する。そして受賞したら賞金で、この指輪、買うよ。楽しみに待っててくれ。実現まですごい時間がかかるだろうけど、それまで会えなくて俺辛いけど、絶対、俺はお前を幸せにするから。頼む、どうか待っててくれ。じゃあな。愛してる〉
このメールを送っても、華陽は連絡をしてこなかった。だけど辛ければ辛いほどいいんだ。俺が純文学を書く原動力となったのが、華陽との終わりかけている恋愛によって生まれたあらゆるものへの不条理なのだから。
あのときジュエリーショップで、頼みたいことがある、ということで、エアリスにも俺が月桂賞の選評会に向けて本を執筆するからよろしく(もちろん、候補にあがらなければ始まらないのだが)ということを告げたら、
「それって最高じゃないの!」
と大喜びした。
「あなたの小説のセンスなら余裕で勝てるわよ」
「それ、お世辞だろ。前俺の本翻訳した時、すごいボロクソに言っただろ」
「まああのときはあなたもまだ若かったからしょうがないわよ」
「よく言うよ。それに俺はエンタメ路線できたから、純文学っていうのは……試しに一万文字程度の小説を書いてみた。どうかな」
と、A4用紙に印字した原稿を見せた。どれどれ、とエアリスは好奇心の眼差しで、読み始めた。読み終わるまで、俺は本当に緊張していた。しばらく経って、とんとんとエアリスは原稿の端を揃えて、
「うん、短編だからなんとも言えないけど、勝負はできるかもね。何しろあなたはプロだから、それを忘れては駄目よ」
とくにこの部分が良かったわ、とエアリスは指し示した。
【僕たちは海を食べて生きている。繰り返し、繰り返し。その行為が続けられている。血潮が僕たちの別れを許さないように、瞼の裏に海を現像する】
海を食べて生きる。華陽に届くよう願った言葉のような気がした。純文学においては素人なので、理由は分からないが。そもそも、これが本当に純文学なのかさえ、未だに釈然としない。
数か月の時がたち、俺たちサイコロ青年文学賞の選考委員の元には、下請けの出版社が審査して通した最終選考の原稿が送られてきた。その中に、五人の合作、『ノイジー・ゲーム』という気障な題名の作品が見つかった。一読したが、無駄の省かれたリズミカルな文体、これは松本の得意とする技法だろう。彼が執筆役を引き受けたのだ。で、ところどころ、沢渡の過去作品のオマージュがなされていることから、沢渡が筋書を作ったのではないか。それでいて、小泉はユーモアセンスが巧みなのが有名で、吹き出してしまうほどではないが、饒舌なギャグが混じっている。あとは高木と斎藤が推敲し、コンビ作家としての長年の経験からアドバイスをしたのだろう。完成度はかなり高く、息の合った作品が実現した。
異論なく、この『ノイジー・ゲーム』がサイコロ青年文学賞を受賞した。そしてこの作品は月桂賞候補になり、俺が選考の仕事と折り合いをつけて執筆していた『飛沫』という題の作品を発表したところ、これも信じられないことに、月桂賞候補に挙がった。よって、月桂賞候補は下記の通り。
『ノイジー・ゲーム』小松原清治(五人合作)
『夜明けの宅配便』山田邦夫
『飛沫』風野卓人
『なぞなぞ迷路』観月春江
『路線バスの車掌』小野康介
東京の高級料亭に、記者が集まる。ノミネートされた作家は、外で待機していなければならない。記者団の向こうで、エアリスが立っている。俺の隣に座る松本を始めとする五人は、いつになくぴりぴりしていた。
先日、華陽が、メールを一通だけしてきた。
〈件名:久しぶり 本文:私、卓ちゃんのこと応援したい。だから、エアリスの言う通り、合作に関するオピニオンを、講演会で発表するね。まだあなたのことが怖いけど、月桂賞の選考会場、観に行くから〉
華陽は合作に関して、相当過激な論弁を繰り広げた。あまりの衝撃的な内容に、ネットで物議をかもす事態となった。勇気のいる行動だった。何しろ華陽は、月桂賞候補者と寝たのだから。
選考会、記者団の向こうで、華陽がこちらに手を振ってきた。俺は涙ぐんだ。カメラを前にして手を振ることが許されないことを苦しく思った。
そして、結果が発表されることとなった。
