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それから約三週間、航平は週二日、祥子の学校の近くの図書館で彼女に英語を教えた。祥子が英語の本を読んでその発音を航平が直したり、航平が言ったことを祥子が聞き取る練習や、また簡単な日常英会話などの練習もしているそうだ。だんだんおしゃべりな祥子の地が出てきたようで、話が脱線して祥子が日本語でしゃべりまくることもよくあるらしい。それでも航平は嫌なそぶりも見せず、根気よく祥子の相手をしていた。
その日達也は航平のマンションにいた。ソファの上で彼とじゃれあいながら唇を合わせたとき、インターフォンが鳴った。航平は眉間に皺を寄せて前髪をかき上げながら立ち上がり、不機嫌な声で、はい、とインターフォンに答えた。
『航平さん、祥子です』
すばやく達也に振り向き、航平は問うように眉を上げた。達也も首を傾げる。
『あの、ちょっと、あがってもいい?』
「あ、ああ、今開けるから、奥のエレベーターで上がってきて。十二階」
祥子にそう言い、航平はシャツのボタンをかけながら達也に顔を向けた。
「おまえどうする? 隠れてるか?」
「あ、ああ、そうだな」
達也は自分のTシャツを拾って航平の部屋に入りながら、なんで祥子がここに来るんだ、とぶつぶつ独りごとを言っていた。
やがてチャイムが鳴り、少ししてから航平と祥子が居間に入ってくる気配があった。
「よくここがわかったね」
「うん、前にたっちゃんに聞いたの」
《そうだっけ?》
ドアの前でTシャツをかぶりながら達也は首を傾げていた。
「そうか。・・今日は、どうしたの?」
祥子は何も言わない。達也がさらに首を傾げると、突然祥子のぎくしゃくしたような大声が聞こえてきた。
「航平さん、これ、チョコレート。あたしが作ったの。受け取ってください!」
《チョコレート?!》
「あたし航平さんが好きです! 大好きです! あたしとお付き合いしてください!」
突然の祥子の告白に達也は目を見張った。
《そうか、今日はバレンタインデーだ》
束の間の静寂のあと、航平の優しい声が響いてくる。
「ありがとう、祥子ちゃん。祥子ちゃんの気持ち、うれしいよ。・・・俺・・さあ、・・好きな人がいるんだ。・・・俺にとって、そいつはすごく大切なやつで、俺、今はそいつのことしか考えられない。・・・ごめん」
数秒の沈黙。そして妙に明るい祥子の声が続く。
「なあんだ、やっぱり! そうかなと思ったけど。・・・バレンタインデーにかこつけて思い切って言っちゃおうって思って。・・・気にしないで。・・でもチョコレートは一生懸命作ったから食べてね。じゃ」
ばたばた走る音、そしてドアが開いて閉まる音がした。
隠れてふたりの会話を聞いていた達也は、航平の言葉に胸が熱くなりながらも失恋した妹を哀れに思っていた。
「どうする? 帰るか?」
ドアを開けて居間に入ってきた達也を見て、航平が静かに言った。
「ん、・・そうだな」
達也が自宅に着いたとき八時を回っていたが、祥子はまだ帰ってなかった。九時近くになってやっと帰宅したが、疲れたから寝る、と言ってすぐに自分の部屋に入ってしまった。
翌朝、達也がトーストをかじっていると、祥子がばたばたと三階から下りてきた。そして「あー、寝坊しちゃった。遅れちゃう! お母さん、ご飯いらない。いってきまあす!」と勢いよく出ていった。
その日テニス部の練習に出かける前、達也は電話で航平に祥子の様子を報告した。
「夕べ少し落ち込んでたみたいだけど、今朝はなんかけろっとしてたよ。心配しなくて大丈夫だ」
『そうか。・・よかった』安堵したように航平は電話の向こうで吐息をついた。
その翌週、祥子は二ヶ月の短期留学に発っていった。