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「そういえば、奥村さんって結婚してるんですか?」

宮田が使用していた筆を流しで洗いながら、先日のパーティの話を持ち出してから達也はさりげなく宮田に問いかけた。

「いや、独身だよ。どうしてだい?」

背後から宮田の低く通った声が聞こえてくる。

「いえ、別に。・・・じゃあ、ニューヨークでひとりで暮らしてるんですね?」

「いや、息子がひとりいる。義理だけどね。確か君と同じくらいじゃないかな」

そう言いながら宮田は後ろに立ち、腰に腕を回してきた。達也は一瞬身を強張らせたが、ふーっと息を抜き、そして宮田に身体を預けた。


達也は小さい頃から絵を描くことが好きだった。美大への進学を希望していたが、父親の猛反対にあい、結局私立大学の経済学部に入った。母には趣味でやればと言われたが、達也は受験前に絵をきっぱりとあきらめた。筆をとることも絵画に目を向けることもしなくなった。自分を抑えられなくなるのが怖かったからだ。

大学生になって二度目の夏を迎える頃、達也は当時付き合っていた女にデートの最中銀座のギャラリーに連れていかれた。彼女の友達が受付のバイトをしていたから冷やかしのつもりだったらしい。彼女がその友達とおしゃべりしている間、手持ち無沙汰だった達也は何気なく展示作品に目を向けた。そのとき始めて気づいたが、それはある画家の個展だった。その画家の作品は抽象的な人物画や風景画が主体だが、その繊細な色彩や独特な構図に達也は強く興味をひかれた。作品を観ながら自分の胸が泡立つのを感じていた。全身に鳥肌が立っているのがわかった。何かに憑かれたかのように、翌日ひとりでそのギャラリーを訪れた。作品に見入っていると、仕立てのよさそうなブラウンのスーツを着た長身の男がギャラリーに入ってきた。その男が個展の主、宮田真治であることを達也は周りの気配で知った。雑誌か何かの取材でたまたまやって来たようだった。自分でも驚いたことに達也はその場で宮田に弟子入りを懇願していた。宮田は一瞬当惑したようだったが、すぐに笑みを見せ、一度見においで、とアトリエの住所を教えてくれた。それ以来達也は親に内緒で、大学の合間に吉祥寺にある彼のアトリエに通っている。

宮田は今年三十七歳になる。いつも穏やかで感情をあまり表に出すことはない。それは絵を描いているときも同じだった。宮田の妻佐和子は宮田と同じ歳で、ふたりは大学在学中に結婚したそうだ。イラストレーターとして活躍する佐和子は、自宅の二階に自分の仕事部屋を持っていた。ふたりの間には麻理子という小学三年生の娘がいる。

宮田のアトリエを訪れるようになって二ヶ月が経った頃、達也はアトリエで宮田に抱かれた。宮田に対して愛情があったわけではなかったが、達也には不思議とそれほどの抵抗感はなかった。宮田を尊敬し、彼から全てを吸収したいと切望していたからかもしれないと達也は自分を納得させていた。

達也は女にもてないほうではなかった。中学から高校までに四人の女の子に告白され、そのうちのふたりと付き合った。初体験は高校二年の夏だった。大学に入ってからは例の一緒にギャラリーに行った女と一年ほど付き合った。合コンで知り合った、女子大に通うひとつ年上の女だった。宮田のアトリエに通うようになってから達也は何となく彼女を避けるようになり、最終的には彼女から別れたいと言ってきた。

考えてみれば今まで自分から女を好きになったことはなかった。かといって男を好きになったこともない。ただ自然に周囲に流されてきただけだった。そして『航平』という男との関係もそんなふうにして始まった。


宮田のアトリエからの帰り道、達也は航平のことを考えていた。あの夜そのまま奥村のマンションに泊まり、次の日の朝、航平のバイクで大学まで送ってもらった。別れ際になってあわてて彼の携帯電話の番号を訊いた。

週末どこかに出かけると言っていたが、もう戻っているはすだ。

《また会いたい》

達也はジーンズの尻ポケットから携帯を取りだした。電話帳の中に『矢崎航平』を見つける。携帯の番号を訊いたときにこの漢字も教えてもらった。数秒ためらってから思い切って通話ボタンを押した。

長い呼びだし音のあと、はい、という航平の少し掠れた低い声が聞こえてきた。達也の脈拍が飛び上がる。

「あ、航平? 俺、達也だけど・・」

達也の震え気味の声に、やや間を置いてから航平は抑揚のない口調で、ああ、とだけ言った。そのそっけない返事に達也は戸惑い、一瞬言葉を失った。航平のほうも無言だ。

気を取り直し、唾をすばやく飲み込んでから達也は意識して明るい声を出した。

「あのさあ、明日、何してるのかな、と思って。・・もしよかったら・・」

そこまで言ったとき、航平は達也の言葉をさえぎるように、『悪いけど、今忙しいんだ。あとで電話するよ。じゃ』と早口に言って一方的に電話を切ってしまった。

携帯を耳に当てたまま達也は少しの間呆然としていたが、そのうちだんだん腹が立ってきた。

《なんだよ。なんなんだよ、あの言い方。いくら忙しかったからってあんな迷惑そうな声出さなくてもいいじゃんかよ!》

妙にむかついて、もう少しで携帯を道に叩きつけそうになった。

結局その日、航平から電話はかかってこなかった。

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