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「達也、起きろよ」
航平の陽気な声で達也は目を覚ました。航平はトレイを抱えてベッドの端に腰掛け、笑顔で達也の顔を覗き込んでいた。黒い無地のボクサーパンツだけを穿いている。
「朝食作ったんだ。食べようぜ」
「ああ・・」
目をこすりながらしゃがれた声で言い、そして欠伸をしながら達也はのっそりと上半身を起こした。
「・・今何時?」
「十一時」航平が小気味よく答える。
「早いじゃないか。・・おまえいつも一時くらいまで寝てるのに」
また大きな欠伸をしながら達也は両腕を上に伸ばし、目尻に滲んだ涙を指の甲で拭いた。
ベッドの上に置かれたトレイには、スクランブルエッグとベーコン、そしてトーストがのった皿と、コーヒーの入ったマグカップがそれぞれふたつずつのっていた。カリカリに焼けたベーコンの香ばしいいい匂いがして、達也の食欲をそそった。
朝食を一気に平らげた達也は、コーヒーを啜りながらふと夕べの会話を思い出した。
《航平と、宮田さん、・・か》
隣でベッドのヘッドボードに立てた枕に寄り掛かってトーストをかじっている航平に顔を向けて口を開いた。航平はトーストをくわえたまま眉を上げ、首を傾げてくる。だが達也は思い直してその口を閉じた。
「なんだよ」苦笑まじりに言い、そして航平は手の甲で口を拭いた。
「いや、なんでもない」手元のコーヒーに目を落とし、達也は軽くかぶりを振る。
航平は残りのトーストを口に放り込み、皿の上で手を掃ってからまた顔を向けてきた。
「なんだよ、言えよ」
「いいんだ、別に」達也は航平に視線を戻し、微笑んでみせる。
少しの間苦笑を浮かべたまま探るような表情でじっと達也を見つめていたが、航平はやがてその笑みを消して目を伏せ、それから再び達也を見た。
「俺が宮田と会うのが、気になるのか?」
「え? ああ、いや、違う。そのことは別に、気にしてない・・と思う」
「じゃあ、なんだよ」焦れたように航平が言う。
軽く咳払いをしてから、達也はためらいがちに言葉を出した。
「・・おまえが、・・宮田さんと、そのお、・・会ったときって、・・・十五歳・・だったんだよな」
意表を突かれたかのように、航平は目を見開いて瞬きした。それから首を少し傾げて力なく微笑んだ。
「そのときのこと・・・知りたいのか?」
「い、いや、あの、おまえが言いたくなかったらいいんだ」
その悲しげともいえる表情を見て、達也はあわてて言った。
航平は眉間に皺を寄せながら目を伏せた。怒っているわけではなく、何か考えているようだった。しばらくそうやって黙っていたが、やがて軽く深呼吸をしてから、目を伏せたままおもむろに話し始めた。
「俺、・・十五歳の夏、すっごい失恋したんだ」
そう言ってから航平は顔を上げ、ヘッドボードに頭をもたれた。
「相手は六歳年上の女。・・金髪で、透き通るような肌をしたきれいな女だった。・・・奥村さんの友人夫婦の娘でさあ。俺、夏の間その夫婦に預けられてたんだ。・・彼女も大学の休みで帰省してた。そのとき、彼女と・・・深い関係になった。・・・俺たちは彼女の親の目を盗んで何度も愛し合った。俺、彼女に夢中になったよ」
航平はそこで溜息をついた。
「だけど、夏が終わったら、俺はあっけなく捨てられた。彼女にとって俺はさあ、夏の間の退屈しのぎの玩具でしかなかったんだ。俺、かなり落ち込んだよ」
航平はふっと笑い、マグカップに手を伸ばしてコーヒーを飲んだ。そして手元のカップを見つめたまま少し黙っていたが、もう一口コーヒーを啜ってから再び話しだした。
「その秋だよ、真治がニューヨークに来たのは。・・・・奥村さん、俺に見せてくれたんだ、真治の絵。・・俺、なんか、興味を持った。だからギャラリーに行ったんだ、まだ準備中のとき。・・・入り口に立って中を覗こうとしたら、ちょうど荷物抱えて外に出てきた真治とぶつかって、・・そのとき、同じ日本人ってわかって、真治、俺にいろいろ話しかけてきたんだ。・・俺、気がついたらいつの間にか、自分は大学で美術の勉強をしているって言ってた。・・・・奥村貴之の息子で、しかも十五歳だなんてわかったら、子ども扱いされるか、敬遠されるか、・・気遣われるか、すると思った。・・・そういうの嫌だったんだ」
そこで息を切ると、航平は正面の空虚を見つめたまま言葉を探すかのように目を細めた。
「失恋の痛手のせいだったのかなあ。・・・俺、誰かにすがりたくてしょうがなかったんだと思う。・・真治と会ってると楽しかったよ。嫌なこと、忘れられた。・・・・真治は優しかった。・・・・俺、うれしかったんだ、誰かが俺を大事に思ってくれるってことがさあ」
