9
航平は伏せていた目を上げ、達也を見てにやりと笑った。
「チェックメイト」
「えー?! もうかよ!」
ソファの上で胡坐を組んでいた達也は、思わず身体を後ろに仰け反らせた。
二月が終わろうとしていた。春休みが始まって以来、お互いの都合がつく限り達也は航平と会っていた。離れているときもたいてい彼のことを思っていた。航平のことを考えるだけで胸が締めつけられる。他のことが手につかなくなるほど切なくなる。こんな気持ちになったのは初めてだった。これほど自分から人を欲したことは今までなかった。
だが達也は今でも宮田のアトリエに週に一度は通っていた。航平に後ろめたさを感じながらも、宮田から絵を教わることができなくなることが怖くて彼との関係を断ち切れずにいた。
「クイーンに注意しろって言っただろ」
チェス盤を挟んで反対側に座っている航平が、笑いながら手元の赤ワインを口に運んだ。
達也は二週間ほど前に航平にチェスを教えてもらったが、まだ一度も勝てたことがない。腕を組んで口を尖らせながらソファの上のチェス盤を睨んでいると、電話が鳴りだした。
航平はワイングラスをセンターテーブルの上に置いて立ち上がり、それからダイニングとキッチンを隔てたカウンターの上に置かれた電話の受話器をとった。
「はい、奥村です」
明るい声で電話に答えたが、航平はそのまま黙り込んでしまった。首を傾げながら達也は彼の後姿に目をやった。耳を澄ましてみると、航平は小さな声で何か言っていた。英語のようだった。声を抑えているが、その抑揚から何か言い争っているようにも聞こえる。
やがて心なしか強い語気で、バイ、と言って航平は電話を切った。そしてしばらくそのまま電話の前に立っていたが、突然くるりと達也のほうに身体を向けた。そのとき自分に向けられていた達也の視線に気づいた航平は一瞬凍りついたような表情をしたが、すぐに頬を緩めていつもの笑顔を見せた。
「もうひとゲームやるか?」
ソファに戻った航平が明るく話しかけてきたが、達也は無言で航平の顔を見つめていた。
「なんだよ」航平は苦笑しながら手元の駒を差しだしてくる。
いや、と答えながら達也はそれを受け取り、そして目を伏せて駒を並べ始めた。航平も自分の分を並べている。
「今の電話、ニューヨークから?」
駒を並べながらさりげなく問いかけてみた。
「え? あ、ああ」航平は視線を逸らしたまま答える。
「友達?」
航平の手の動きが止まる。上目遣いで彼の様子を窺っていると、航平は虚を突かれたような表情で一瞬だけ達也を見たがすぐにまた視線を落とし、そしてぎこちない笑みを浮かべながら言った。
「・・ん。・・大学の・・友達。・・・来月なんかのパーティがあるみたいでさあ。・・いつ帰るんだって訊かれたから、俺は当分日本にいる予定だって言ったんだ」
達也の中で何かがくすぶり始めた。腑に落ちない思いで航平を見据えていると、突然航平は顔を上げた。
「そうだ、新しいDVDがあるんだけど、一緒に観るか? おまえ、SF映画、好きだよな」
達也の返事を待たずに航平はチェス盤をテーブルの上に置き、立ち上がってテレビのほうに向かう。
「おまえ、ニューヨークに誰かいるのか?」
無意識のうちにその言葉が口から出ていた。
「え?」
航平が肩越しに振り返る。その表情にわずかな狼狽の色が浮かんでいたのを達也は見逃さなかった。
「ニューヨークに恋人がいるのかって訊いたんだ」
口の中に苦いような味が広がった。なんで今まで考えなかったんだろう。航平に恋人がいなかったはずがない。
「なんだよ、突然。さっきの電話は友達からだって言っただろ?」
無理に明るくしたような口調でそう言ってから航平はテレビのほうに向き直り、しゃがみこんでテレビキャビネットの戸を開けた。
「さっきの電話は関係ないよ。ただ質問してるだけだ。答えろよ」
航平の背中に向かって達也はさらに問いかける。だが航平は一瞬動きを止めただけで、すぐに無言でキャビネットの中を探り始めた。
「そうなんだな。・・俺はおまえが日本にいる間だけの恋人ってわけか」
言葉に出してしまった瞬間、達也の胸に射抜かれたような激痛が走った。
「何ばかなこと言ってんだよ」
手を休めず、背を向けたまま航平は苦笑しているように言う。
