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「こんばんは」
声のほうに顔を向けると、いつの間にか横にいた若い女の子が笑顔を向けていた。どうやらその子が達也に言ったらしい。レイヤーの入った肩までの髪で、目が大きくて丸顔だ。小柄で、達也の肩ほどもない。
《・・誰だっけ》
記憶をたどっていると、その女の子が笑顔のまま少し首を傾げて言った。
「ソーホーのパーティに来てましたよね?」
「ああ!」
確か航平のバーのチサトとかいう名前のアルバイトの学生だ。今は前髪を下ろしているので気がつかなかった。
航平がニューヨークに行ってから、連絡がないまま二週間が経っていた。念のため彼の携帯に何度か電話をしてみたが、電源が切れているようだった。
達也は思い切って航平のバーに行ってみることにした。もしかしたらバーにいるかもしれないし、いないのならメイが何か知ってるかもしれない。そう思って今夜、会社の帰りに六本木の駅までやって来たのだ。駅の改札を出たところでチサトに声をかけられた。
「これから仕事なの?」
「はい、そうなんです。いつも水曜日は七時からなんですけど、今航平さんがいないから忙しくて」
「やっぱり、まだ戻ってないのか」
思わず深い溜息が漏れる。
「航平、いつ帰ってくるか知ってる?」
「いいえ。メイさんも知らないみたいです。先週航平さんから電話があって、ちょっと長引くかもって言われたって言ってました」
「・・そうなんだ」
《どうして俺には連絡をよこさないんだ》
少々不愉快な気分になってくる。
《・・携帯を日本に置いてったんだろうか。だから俺の番号がわからない、とか》
「ソーホーに行くところなんですか?」
チサトの明るい声で達也は我に返った。
「え? ああ、そう。航平がいるかなと思ったんだけど」
「あのお、航平さんのお友達、ですよね?」
「あ、うん」
「メイさんに訊いたらどうですか? あたしたちには詳しいこと教えてくれないけど、でも航平さんのお友達なら、教えてくれるかもしれません」
「そうだな」
達也はチサトと一緒に歩き始めた。
「航平さんとはもう長いんですか?」
歩きながらチサトが顔を向けて訊いてきた。
「え? ああ、そうだな。俺たちが二十歳のときから。でもあいつがニューヨークに戻ってから四年間は会ってなかったけどね。・・・君は長いの? バーのアルバイト」
達也もチサトに顔を向ける。
「えっと、去年の十一月からだから、もう半年くらいかな」
「どお? 航平は、いいボスかい?」
「もちろんです! 航平さん、いっつも優しくて、頼もしくて、アルバイトの面倒もすっごくよく見てくれます。男の子たちからも慕われてるんですよ」
チサトは顔を輝かせて、少し自慢げに言った。
「へえ、そうなんだ」
「あたし、この間、仕事中ぼーっとしてて、カクテルグラス壊しちゃったんです。それを拾おうとしたら手を切っちゃって。・・結構深かったんで、航平さん、バイクで近くの救急病院まで連れてってくれたんです。結局四針縫ったんですけど。ほら」
そう言いながらチサトは右の掌を達也の顔の前にかざした。確かに親指の下辺りに生々しい傷跡があった。達也が眉をひそめると、チサトは笑って手を引っ込めた。
「そのあと、バイクじゃ心配だからって、一度航平さんのマンションに行って、それから車で市川の自宅まで送ってくれたんです。・・・あたし、ちょっと家族のことで悩み事があって、そのとき。・・・・航平さん、あたしが何か悩んでるの、ちゃんとわかってたみたいで、相談にのってくれました。航平さんの言葉、すごく励ましになったんです」
そう、と言いながらチサトに目をやると、頬が少し上気していた。
「君は航平のことが好きなんだね」
達也が微笑みかけると、チサトは、やだあ、やめてください、と恥ずかしそうに笑った。そして笑顔のまま前方を見据えて言った。
「でも航平さんを好きじゃない人なんていませんよ、きっと。・・・航平さんて不思議な魅力がありますよね? かっこいいだけじゃなくて、なんて言うのかな・・・」
言葉を捜しているのか、チサトは首を傾げて黙っている。
「わかるよ、君の言いたいこと」
達也が優しく言うと、チサトは少し悲しそうな表情で達也を見た。
「航平さんのお父様もご存知だったんですか?」
「ああ、奥村さん? うん。直接会ったことはなかったけどね」