手元のマグカップに視線を落としてから、航平はふっと自嘲のような笑みを浮かべた。
「取り留めないよな、俺が言ってること。・・なんかうまく説明できない」
「いや、わかるよ」
達也は航平の横顔を見つめながら、労わるように彼の腕に手を置いた。すると航平は達也に顔を向けて淡く微笑み、それからまた手元に視線を戻した。
「真治と・・・・関係を持つようになって、二週間ぐらい経った頃だったかな、学校から帰ったら、家にいたんだ、・・真治がさ。・・・奥村さんと一緒にソファに座って話をしてた。・・・俺も驚いたけど、真治は俺を見て真っ青になってたよ。俺、私立の高校行ってたから、学校の制服着てたんだ、そのとき」
航平はまた黙り、乾いた口の中を潤そうとしているかのように残りのコーヒーを一気に飲み干した。そして手の甲で口元を拭きながら、眉を少し寄せて空のマグカップをじっと見つめている。達也が少し身体を向けると、航平は我に返ったように小さく咳払いをし、そして続けた。
「その夜、いつものように家抜け出して、あいつのアパートメントに行ったんだ。・・そしたら、あいつ、俺を部屋に入れるなり、いきなり俺の頬・・ひっぱたいた。・・・それから、俺の首もと掴んで、壁に押しつけて怒鳴ったんだ、もう二度と顔を見せるなって。・・すごい顔してたよ。・・・・怖かった。・・苦しくてさあ、・・俺、殺されるかと思った」
再び顔を上げ、ヘッドボードに頭をもたれて航平は深い溜息をついた。
達也は信じられない思いで航平の話を聞いていた。宮田が声を荒らげたところさえ達也は見たことがない。ましてや暴力を振るうなんて想像もつかなかった。
「俺、何度も謝ったよ。・・真治を失いたくなかった。・・・またひとりになるのが怖かった。・・でも、何を言っても、だめだった」
航平はまた視線を手元に落とした。思い出してもまだ胸が痛むのか、黙ったまま沈痛な表情で手の中のカップを見つめている。達也の胸は罪悪感で押しつぶされそうになってくる。
「航平、ごめん、辛いこと、思い出させて」
達也は頭を垂れた。すると溜息まじりに笑みを含んだ航平の声が聞こえてくる。
「あのさあ、俺もっと辛い失恋してんだぜ。それに比べたらそんなのなんでもないよ。何しろ本気で好きだったやつに、二度も振られたんだからな」
「え?」
顔を上げると、自分にまっすぐ注がれた航平の視線と合った。
「俺、ほんとにそいつに惚れてたんだ」
航平は少し目を細めて、愛しそうに達也をじっと見つめている。
「今でもそいつのことが好きでたまらない」
そう言いながら手を伸ばして達也の頬に優しく触れた。
「もしかして・・俺?」
目をぱちくりさせながら自分を指差すと、航平は達也の頬から後頭部に手を滑らしながら囁いた。
「もう、二度と、あんな思いは、したくない」
それからゆっくりと達也の顔を自分のほうに近づけ、唇を重ねた。
ついばむようなキスが徐々に熱く湿ったものに変わっていく。夢中で航平の唇をむさぼっていると、不意に彼は惜しむように唇を離した。そして息の乱れた達也を熱い眼差しで見つめながら、達也と自分のマグカップをトレイに戻し、そのトレイをベッドサイドテーブルの上に置いた。それから再び唇を重ねながら達也を寝かせてその上に覆いかぶさり、達也の口から耳、首筋そして胸へと唇を這わせる。ふたりの息遣いがだんだん激しくなってくる。達也の両手は航平の頭を抱え、その指が彼の髪をまさぐっていた。
「航平、・・俺・・シャワー・・・してない」
震える息と共に言ったが、航平は荒々しい愛撫をやめなかった。
シャワーを浴びたらすでに一時を回っていた。支度をしてから寝室を覗くと、航平はベッドの上で仰向けに横たわっていた。両手をみぞおちの上に重ねるように置いて、その目はどこか宙を見つめている。
ベッドに近づいて航平の横に静かに腰を下ろし、そして達也は彼の腕にそっと手を置いた。
「俺、もう行かないと」
航平の腕の上で指を這わせながら囁くように言うと、航平はのっそりと頭を動かして虚ろな目を向けてきた。達也は上半身を屈め、彼の唇に自分の唇を寄せた。
ゆっくりと顔を離したが、航平は瞼を閉じたままだった。口をわずかに開けたまま眉を少し寄せている。
「じゃあな」
そう言って立ち上がろうとした瞬間、腕をがっしりと掴まれた。達也が振り向くと同時に航平は上体を起こして達也を抱きしめた。そして吐息のような声で言った。
「愛してる・・達也」