正装をした進行役が出てきて、紙包みをアナウンサーに渡した。アナウンサーは読み上げた。
「今回、第△△回月桂賞受賞者を発表します」
報道陣のカメラのシャッターが一斉に焚かれる。
「今回の受賞者は、二名となりました」
一気に会場がどよめく。心臓の鼓動が激しくなり、俺は手が震えた。
「まず……一人目の名前をあげます。一人目は……」
生唾を飲む。エアリスも華陽も、祈る仕草を見せた。
「一人目の受賞者は……」
「風野卓人さん、受賞作『飛沫』です」
一斉に俺にカメラのフラッシュが浴びせられた。俺は放心状態だった。まさか……この俺が月桂賞を受賞したというのか? そんなことより、二人目は、あの五人なのだろうか。そうなったら、計画はパーだ。俺は受賞しても、目をつむり、心のなかで彼らが外されることを祈った。
「では、二人目の受賞者は……」
「…………」
「観月春江さん、受賞作『なぞなぞ迷路』です」
報道陣はどよめいた。五人が受賞すると、誰もが確信していたからだ。それもあるし、俺が月桂賞を獲れて、なぜあの五人が獲れないのか、皆納得がいっていないようだ。
当の五人も唖然としていた。隣に座っていた小泉が泣き出した。
「終わった……終わっちまった……もう誰にも俺の作品は目に留まれない、俺たちは文壇を穢したんだ!」
「おい、どうしてくれるんだ、高木、斎藤、俺もう議員出馬できないんだぞ!? なあ、どうしてくれるんだよ!」
「すみません、すみません!」
沢渡に必死で高木と斎藤が謝り、俺は席を立って壇上へ上がろうとしたそのとき、
「完敗だ……もう後悔はねえ。ありがとな。俺を夢から覚まさせてくれてよ」
松本がそう呟き、ちらと見ると、穏やかな微笑を浮かべていた。
それから数年が経過した。俺が三〇歳を過ぎたばかりだったとき。
「風野先生、本当にすごいですよ。フランスで文化勲章をもらえるなんて、僕、何着て行ったらいいのか分からないです」
新人の担当編集員がごまをすってきた。
「っておい、もう出発だぞ、大丈夫か? まあ君はフランス語が流暢だからな。俺は英語もろくろくできねえ、馬鹿大学卒業だからな。よろしく頼むよ」
「お任せください、さあ、ご婦人が外で待ってらっしゃっていますよ。それにしても、いつみても可憐だ」
俺たちは出版社を出て、外車に乗った。隣の席で、華陽がお弁当を持ってきていた。
「聞いて聞いて卓ちゃんあのねこのお弁当一切冷凍食品使ってないし有機栽培でほらこの人参とか」
俺は華陽のおでこをデコピンした。えへへ、ごめんね、と彼女は笑った。
運転士が何気なく尋ねた。
「月桂賞受賞した後の話、また聞かせてくださいよ」
えー、と俺は機嫌を損ねたが、華陽がにまっとしているので、話してやった。
月桂賞を受賞したあと、五人の作家は全員引退した。それぞれの道は非常に険しかったようだが、俺が指輪を買って華陽と結婚し、建てた邸宅(自慢させてもらうと、沢渡の邸宅より五坪ほど広い)にやってきて、華陽に向かって土下座した。華陽は、あなたたちのおかげで、卓ちゃんはあそこまで成功できたのだから、私は幸せよ。犯した過ちは忘れないでほしいけど、私たちのことは忘れていいわ。許してあげる。と言い、彼らは帰って行った。去って行ったあと、すぐ華陽は俺の胸に飛び込んだ。怖かったのだ。泣きじゃくり、もう手放さないで、私を許して、と泣きながら強い声で言い、俺は、華陽が落ち着いたところで、一番うまいキスの仕方、教えてやろうか、と意地悪な声で言ってやった。華陽が見上げると、俺は涙を頬に伝わせて、目を真っ赤にはらしていた。……卓ちゃん、泣いてるの? と華陽が上ずった声で聞くと、俺はこう言った。
ずっと我慢してきたんだ。大好きだから、華陽のことが。
そして俺は華陽の唇を奪った。
「僕もそれを題材にして小説書こうかな。ラブストーリー、いいですね」
「原稿料のたしぐらいにはなるだろうな」
なんですかそれ、と運転士は怒り、俺と華陽は笑った。
[完]
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