失くした時間
私は今年で五十三歳になる。
学生の頃から勉強に励み、企業で働き、失敗という失敗はしなかった。
その犠牲として、友人関係はおろそかになってしまい、中年に差し掛かる頃には親しい友人はいなくなっていた。
結果として、それなりの家庭を持ったが、それは世間のかざ当たりや親の顔をたてての事だ。
それを不満に想うつもりもなかった。
そんな私の世間一般の評価は間違いなく並だったのだろう。
そして世の中というものは、この並である事がどれだけ大変かも理解していたつもりだ。
だが、今の私は五十三歳という老齢の体ではない。
どういう事かわからないが、私は四十歳の時に意識だけをそのままに小学校の入学式に飛ばされたのだ。
これまでの経験をそのままに若い頃に戻る。
それを実行したいかどうかはともかく誰もが、一度は想像した事くらいはあるだろう。
私はかねてから出きる頃なら戻りたいと思っていたし、そしてどういう事か私の願いは叶ったのだ。
失くした時間を取り戻せたのだ。
忘れている箇所は多いが勉強はほとんど復習のようなものだった。
精神的な成長を終えている私にとって、スポーツの練習は肉体的な辛さしか感じない。
もっとああしておけば、もっとこうしておけば。
思っていたそれらの事を私はこの再び手にした学生時代でする事ができたのだ。
その時は理解できなかった大切な時間。
それらを十二分に取り戻し、満喫したのだ。
当然のように一週目の私よりも良い成績、良い評価、良い進路に進み、培ったコミュニケーション能力で多くの友人も持てた。
一週目にできなかった事は一つを除いて全てする事ができたのだ。
ただ、一つだけできなかった事がある。
育ってしまった保守性、どうしても先に来てしまう欲情、染み付いてしまった保守性。
それらが邪魔をして、身を焦がすような恋だけはついにできなかった。
教室で、廊下で、放課後に、帰り道に、ただ隣にいてくれるだけで嬉しくて、楽しい。
時間を共有するだけで満たされた、その他の要素を不純物とするような、かけがえの無い恋慕。
姿だけは私と同じ年齢の男子と女子が、缶に口をつけたつけないで頬を赤らめている。
絶妙な距離の男女が並んで歩き、どちらともなく手とを握るために震えながら伸ばす。
夕暮れの帰り道、自転車の後ろにのった女子生徒が気恥ずかしげに、嬉しそうに自転車を漕いでくれている男子の腰に手を回す。
そんな大げさなものですらない、距離感のわからない青春時代の男女の群像。
私は一週目にそれが出来なかった。
二週目にも出来なかった。
二週目には出来るはずもなかった。
三週目も四週目も、五週目も六週目も、何度も繰り返しては繰り返しては、例え不可思議にまで桁を伸ばしたとしても。
これだけは、もうできないのだ。
二度とできないのだ。
永久に機会を失ってしまったのだ。
五十八歳の頭をした十八の私は、そうして高校時代を卒業するのだ。
周りの皆と一緒に涙をするのだ。
二度と味わえない時間に想いを馳せて、涙するのだ。
失くした時間に嗚咽するのだ、