「航平さん、かわいそう。お母さんも子供の頃亡くしてるんですよね。・・いくら義理のお父さんだからって、・・やっぱり家族を亡くすのって辛いですよね」
「そうだね」
まだ六時前だったので、バーの客はまだらだった。カウンターの中にはメイと長身の若い男がいた。アルバイトだろうか。
「あら」
達也を見てメイは一瞬眉を上げたが、すぐに笑顔になった。チサトはメイに挨拶をしてからカウンターの後ろのドアに消えた。おそらくバーの制服に着替えるのだろう。
「こんばんは」
少し顎を引いて緊張気味に達也は言った。自分と航平の関係を知っている唯一の人物であるメイに会うのは、いつもどこか気恥ずかしい。
いらっしゃい、とメイが笑顔で近づいてくる。
「航平はまだ帰ってないのよ」
「ええ、そうみたいですね。さっき彼女から聞きました」
達也はチサトが消えたドアに顔を向けた。
「あなたのとこには連絡いってる?」
「いいえ、まったく。・・メイさん、航平と話したんですよね?」
「先週ね」
「あの、・・どんな様子でした? あいつ」
「んー、なんか疲れてたみたい。いろいろやることもあるみたいだし」
黒いシャツを着たチサトがカウンターに現れた。前髪を頭の上で留めている。チサトは達也に笑顔で軽く会釈をしてからフロアに向かった。達也は自分がバーにいることを思い出し、ハイネケンを注文する。メイは後ろの冷蔵庫から瓶ビールを取りだし、それをグラスに注いでから達也の前に差しだした。
ビールを一口飲んでからメイに問いかけてみた。
「いつこっちに戻るとか言ってましたか?」
「そのときは、まだわからないって言ってた」
メイはナッツを小さいガラスの器によそりながら答えた。
「そうですか」
それから、サービスよ、とその器を達也の前に置いた。
「あ、どうも」
目を伏せながら溜息をつき、そして達也はまたビールを口に運んだ。そのとき、腕を組んで自分をじっと見ているメイと目が合った。ビールをごくんと飲んでから、『なんですか?』と言うように、メイに向かって眉を上げて首を傾げてみせた。すると彼女はカウンターに肘を突いて顔を近づけ、声を落として言った。
「なんか、まだ信じられなくってね、・・航平とあなたのこと」
達也は瞬きをした。咄嗟に何と言っていいかわからず、ナッツをひとつまみ口に放り込んでから視線を宙に泳がせた。
「ごめん、ごめん。別に変な意味で言ったわけじゃないから」
メイは笑いながら胸の前で両手を振る。達也が彼女に視線を戻して黙って頷くと、メイはまたカウンターに肘を突いて身を乗りだしてきた。
「ただね、あたしはあいつが子供のときから知ってるから、・・・なんか、ねえ」
ビールをごくごくと喉に流し込んでから、達也はメイに笑顔を向けた。
「航平が言ってました、子供の頃メイさんによく面倒見てもらったって」
「そうよ。あいつ、頼りなくて泣き虫でね。ほんと手間のかかるやつだったわ」
メイは身体を起こし、腕を組みながら真面目な顔で言う。達也は思わず声をあげて笑った。そのときカウンターの奥にいたアルバイトらしい男が達也のほうに顔を向けた気配があったので、達也も反射的にその男に目をやった。
その顔には見覚えがあった。今は長い髪をオールバックにして後ろで束ねていたが、確か先日のパーティで航平と話していた男だ。ハーフなのだろうか、ほんとに彫りの深い顔立ちをしている。
「ああ、彼はね、ユージっていうの。航平がいない間の助っ人よ」
達也の視線に気づいたメイが言うと、その男が笑顔で片手を上げてきた。達也も軽く会釈をする。
「父親がアメリカ人でね、うちの母親の知り合いなの」
「へえ。・・大学生なんですか?」
そうよ、と答えてから、メイはユージに顔を向けた。
「ちょっとユージ、あんたいくつになったんだっけ?」
「二十一だよ、メイ。この間ここでバースデーパーティやったじゃないか」
ユージは眉を上げてちょっと呆れたように言った。その口調にはほんのわずかだが英語訛りがあった。
「ああ、そうそう。そうだったわね」
片手をひらひらさせながらメイがそっけなく言うと、ユージは軽く肩をすくめてから達也たちに背を向けて何かを作り始めた。
「そういえば、この前のパーティにメイさんのお母さんも来てたんですよね?」
達也が言うと、メイは再び腕を組んで不愉快そうに顔を歪めた。
「ああ、航平に聞いたの? そうなのよ。あいつが勝手に招待しちゃってね。年のくせによく飲むし、おまけに仕事仲間大勢連れて来たりするからバーは大損よ!」
