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結婚記念日の週末は車で伊香保温泉に行くことになった。だからその土曜日にはマンションに行けないということを告げると、航平は、そうか、とだけ言った。航平は香織とのことで達也を責めるようなことは決して言わない。


仲居に案内された十畳ほどの和室には浴室だけでなく、テラスに専用の露天風呂まで付いていた。大人三、四人ほども入れそうな大きさの丸い檜の風呂だった。

「大丈夫なのか? こんな高そうな部屋」

達也が眉をひそめると香織は、達也さんはそんなこと気にしないで、と微笑んだ。


テラスの肘掛け椅子に座って香織が淹れたお茶を飲んでくつろいだあと、ふたりで露天風呂に入った。思えば香織と風呂に一緒に入るのは初めてだった。

《航平とは・・》

そこまで考えて達也は頭を振った。髪をアップにした香織が首を傾げて微笑んでいる。香織の隣に移動して彼女の肩を抱くと、香織は達也の肩に頭をもたらせた。


風呂のあと香織と一緒に浴衣のまま旅館の庭を散歩した。鯉が泳ぐ池まである広い日本庭園だった。部屋に戻るとテーブルの上には夕食の支度がされていた。香織と向かい合って座椅子に腰を下ろすと、凝った料理が次から次へと運ばれてきた。

夕食後、香織が大浴場に行きたいと言いだしたので、達也も一緒に行くことにした。男性用の風呂は空いていて、達也のほかには親子なのだろうか、中年と年配のふたり連れがいるだけだった。

部屋に戻るとすでに膳は下げられ、畳の上には二組の布団が敷かれていた。部屋の小型冷蔵庫から缶ビールを取りだし、露天風呂のあるテラスに出て達也は肘掛け椅子に腰を下ろした。ビールを飲みながら椅子の背にもたれて空を見上げる。雲ひとつないしんとした夜だった。星が近く見える。達也は大きく溜息をついた。

《航平、今日はどうしてたんだろう。・・今頃はバーで忙しくしてるんだろうなあ》

達也はゆっくりと目を閉じた。

航平の笑顔が脳裏に浮かぶ。航平の掠れた低い声が耳元に聞こえる。そして自分の身体中を這う航平の熱い唇を感じる。

《・・航平・・》

「達也さん?」

突然の香織の声にはっとして目を開け、達也は背もたれからすばやく身体を起こした。

「寝てるのかと思ったわ」

達也の顔を覗き込みながら香織は笑って言った。頬がほんのり赤くなっている。

「あ、いや、気持ちよくてさ、夜の空気が」

香織はもうひとつの肘掛け椅子を達也の座っている椅子のすぐ横に動かして、その上に座った。

「ほんと。それに星がきれいね」

空を見上げて溜息まじりに言いながら香織は椅子の上に膝を立てて足を乗せ、少し身体を斜めにして達也の肩に頭をもたらせた。

しばらくの間ふたりはそうやって無言で星空を見上げていた。

「愛してる」

不意に香織が言った。

「え?」

頭を少し反らして香織に顔を向けると、彼女は星空を見上げたまま微笑んでいた。

「達也さんは私のこと、愛してる?」

達也は自分の顔が強張るのを感じた。

《愛してる? ・・愛?》

ふと我に返ると、いつの間にか身体を起こしていた香織が怪訝そうに自分を見つめているのに気がついた。心の動揺をごまかすように達也は大げさに笑いながら言った。

「ばかだなあ。当たり前だろ?」

そして香織から目を逸らし、ビールをごくごくと飲む。

「ちゃんと言って」拗ねるような甘えた声で香織が言う。

曖昧に笑いながら目を向けると、彼女の真剣な眼差しと合った。口の中が乾いていくのを感じた。香織に気づかれないようにすばやく唾を飲み込んで笑顔を作り、そして達也は口を開いた。

「愛してるよ」

一瞬かすかに眉を寄せたが、香織はすぐに笑みを見せ、再び達也の肩に頭を置いた。

達也はうろたえていた。頭の中で自分の声が叫んでいる。

《うそだ。・・うそだ!》

目をぎゅっと閉じてその声を追い払うおうとした。だが声はやまなかった。

《うそだ。俺は香織を愛してなんかいない。・・ちがう、・・これは愛じゃない。俺が愛しているのは航平だ。航平だけだ。・・あいつが俺のすべてなんだ!》

達也は無意識のうちに空になったビールの缶を握りつぶしていた。


「ねえ、子供をつくらない?」

旅行から帰って十日ほど経っていた。その夜達也は自分のベッドに滑り込んできた香織を激しく抱いた。香織を愛していないとはっきり自覚したはずなのに、それでも彼女を抱けることが自分でも不思議だった。

そして今、達也の腕に抱かれた香織は夫の胸を指でなぞりながら『子供をつくらない?』と言った。

「え?」

驚いた達也は頭を起こして香織を見た。

「でも、三年は子供はいらないって言ってたじゃないか」

「うん。・・でも気持ちが変わったの。今ほしい。・・ねえ、子供つくりましょ?」

そう言いながら香織は顔を上げ、懇願するような視線を向けてきた。

「あ、ああ、・・そうだな」

それだけ言うのが精一杯だった。自分の胸に置かれた香織の手を握って笑顔を作ったが、頬が引きつっているように感じた。


香織が寝入ったあと、達也は長い間暗闇を見つめていた。

《・・子供。・・いままであまり考えたことがなかった。・・子供ができたら俺と航平の関係はどうなるんだろう。・・いや、そんなことより、俺は香織を愛していないんだ。大事には思っているけど、それは愛じゃない。・・・俺はそれを愛だと自分に言い聞かせて、香織を裏切り続けてきた。・・・こんな気持ちのまま子供を育てるなんてできるはずがない。・・・どうしたらいいんだ》

目を閉じて大きく深呼吸をする。しばらくの間頭の中で様々な思いが交差していたが、やがてふとある結論にたどり着いて達也は目を開けた。

それは今まで無意識のうちに避けていた答えだった。しかしもうそれしかないと思った。一度そう思うと、一気に肩の力が抜けていくような気がした。頭の中がすっきりしてくる。

達也の心はうそのように落ち着いていた。

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