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「忘れるところだった」
その週の土曜日、達也はいつものようにボクシングのあとに航平のマンションを訪れた。居間のソファに座って靴下を履いていると、ガウンを羽織った航平が寝室から出てきて、前髪をかき上げながらテーブルの上に何かを置いた。
「なんだよ、これ」
「来週の金曜日、バーでパーティをやるんだ。得意客や常連を呼んでさ。その招待状。よかったら香織さんと一緒に来いよ」
「香織と?」
達也が顔を上げると、航平は口元に笑みを浮かべながら軽く肩をすくめた。
バーにはすでにかなりの客が来ていた。殆どの客たちは飲み物を片手に、立ったまま話をしている。半分以上が外国人だ。
達也は香織とふたりで緊張しながら奥に足を運んだ。カウンターを見やったが、航平の姿はそこにはなかった。代わりにふたりの若い男たちが忙しそうに動き回っている。
そのとき大きな笑い声が聞こえてきて、達也は反射的にそちらを見た。カウンターの近くにいた六人ほどの外国人のグループだ。みなスーツを着ている。視線を戻してから、ふと思い直してもう一度そちらに顔を向けた。そのグループの中に航平がいた。すぐにわからなかったのは航平の髪形が少し違っていたのと、いつもの黒いシャツを着てなかったからだ。黒っぽいスーツを着て、手には瓶ビールを持っている。
「たっちゃん! 香織さん!」
呼ばれて振り向くと、人込みの向こうから祥子が手を振りながらこちらに向かってやって来る。片手にカクテルグラスを持っている。おそらくマルガリータだろう。
「やっぱり来てたのか」
「祥子ちゃん、就職おめでとう」
祥子は大学を卒業して、この春、外資系の保険会社に入社した。
「おまえ、ちゃんと仕事できてるのか?」
「まだ研修中だから仕事らしい仕事してないけど、でも大丈夫そうよ。それにみんな優しそうな人たちで、すっごく安心したの」
祥子は弾んだ声で言った。密かに妹のことを心配していた達也は、心の中で安堵の溜息をつく。
「もしかして、祥子ちゃんの彼?」
その言葉に驚いて香織を見ると、彼女は祥子の背後に視線を向けていた。そのとき初めて気がついたが、祥子の後ろに若い男がいる。
「やだ、香織さん! 彼は大学の友達で、タケイマサトくん。タケイくんは大学院に進学したの」
香織にそう説明してから、祥子はタケイというその男に顔を向けた。
「タケイくん、こちらはあたしの義理のお義姉さん、香織さんよ。それからこっちのむすっとしてるのが兄貴の達也くん」
達也は祥子に向かって眉間に皺を寄せて見せてから、タケイに、よろしく、と挨拶した。
タケイは背が高くて、スパイキーショートというんだったか、茶色に染めた短めの髪を立ててボリュームをつけている。彫が深くてなかなかハンサムな男だった。
「よろしくお願いしまっす」タケイが緊張気味に達也と香織に頭を下げる。
「あ、航平さーん!」
そう言いながら祥子が達也の背後に向かって手を振ったので、達也は急いで振り返った。航平の笑顔がそこにあった。達也の顔が思わずほころぶ。
航平は達也の横に立って、よう、と言ったあと、香織に顔を向けてにっこりと微笑んだ。
「来てくれてありがとう」
今日の航平は前髪を上げて、髪をふんわりとしたオールバックにしている。よく見るとスーツではなく、黒いジーンズとカジュアルジャケットの組み合わせだった。ジャケットの下のグレイっぽいストライプのシャツの裾をジーンズの上に出し、襟元を開けていた。達也が思わず見とれるほど、今夜の航平は格好よかった。寝起きの、くまのような様子が想像つかない。
「こちらこそ、お招きいただいてありがとうございます。達也さんがいつもお世話になっています」
香織のはにかんだような声でふと我に返り、達也は軽く咳払いをしてから無愛想に口を挟んだ。
「別に世話になんてなってないよ」
「航平さん、今日はいちだんと素敵!」
「ありがとう。祥子ちゃんもきれいだよ」
航平は祥子に笑顔を向け、それから彼女の隣にいるタケイに視線を移して首を傾げた。
「もしかして、彼が祥子ちゃんのボーイフレンドのマサト、くん?」
「なんだよ、やっぱりそうだったのか?」
達也が呆れたように言うと、祥子は顔を赤くして俯いてしまった。
「よろしく。俺は航平、達也の友達」
航平はタケイに右手を差しだしながら、ビールを持ったもう片方の腕を達也の肩に回した。
