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水曜日の夜、帰宅すると香織がダイニングの椅子に座っていた。テーブルには食事の用意がされている。
「お帰りなさい」
香織がにっこりと笑いかけてくる。
「お風呂沸いてるけど、入る? それとも食事、先にする?」
達也は困惑し、その場に突っ立ったまま無言で彼女を見つめていた。すると香織は笑みを消し、真剣な眼差しで見つめ返してきた。
「私、離婚はしません」
きっぱりとしたその口調に、達也は思わず、えっ、と声を漏らした。
「達也さんが航平さんを好きなら、それはそれでいい。私、その事実を受け止める。・・でも達也さんへの私の気持ちは変わらない。私は達也さんを愛しているの」
香織は縋るような目で達也を見上げている。
大きく息を吐き出してから達也はゆっくりとテーブルに歩み寄り、彼女の向かい側の椅子に座った。そしてテーブルの上で両手を組み、彼女をまっすぐ見つめながら口を開いた。
「俺、おまえのこと、・・愛してない」
香織の目が悲しげに見開かれる。達也は彼女から視線を逸らさず続けた。
「それでも俺と一緒に暮らしたいのか?」
眉根をきつく寄せながら香織は目を伏せ、震える声で言った。
「・・私は、・・達也さんといるだけで幸せなの。・・だからかまわない」
「俺は・・」達也は身体を少し前に乗りだした。「俺は、苦しいよ。・・前みたいに夫婦として暮らしていくことなんてできない」
達也の言葉に香織はさっと顔を上げ、険しい目を向けてきた。香織のそんな表情を見たのは初めてだった。
「どうしても離婚したいってこと? どうしても私を捨てて航平さんと暮らしたいの?」
「航平と暮らしたいとかそういうんじゃない。俺は、俺とおまえのことを言ってるんだ」
「あなたのご両親にはなんて説明するの?! 僕は同性愛者で、男を愛しています。だから妻と別れますって?!」
香織は顔を歪めながら言った。さげすみと軽蔑の色を滲ませたような声音だった。
「その必要があるならそうするつもりだ。・・・俺はもうかまわない。誰に知られてもいいんだ。全てを受け入れる覚悟はできている。・・・・俺は航平が好きだ。・・愛している。・・俺はあいつのためなら、どんなことでも耐えられる」
香織の目をまっすぐ見守りながら、達也は穏やかな、しかし揺るぎない口調で言った。
《そう、航平さえいれば、俺は何もいらない》
彼女の表情が怒りから悲痛、そして諦めへと変わっていくのがわかった。
「・・もう私が何を言っても、・・達也さんの気持ちは・・変わらないのね」
その目に涙が溢れてくる。
「・・もう・・・終わりなのね」
両手に顔をうずめ、香織は声をあげて泣きだした。