「おまえには俺だけじゃないんだろ?!」
だんだん腹が立ってきた。達也の口調が強くなる。
「そうなんだろ?! 黙ってないでなんとか言えよ!!」
「ならおまえはどうなんだよ!!」
航平は突然立ち上がり、振り返りながら低く唸るように怒鳴った。
思いがけない航平の言葉に達也は目を剥いた。航平も見開いた目で達也を凝視している。だがそれは怒りではなく、たった今自分が口走ったことに驚愕しているかのような表情だった。
「ど、どういう意味だよ」
達也の声は震えていた。航平が宮田とのことを知っているはずがない。
「い、いや、なんでもない。・・ごめん、なんでもない」
引きつった笑みを見せながら航平はあわてたように言う。それから目を伏せ、深い溜息をついてからソファに戻り、達也の隣にゆっくりと腰を下ろした。
達也の頭は混乱していた。何をどう言っていいのかわからず、ただ目の前の空間を睨んでいた。航平もしばらく無言だったが、再び溜息をつき、やがて静かに話しだした。
「さっきの電話、・・前に付き合ってたやつだったんだ。・・嘘ついて、ごめん」
達也が顔を向けると、航平も硬い表情で達也を見返した。それから正面に顔を戻し、目を伏せて続けた。
「いろいろあって、こっちに来る前に別れたんだ」
「なんでそいつがおまえに電話してきたんだよ」
釈然としない気持ちのまま、達也は思わず尖った口調で言った。
「奥村さんに、ここの番号を訊いたらしい」
そう言ってから航平は達也に顔を向けて再び口を開いた。だがそれをさえぎるように達也はふと頭に浮かんだことをそのまま言葉に出した。
「奥村さんは、知ってるのか? おまえのこと。・・・その・・」
航平の顔が強張った。一瞬その目に恐怖の色が見えたような気がした。だが航平はすぐに頬を緩めてかぶりを振った。
「もちろん知らないよ」
そして目を伏せてから独りごとのように呟いた。
「奥村さんには絶対に言えない」
航平のそんな様子に、達也は何か奇妙なものを感じた。と同時にある思いが脳裏を横切る。だがすぐにその思いを追い払うように頭を軽く振り、そして咳払いをしてから話を戻した。
「それで? なんだったんだよ」
「え?」
航平は顔を上げ、驚いたような目で達也を見る。
「あ、ああ、縒りを戻したいって言ってきたんだ。考え直してほしいって」
達也の胸が再びズキンと痛んだ。無意識のうちに視線が航平から離れていく。
「でも俺にはそのつもりはない」
そのきっぱりとした口調に達也はすばやく視線を戻した。航平はまっすぐに達也を見つめている。強い光を秘めたような目をしていた。
「俺には今好きなやつがいるって、そいつにはっきり言った」
腰をずらして達也の方に向き直り、そして航平は手を重ねてきた。
「俺はおまえのことが好きだ」
達也の手を握りながら真剣な眼差しを注いでくる。自分の思考を整理できず、達也はただ呆然と航平の顔を見つめていた。
ふと航平の瞳が不安定に揺れた。眉根がぎゅっと寄る。その目は達也から離れてどこか宙をさまよい始めた。航平は何か考えているようだった。
怪訝な思いで彼の表情を見守っていると、やがて何かに気づいたようにその目が見開かれた。と同時に大きな溜息と共に顔いっぱいに笑みが広がる。そしてその顔をそのまま達也に向け、航平は心底嬉しそうに言った。
「達也、俺、おまえを愛してる。・・・愛してる」
達也は目をしばたたいた。航平の真意がまったくわからなかった。
達也が黙っていると航平はにやけた顔を伏せ、気持ちを落ち着かせようとするかのように大きく深呼吸をした。それから顔を上げ、再び真剣な眼差しを向けてきた。達也の手を握ったその手に力が加わる。
「達也、俺はおまえを愛してる。今はっきりわかったんだ。・・初めてだ、こんな気持ちになったの。・・・俺は、おまえを、愛している」
一語一語噛みしめるようにそう言うと、航平は縋るような目で達也を見つめた。
達也は無意識のうちに航平を抱きしめていた。航平の息を呑む気配を耳元に感じた。
達也の中にあったわだかまりは跡形もなく消え去っていた。航平が愛しくてたまらなかった。航平さえいれば、もうほかのことはどうでもよかった。
「俺も! 俺も愛してる。・・愛してる、航平!」
やがて航平もゆっくりと達也の背に両腕を回した。