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パーティの翌日の土曜日、香織が熱を出した。香織は大丈夫と言ったが、達也はボクシングを休んだ。当然航平のマンションにも行かなかった。


翌週の水曜日のお昼頃、航平から電話があった。面倒臭いのか日本語が苦手なのか、航平はメールは使わずに、用のあるときは電話をかけてくる。達也がメールで送ってもその返事は電話だ。

『俺。今いいか? 昼休みだよな』

「ああ、今から食事に行くとこ。どうした?」

『香織さんはもう大丈夫か?』

「ああ、熱はすぐ下がったんだ。今度の土曜日は行けるよ」

何かためらっているような沈黙のあと、遠慮がちな声が聞こえてきた。

『あのさあ・・』

「どうしたんだよ」達也は焦れったい思いで航平を促した。

『奥村さんの予定が変更になって、明日こっちに来ることになったんだ』

「え?」

それは航平のマンションには行けないということだった。

『そのまましばらく滞在するらしい』

「・・しばらくって・・どのくらい?」

『それがまだわからないんだ』

達也が黙っていると、電話の向こうで航平が溜息をついた。

『ごめん。・・・また連絡するよ。・・じゃ』

そう言って航平は電話を切った。


航平から再び連絡が来たのは、丸二週間後の水曜日の四時過ぎだった。

『達也・・』

掠れた小さな声だった。こんなに長い間連絡もしないでなんだよ、と文句を言うつもりだった達也は、その声を聞いた途端その言葉を呑み込んだ。

「どうかしたのか?」

『今夜、会えないか? おまえの仕事のあと、何時でもかまわない。・・少しだけでいいから』

「奥村さんはもう帰ったのか?」

『・・いや、・・でもマンションにはいない』

「バーは? バーはいいのか?」

『・・バーはいいんだ。・・・大丈夫』


胸騒ぎを覚えながら達也は急いで仕事を片付け、航平のマンションに向かった。

マンションに着いたとき、すでに七時を回っていた。エントランスホールのインターフォンで航平の部屋の番号を押すと、少ししてから、はい、という航平の声が聞こえてきた。

「俺、達也」

『ん。今開ける』

オートロックが解錠され、達也はドアを通り抜けてエレベータで十二階まで上がった。玄関チャイムを鳴らすと、航平が笑顔で迎えてくれた。だがその顔は心なしかやつれているようにも見えた。

「悪かったな、急に」

靴を脱ぐ達也を見守りながら、航平が力なく言った。

「いや、うれしかったよ」

達也がそう言って微笑むと、航平の顔が悲しそうに歪んだ。航平はゆっくりと腕を伸ばし、しがみつくように達也の身体を強く抱きしめた。

「達也、・・会いたかった」

達也の肩に顔をうずめて、航平は呻くように言った。

「俺も・・」

会いたかった、と言いかけて達也は息を呑んだ。航平の身体が小刻みに震えている。

《・・航平?》

航平は泣いていた。達也の肩で声を押し殺して静かに泣いていた。


航平を居間のソファに座らせてから、達也は上着を脱いで隣に腰掛け、彼の背中を静かにさすった。航平は身を屈めて両手で顔を覆っている。だがもう泣いてはいない。

やがて大きな深呼吸をしてから、航平は自嘲するようにふっと笑った。

「なんか、みっともないな、俺。・・・ごめん」

「そんなこと気にすんなよ。何かあったのか?」

「奥村さんが・・」

「奥村さん?」

航平は顔を覆っていた手をとって膝の上で腕を組み、どこか目の前の宙に視線を注ぎながら続けた。

「奥村さん、いま入院してるんだ」

「入院? どうして」

「・・脳腫瘍、・・・悪性の。・・・明日手術を受けることになってる。・・・初めからそのつもりで日本に来たらしい。・・・月曜日に入院したんだけどさ、・・奥村さんが俺に話してくれたのは、その前日だった。・・・ニューヨークでも少し入院してたらしいけど、俺、まったく知らなかったんだ。・・・・今日担当医から話を聞いた。手術の成功率は、かなり低いらしい。・・・一応覚悟をしておくようにって言われた」

航平は震える声で言い、そして頭を垂れた。

「奥村さん、そのことは?」

「・・知ってる」

達也は溜息と共に、そうか、と呟き、そして航平の膝にそっと手を触れながら言った。

「俺、今夜泊まろうか?」

すると航平はさっと目を上げて顔を向けてきた。目の縁は赤く染まり、睫毛が濡れている。切なげな痛々しいような表情だった。

たまらなくなった達也が再び口を開くと、それをさえぎるように航平は再び顔を伏せ、そして弱々しく言った。

「ありがとう。・・・でもいいよ。・・俺は、大丈夫だから。・・おまえの顔見て、少し楽になった」

「香織のことなら心配しなくても大丈夫だ」

香織には会社の同僚と飲みに行くと言ってある。

「夕べ、なんか一睡もできなくてさ。・・・明日のために今夜はなんとか睡眠をとらなくちゃと思った。・・・・だから、俺、さっき睡眠薬を飲んだんだ」

「睡眠薬?」

達也の言葉に、航平は少し間を置いてから小さく頷いた。

「それならおまえが眠るまで一緒にいるよ。いいだろ?」

達也が航平の手を握って彼の顔を覗き込みながら言うと、航平は潤んだ目で悲しげに達也をじっと見つめた。それから口元をかすかに緩め、そっと唇を重ねてきた。

航平の閉じた目から涙が一筋流れ出た。


達也は航平と一緒にベッドに横たわっていた。航平はパジャマズボンだけを身に着けて布団に入り、両手を胸の上で組んで上の空虚を見つめている。達也は服を着たまま航平のほうに身体を向けて布団の上に横になり、自分の腕に頭を置いて、そして組まれた航平の両手の上にもう一方の手を重ねていた。

すでに睡眠薬が効いてきたのか、航平は何度もゆっくりと瞬きをしている。

「達也、・・来てくれて・・ありがとう。・・・うれしかった」

航平は自分の手の上に置かれた達也の手を軽く握りながら掠れた声で囁くように言い、それからゆっくりと達也のほうに顔を向けた。その目は半分閉じていた。

「俺・・すごく、・・おまえに、・・会いたかった」

「何言ってんだよ。おまえが連絡よこさなかったんじゃないか。俺、ずっと待ってたんだぜ」

達也が握った航平の手を揺すりながら笑って言うと、航平は淡い笑みを見せた。

「・・そうだな」 

達也が航平の額にかかった前髪をかき上げて、そこにそっと唇を寄せると航平は目を閉じた。そして目を閉じたままゆっくりと言った。

「・・今日・・病院に・・行ったとき、・・俺・・・奥村さんと・・長い間・・・話をした・・・・いろんなこと・・ほんとに・・長い間・・・奥村さん、・・・俺に、謝ったんだ・・・・今まで・・おまえを・・縛りつけて・・すまなかったって・・・・・すまなかったって・・・・・・」

航平はそれきり何も言わなかった。 

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