メイの母親は雑誌のスタイリストをやっていると航平が言っていた。
「メイさんは、航平のお母さんのことって覚えてますか?」
「そりゃあね。ヨーコさんが死んだとき、あたし十四だったもの。・・ヨーコさん、すっごくきれいでね、いつも優しかったわ。うちの母親とは大違い」
「交通事故・・ですよね」
「そう。航平が十一歳のときね。ヨーコさん、車で航平と一緒に奥村さんの家から帰る途中だったの」
「え? 航平もその車に乗ってたんですか?」
思わず手に持っていたグラスを落としそうになった。
「そうよ。対向車線を走ってた車がセンターラインを越えて、ヨーコさんの車と正面衝突したの。酔払い運転よ。・・ヨーコさん、即死だった。航平は後ろのシートに座ってたから軽い怪我ですんだんだけど」
「・・そうだったんですか」達也は半ば呆然と呟いた。
「航平ね、あの夜、奥村さんのことでヨーコさんと喧嘩したんですって。だから怒ってヨーコさんの隣に座らなかったって言ってた。ヨーコさんにひどいこと言ったんだって。そのことをすっごく後悔してた」
そう言うとメイは遠い目をしてどこか達也の後方を見つめた。それから再び達也に視線を向けて真剣な面持ちで言った。
「でもね、もし助手席に座ってたら、あのとき航平も死んでたのよ」
眉間に皺を寄せながらメイは目を伏せた。まるでそう考えるだけで得体の知れない恐怖が彼女を襲うかのように、メイは自分の身体を強く抱きしめた。
《・・知らなかった、・・航平がそんな思いをしていたなんて》
達也の胸は締めつけられるように痛んだ。
「そうだわ!」
突然のメイの明るい声に、達也は息を呑んで顔を上げた。メイはそそくさと先ほどチサトが出てきた部屋に入っていき、少しすると何かを持って戻ってきた。そしてにやっとしながら、驚いて瞬きをしている達也の前にそれを置いた。
それは古い写真だった。四人の人物が並んで写っている。両端に大人の女がひとりずつ、そして中央には男の子と女の子が笑顔でソファに座っている。ソファの脇にはクリスマスツリーが飾られているようだ。
「その男の子が航平、それからその隣がヨーコさんよ」
その言葉に達也はいったんメイを見てから改めて写真に視線を落とし、そして中央の男の子に目を向けた。よく見ると面影があった。確かに航平だった。達也の頬が思わずほころぶ。写真の中の幼い航平は男の子にしては少し長めの髪で、顔をいくらか上向きにして思い切りの笑顔を作っている。クリスマスのプレゼントにもらったのだろうか、白い腕時計を見せるように右腕を自分の前に立てている。その隣のヨーコという航平の母親は、髪を後ろに束ね、航平の肩に手を回して彼のほうに少し頭を傾げながら微笑んでいる。儚げな美人というのか、ほんとにきれいな女性だ。笑った目元が航平とよく似ている。
「それはクリスマスんときに撮った写真。航平は十歳だった。かわいいでしょ?」
「そうですね。・・・メイさんもかわいいですよ。この頃は髪が長かったんですね」
達也は写真に目をやりながら言った。メイは長い黒髪を耳の下でふたつに結んでいる。その隣の女がメイの母親の『ユキさん』だろう。達也はこの間のパーティで笑いながら航平の肩を抱いていた彼女を思い出した。写真の中でも同じように口を大きく開けて豪快に笑っている。おかっぱっぽいボブの髪型もそのままだ。
何とはなしに写真の裏面を見ると、下の右端のほうに何かが書かれているのに気づいた。『由紀、芽衣(13)、航平(10)、瑤子』。そしてその下は日付だ。十五年前の十二月二十五日になっている。
「航平はね、すっごいお母さん子だったの」
達也は写真から顔を上げた。
「って言ってもあの子には小さいときからお母さんしかいなかったからね」
考えてみれば、達也は航平の実の父親のことについて何も知らなかった。
「航平の本当のお父さんって、亡くなったんですか?」
「あたしも知らないの。多分航平も知らないと思うわ。瑶子さん、そのことは何も言わなかったから」
「そうですか」
そこでチサトがカウンターにやって来てメイにカクテルのオーダーを入れたので、達也はビールを飲み干し、そして写真をメイに返した。
「じゃ、俺、これで失礼します。ナッツ、ごちそうさまでした」
「そう? じゃ、またね」メイは笑顔で軽く手を振った。
レジに向かうと、チサトがレジの反対側に回って対応をした。
「また来てくださいね」
そう言ってチサトはにっこりと微笑んだ。




