32
男性用トイレに入り、達也は鏡の前に立った。そこには険しい目つきをした男がいた。額には汗が滲んでいる。
《嫉妬に狂った顔だ》達也は自嘲するように笑った。
ネクタイを乱暴に外して上着のポケットに押し込め、シャツの上のボタンを外して大きく息を吐いた。そしてシンクに両手を突いて頭を垂れ、しばらくの間目を閉じていたが、やがて軽く頭を振ってから深呼吸をした。それから蛇口をひねって冷たい水で顔を洗い、ペーパータオルで顔と手を拭いた。
「もう酔ったのか?」
突然のその声に、達也は息を呑んで振り返った。いつの間にかトイレの入り口のドアの前に航平が立っていた。腕を組んでドアに寄りかかり、にやりとした顔で達也を見ている。
「お、脅かすなよ」喘ぎながら胸を押さえる。
航平は一瞬眉を上げ、悪戯っぽい笑みを浮かべながら後ろ手でドアに鍵をかけた。達也の脳裏に先ほどの光景が浮かぶ。眉間に皺を寄せて睨むような視線を自分に向けている達也を見て、航平の笑顔は戸惑いの表情に変わった。
「なんだよ」
気持ちを落ち着かせるようにすばやく深呼吸をしてから達也は、なんでもない、と低く答えた。そして航平から顔を背けて無愛想に言った。
「よくわかったな、俺がここにいるの」
「そりゃあ、ずっと見てたからな、おまえのこと」
気を取り直したように航平が明るく言ったが、達也は皮肉を込めてふんと笑った。
「嘘つくなよ。俺のことなんか全然見てなかったよ、おまえ」
達也が吐き捨てるように言うと、航平は押し黙った。
ちらっと様子を窺うと、航平は腕を組んだまま眉を寄せ、首を傾げて達也をまっすぐに見ている。その目はどこか傷ついているようにも見えた。航平のそんな表情を見て達也はふと我に返った。自分の態度を反省し、あわてて胸の前で手を振りながら言い訳した。
「ごめん。ほんと、なんでもないんだ。・・ごめん。ちょっと酔っただけ」
航平はまだ、納得できないというような顔で、顎を少し引いて達也をじっと見ている。
「戻らなくていいのか?」
努めて明るく言ったが、彼は怪訝そうな表情のまま近づき、達也の腰に両手を当てながら顔を覗き込んできた。
「どうしたんだよ」
航平は真剣な眼差しを向けている。達也は唾をゴクンと飲み込んだ。その視線に耐えられなくなって、ついにはやけくそな気分で言葉を絞り出した。
「や、やきもちだよ、やきもち。・・・俺、し、嫉妬・・嫉妬してる」
「嫉妬? 何に」
「おまえがさあ、・・・・おまえが、他のやつらにキスしたり、肩を抱かれたり・・・・だ、抱きあったり・・・そういうの見てたら、たまらなくなった。・・・胸が苦しくなった。・・腹が立ったんだよ」
航平の視線を避けながら、達也は震える声で胸のうちを一気に吐き出した。
航平にちらりと目をやると、彼は驚いたように少し口を開いて瞬きをしていた。顔を伏せ、達也は深い溜息をつく。
「勝手だよなあ、俺。・・・自分は結婚してるっていうのにさあ。・・ほんと自分が嫌になったよ。情けなくなった。自己嫌悪で気分が悪くなったんだ。・・・ごめん・・ほんとに、ごめん」
航平は無言だ。不安になった達也が顔を上げたのと同時に、腰にあった航平の手が背中に滑り、達也の身体を抱きしめた。航平のふっと笑う声が耳元に聞こえてくる。
「もう、ごめんはいいよ」
そう呟いてから航平は達也の肩に顔をうずめ、小さな吐息を漏らしてから続けた。達也は背中に回された航平の腕に力が加わるのを感じた。
「愛してるって言っただろう? おまえが好きでたまらないって。・・俺にはおまえだけだ。他のやつらは関係ない。・・おまえだけだ」
航平は上体を少し離し、両手で達也の頬を包んで唇を重ねた。
「ジェイクはおととい父親になったんだ」
達也の隣に並んでシンクに寄りかかりながら航平が明るく言った。
「え?」
「俺が抱きしめた男。奥さんに子供が生まれたんだ。あれはお祝いの抱擁」
「そう・・だったのか」肩の力がすうっと抜けたような気がした。
「それから、俺の肩に手を回していたのは、ユキさん。メイの母親だよ。前に話しただろ? 彼女のこと」
「あ、ああ。あの人が」
「あと、他に何かあったか?」
航平は顔を向けて訊いてきた。その真剣な表情を見て、達也は思わず苦笑した。
「もういいよ」
達也の気持ちはすっかり落ち着いていた。
「俺は大丈夫だから、もう行けよ」
ほっとしたような笑みを見せて航平は頷いた。そして達也の頬にキスをしてから、ゆっくりと出ていった。
少し間を置いてから達也はトイレを出た。ドアを閉め、向き直って顔を上げた瞬間、先ほどの背の高い黒人の男と話をしていたメイと目が合った。達也を見て、メイは驚いたように大きく目を見開いた。その表情で達也は理解した。メイはついさっき航平が出てくるところも見たのだ。
あわてて彼女から目を逸らし、その場から逃げるように達也は香織たちのほうに向った。




