41【航平の葛藤】
翌週の火曜日、航平はいつものようにビルの脇にバイクを停めてビルの入り口を抜け、ジーンズのポケットに手を突っ込んでバーのドアの鍵を探りながらエレベータ脇の階段を下りた。下りきったところで顔を上げると、ドアのそばにカオリが立っていた。
日曜日に達也から電話があったので、航平はことのすべてを知っている。もしかしたらカオリが自分に会いにくるかもしれないという予感もなくはなかった。
カオリが頭を下げたので、航平も片手を上げた。
「ちょっと待って。今開ける」
そう言って航平は鍵を外し、ドアを開けて彼女を中に招いた。
「何か飲む?」
テーブルに導いてからカオリに問いかけた。彼女が首を振ったので、航平は向かい側の椅子に腰を下ろした。カオリは俯いている。
「達也のことだろ?」
カオリが何も言わないので、航平が口火を切った。
「・・私、どうしても信じられなくて。・・航平さんに会って確かめたかったんです」
「あいつが言ったとおりだよ。・・俺たちは愛し合ってる」
カオリの口元が歪む。
「俺は達也を愛している、二十歳のときからずっと」
航平は彼女をまっすぐ見据えながら、感情を交えず単刀直入に言った。するとカオリは顔を伏せたまますくうように航平を一瞥し、そしてまた目を伏せた。
「・・信じられない、・・達也さんが、・・・・・同・・同性愛者なんて」
航平は黙っていた。
「だったらどうして私と結婚したの?」
航平に尋ねているのではなく、自問しているようだった。
「どうして・・」
当惑したような表情でそう呟いてからカオリはつと顔を上げ、射るような視線を航平にぶつけながら口を開いた。
「航平さんが達也さんに離婚してくれって頼んだんですか?」
「いや、それは達也の意思だ」
「だったら達也さんに言ってください、離婚するなって」
「それは達也の意思だって言っただろ? 俺はそれに意見するつもりはないよ」
「離婚してどうするっていうんですか? 航平さんと一緒に暮らすんですか? 周りにどう見られると思うんですか!」
カオリの目に涙が溜まってくる。
「一緒に暮らすかどうかはまだわからない。それから他の連中がどう思おうと俺はかまわないよ」
苛立ちを抑えながら航平は努めて穏やかに言った。
「達也さんはどうなんです? 男と浮気して、その末の離婚なんて。職場に知れたらどうなると思いますか?」
カオリの口調がだんだん強くなってくる。
「ご両親は? 祥子ちゃんは? そういうこと考えたんですか?!」
一瞬航平は言葉を失った。涙が彼女の頬を流れ落ちる。それを拭こうともせず、カオリはさらに言い募った。
「達也さんは全てを犠牲にすることになります。・・それでも航平さんは平気なんですか?!」
「それは・・」
自分の声がかすかに震えているのがわかった。
「それは、達也だって覚悟してるだろう。・・じゃなかったら君に離婚を切りだしたりしないはずだ」
そう言いながらも航平はうろたえていた。視線がカオリから離れて宙をさまよう。
「航平さんと達也さんの立場は違います! 航平さんは世間体なんて気にしなくていい生活かも知れないけど、達也さんは・・・」
そこでカオリは視線をテーブルの上に落とした。そして数秒黙ったあと、航平を見ずに震える声で言い放った。
「達也さんは、あなたとは違います」
その言葉が航平の胸を突き裂いた。
「お願いします。達也さんと別れてください。私に達也さんを返してください。お願いします!」
カオリが深く頭を下げる。これ以上聞きたくなかった。
「・・悪いけど、・・帰ってもらえないか」
そう言う航平の声は低く震えていた。
「でも!」
カオリの涙がテーブルの上に落ちる。航平にはもう自分を抑えることができなかった。
「頼むから帰ってくれ!!」
椅子から勢いよく立ち上があり、両手でテーブルを叩きながら叫んでいた。その剣幕に気圧されたようにカオリは身体をすくめたが、立ち上がろうとはしなかった。
だがそのとき、彼女の視線が航平の背後に動いたかと思うと、その目が見開かれた。肩越しに振り向くと、入り口のそばにメイが立っていた。
カオリは航平に視線を戻してすばやく涙を拭った。
「私、あきらめません、達也さんのこと」
声を落としてそう言うと、カオリは立ち上がって小走りにドアに向かった。
全身の力が抜けたように航平は再び椅子に座り込み、呆然と空虚を睨んだ。たった今見たメイの存在すら忘れてしまっていた。
『達也さんはあなたとは違います!』
カオリの言葉が頭の中で繰り返される。
『達也さんは全てを犠牲にすることになります!』『それでも平気なんですか?!』『平気なんですか?!』
「航平・・」
不意に背後から静かな声がした。一瞬身を強張らせたがすぐに頬を緩め、そして航平は後ろを振り返らずに言った。
「聞いてたのか?」
「ごめん。・・盗み聞きするつもりじゃなかったんだけど・・」
「・・いいよ、別に」
航平は顔を上げて椅子の背に身体をもたれた。
「彼女の言うとおりだよなあ。・・あいつは俺とは違う」
「きっと、・・達也は、それでもいいと思ってるんじゃない? あんたのために全てを捨ててもいいと思ってる。それだけあんたのことがどうしようもなく好きなのよ」
メイはそう言いながら、カオリが座っていた椅子に座り込んだ。
「・・でも・・あいつ、・・・いつか後悔するかもしれない。・・・俺を恨むようになるかも・・」
メイの視線を避けながら、航平は内面の動揺を素直に吐き出した。
「そんなこと、今考えたってしょうがないじゃない。もう後戻りはできないのよ。たとえ達也が離婚しないで彼女と縒りを戻したって、結局は同じことになるに決まってる。あんたは達也が好きなんでしょ? だったら彼のこと、信じてなさいよ」
航平はそこで初めてメイに目を向けた。真剣な眼差しがそこにあった。
彼女の言葉が航平の心に深く染み込んでいく。
《達也を・・信じて・・》
鼻の奥が熱くなってくる。感情の乱れをごまかすように航平はふんと鼻先で笑った。
「おまえはさあ、ほんとに俺を慰めるのが上手だな」
「そりゃそうよ。あたしはあんたのガーディアンエンジェルだもの。あんたに悲しい顔なんかさせられない」
にやりとしながらウィンクをし、メイは立ち上がって航平の肩をぽんぽんと叩いた。そして、さ、仕事、仕事、と言いながらオフィスへ向った。
「ガーディアンエンジェル・・・か」
そう呟いてから航平はふっと笑い、そして立ち上がった。