タケイが照れながら航平の手を握ると、航平はいきなりその手を引っ張ってタケイを自分と達也に近づけ、そして低いトーンで言った。
「祥子ちゃんを泣かせたら、俺たちが黙ってないぜ」
「え?」タケイの頬が強張った。
「航平さん!」祥子がむくれたように言う。
「冗談だよ」航平は笑いながらタケイの腕を軽くぽんぽんと叩いた。
達也は香織と顔を見合わせて笑った。タケイは照れたように頭を掻いている。
「チサト!」
突然航平がそう言って誰かに手招きをした。すると若いウェイトレスがスパークリングワインをのせたトレイを持って近づいてきた。丸顔で目が大きくて、かわいらしい女の子だった。上げた前髪を頭の上でピンか何かで留めている。そのウェイトレスは笑顔で達也たちのほうにトレイを差しだしながら、ちらっと航平に視線を向けて微笑んだ。
「アツシたち、大丈夫か?」
カウンターのほうを仰ぎながら、航平はさほど心配している様子でもない口振りでそのウェイトレスに言った。
「大丈夫ですよ。航平さんは安心して飲んでてください」
チサトはそう言うと再び航平ににっこりと微笑んでから去っていった。
ワインを一口啜ってから、達也は航平が手にしているビールを顎で指した。
「そういえば、おまえ、今日は飲んでるんだな」
「ん? ああ。今夜はバー主催のパーティだからな。もてなす側の俺たちも飲まないわけにはいかない」
ビールの瓶を少し掲げてみせてから、航平はさっとドアのほうに顔を向けた。見ると新たなグループが入ってきたところだった。中年の日本人のカップルと白人のカップルだ。そのなかの白人の男がこちらに向って手を振った。航平は片手を上げて答える。
「ちょっとごめん。今夜はなんでも飲み放題だからさ、適当にカウンターで注文していいぜ」
達也の背中を軽く叩き、航平はそのグループのほうに向かった。
「香織さん、航平さんってかっこいいでしょ? あの声も素敵よねえ?」
祥子が興奮気味に香織に向かって言う。タケイはむっとしたように横を向いたが、祥子は気にかけた様子はない。
「そうね。でも前に会ったときと少し感じが違うみたい」
「髪型のせいよ。あのね、あそこにいるメイさんっていう女の人が、航平さんの専属ヘアスタイリストなの」
香織は祥子が指差すほうに顔を向けた。
「そうなのか?」
思わずそう呟いてから、達也はメイのほうに目をやった。メイはさっき航平が一緒にいた外国人グループの中にいた。半袖の黒っぽい膝上のワンピースを着て太いベルトをし、膝までの赤いブーツを履いていた。ネックレスやらブレスレットやらをたくさんしている。
「メイさん、以前ニューヨークで美容師してたんだって。今は航平さんの髪だけ切ってるって言ってた。でもね、恋人じゃないみたい。昔からの知り合いみたいなんだけど」
『俺たち一度だけ寝たことがある』
なぜか咄嗟に航平のその言葉が達也の頭に浮かんだ。
「ねえ、たっちゃん、航平さんって恋人いるの? 訊いてもなんかいっつもはぐらかされちゃうのよねえ」
祥子が小首を傾げながら訊いてくる。
「え? さあ、いんじゃないの。別にそんな話しないからなあ」
達也は祥子から目を逸らし、ワインのグラスを空にした。それからカウンターに行き、そこにいた若い男にビールをふたつ注文してから、カウンターに背を向けてバーを見渡した。やがて赤茶のソファ席に座って飲んでいる航平が人々の隙間からちらっと見えた。達也は背を伸ばし、顎を上げて上から見やった。航平は七、八人の日本人のグループと一緒のようだ。グループの年齢層はまちまちだが殆どが女だ。隣に座っている派手な服装の中年女が、笑いながら航平の肩に手を回してぎゅっと抱いた。航平も笑っている。
《なんだよ、まるでホストクラブじゃないか》
達也はむっとしながらカウンターに向き直った。
瓶ビールとグラスをふたつずつ出されたが、ビールを瓶のまま受け取って香織たちのところに戻り、ひとつをタケイに渡した。
「どうも」タケイは恐縮したように顎を少し前に突きだした。
「で、どれくらい付き合ってるんだよ、おまえたち」
祥子とタケイを交互に見ながら言い、それから達也はビールをごくごくと飲んだ。
「クリスマス前だから、・・・四ヶ月くらい。ね、マサト?」
祥子がタケイに顔を向けると、タケイは真面目な表情で頷いた。
「航平は知ってたみたいだな。おまえ、あいつに話したのに俺達には黙ってたのか?」
「だってえ・・」祥子は口を尖らせる。
「まあ、いいじゃない。そういうのって身内には言いづらいものよ」
香織が達也の腕を軽く叩きながらとりなすように言う。それから香織は祥子とタケイに何やら言ったが、達也は聞いていなかった。航平がソファから立ち上がった。そして手すりを回って段を下り、入り口のほうに向かう。見ると白人と黒人の男女の四人組がドアの近くに立っていた。年齢はよくわからないが三十半ばくらいだろうか。みなカジュアルな服装だ。航平は女たちの頬にキスをしてから抱き合い、男たちとは握手をしながら腕を叩きあった。そして彼らをテーブルに案内してからカウンターに向かった。飲み物を取りに行ったのだろうか。
カウンターの中にいたアルバイトの男たちに何か言ってから飲み物を用意し始めた。カウンターの周りにいた日本人の若い女たちが航平に話しかけ、航平はカクテルを作りながら笑顔で彼女たちの相手をする。女たちの興奮した様子が窺える。
そのうちカウンターにメイが入ってきて、航平に顔を近づけて何か言った。すると航平は笑いながらメイの背後から手を回して彼女の腕をさすった。
今度はスーツを着た背の高い黒人の男がカウンターにやって来て、航平とメイに大げさなジェスチャーで何か言っている。やがて航平が声をあげて笑いだした。
「・・ね、たっちゃん?」
突然祥子の声が耳に入った。
「え?」
「もう、聞いてなかったの? この前、航平さんがうちにご飯食べに来たときのこと話してるの。ほら、お父さん、航平さんのことすごく気に入っちゃって、あの高級ウィスキーまで出してたじゃない」
「あ、ああ、そうだったな」
それからまた祥子は香織に顔を向けて話しだしたので、達也は航平に目を戻した。いつの間にかメイと黒人の男の姿はなく、代わりに日本人ぽい若い男がカウンターの中にいて、航平と親しげに話をしている。バーの関係者なのだろうか。黒いVネックの長袖Tシャツを着て、ウェーブのかかった肩くらいまでの長い髪の横の毛を後ろで留めている。長身で、航平より少し高いくらいだ。遠目からでもその男の彫りの深い端正な顔立ちが窺える。やがて航平はその男の腕を軽く叩き、何か耳打ちしてからカウンターを出た。
先ほどのグループのテーブルの上に飲み物を置き、そして何か言いながら航平はこちらに背を向けて座った。すると前の席の胸の開いた花柄のワンピースを着た白人の女が少し腰を浮かせ、航平の顔を両手で包んで頬にキスをした。今度は隣に座っている黒人の男が航平の肩に手を置いて何か言っている。それからみな大声で笑いだした。
達也は今まであまり航平が他の連中といるところを見たことがなかった。航平と会うときはいつも奥村のマンションでふたりきりだからだ。
航平が女にもてるのは知ってる。あの外見だから当然だろう。それに社交的だ。誰もが航平に魅了される。自分の妹や両親までがそうだ。だが実際にこれほどまのあたりにすると、達也の心は落ち着かなくなる。何となく不愉快な気分になってきた。
そのとき、コー!、というような声が聞こえ、達也は反射的にそちらに顔を向けた。航平がごく親しい友人たちに、『コー』と呼ばれているのは知っている。
それはカウンターの近くにいる金髪と黒っぽい髪の若い白人の男のふたり連れだった。ふたりとも背が高くて、モデルのように格好いい。
航平は隣の黒人の男の背を軽く叩き、テーブルの連中に何かを言ってから立ち上がった。そして男たちのほうに近づいて、彼らと握手をした。ビールを飲みながら楽しげに何か話している。達也も手に持っていたビールを一口飲み、それから再び彼らに視線を向けた。
その瞬間達也の全身が強張った。航平が金髪の男を抱きしめている。男も航平の背中に腕を回している。・・航平の手が男の背を軽く叩き、・・そしてさする。
思わず目を逸らした。だんだん気分が悪くなってくる。胃がむかついてきた。達也はビールを一気に飲み干して、手の甲で口を拭いた。
「たっちゃん、大丈夫?」
不意に祥子の声が聞こえてきた。
「え?」
目を上げると、祥子の怪訝そうな顔があった。香織も達也を見る。
「なんか、顔が怖いよ」
祥子が言うと、香織は心配そうに達也の背中に手を置いた。
「ほんと。顔色が悪いわ。汗かいてるみたいだし」
「あ、ああ、大丈夫だ。・・・ちょっとトイレ・・行ってくる」
空の瓶を近くのテーブルに置き、達也は足早にその場を離れた。




