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その夜は父親の信明もいた。航平が父に会うのは初めてだったが、父は航平のビジネス経営や投資などの話に興味を示し、そのうえ航平がアルコールに強いと知り、ふたりでずいぶんと話が弾んていた。父が大事そうに少量ずつ飲んでいる高級ウィスキーまで出てきたのには驚いた。母も五年ぶりに航平に会って、上機嫌に近況などを訊きだしていた。
泊まっていくように言われたが、それはうまく断ってふたりで電車で帰った。祝日前の日曜の夜だが、都心方面への私鉄の車内はさすがにがらがらだった。新宿で乗り換えた地下鉄も比較的空いていた。
「おまえ、相変わらず酒に強いんだな。ぜんぜん酔ってない」
「いや、結構酔ってるよ。顔に出ないだけだ。・・・おまえは真っ赤だな」
隣に座った達也の顔を横目で見ながら、航平が冷やかに言う。
「うるせー!」達也は航平の脇腹を肘で小突いた。
新宿駅の乗換えで結構歩いたので、また少し酔いが回ってきたようだった。
座席の上の窓に頭をもたらせて、何とはなしに車内を見回した。達也たちの斜め前に座ったふたり連れの若い女たちが、こちらを盗み見ては笑いながらひそひそと話している。目の前に座っている三十歳前後の眼鏡の女も、本を読みながらちらちら目を向けているようだった。達也の視線に気づくとあわてて顔を伏せた。その隣の座席に男と腕を組んで座っている若い女も、こちらに顔を向けていた。
《みんな航平を見てるんだろうなあ。・・往きの電車でも同じようなことがあったっけ。かっこいいもんなあ、こいつ。・・そういえば祥子も言ってたよなあ、バーには航平目当ての女がたくさん来るって。・・・こいつが電車を嫌うのは女の視線がうっとうしいからなのかなあ・・》
酔った頭でそんなことをぼんやりと考えていると、不意に航平が話しかけてきた。
「香織さん、明日何時に帰ってくるんだ?」
「え? ああ、三時半に羽田に着く。明日一度家に帰って、車で空港まで迎えに行くつもりなんだ」
「北海道だっけ? 友達と?」
「ああ、高校時代の。・・・ほら、島村奈津美っているだろ? おまえのバーにしょっちゅう行ってる」
「ナツミ? ・・ああ」抑揚のない声で航平が言う。
「一緒らしい。彼女さあ、おまえにめちゃくちゃ惚れてるんだってよ。知ってるか?」
にやりとしながら肘で軽く小突いたが、航平は関心がなさそうに、いや、とそっけなく答えただけだった。
「香織を通して俺にいろいろ訊いてくるんだよ、おまえのこと。・・誕生日、血液型、趣味、好きな食べ物、恋人はいるか、それから家はどこかとかさあ」
「で、おまえ言ったのか?」
「まさか。本人に訊けって言ったよ。それに俺、おまえの血液型なんて知らないしな」
「俺も知らない」
「え?」
驚いて航平を見たが、その横顔に表情はなかった。
「なんで日本じゃ、誰も彼も血液型にこだわるんだろうな。みんな知りたがる」
「相性判断とか性格判断とかのためだろう?」
「血液型となんの関係があるんだよ」
航平はさめた目を向けてくる。達也は一瞬考えてから同調した。
「そうだよな。ばかばかしいよな」
そしてくっくと笑ってから続けた。
「あと、あのメイって女は航平さんのなんですか、っていう質問もあったなあ」
達也の言葉に航平は鼻先で軽く笑ったが、何も言わない。達也はちらっと横目で様子を窺った。航平は座席に浅く座って足と腕をそれぞれ組み、背もたれに身体を預けて窓上の広告辺りに視線をやっている。もちろん広告を読んでいるわけではないだろう。
「実はさあ、俺もそれ、知りたいと思ってたんだよなあ」
達也もその辺りに目をやりながら、さりげなく言ってみた。
航平は無言だ。再びすばやく達也が隣に視線を走らせたと同時に、航平は咳払いをしながら足を下ろした。それから少し斜めに達也のほうを向いて座り直し、前屈みになって両腕を開いた大腿の上に置き、そして眉を大きく上げて達也の顔を覗き込んできた。
「俺とメイの関係を知りたいってこと? おまえが?」
「え? ・・うん、まあ」
「どうして」
眉をしかめて問いかけてくるが、航平はどこか面白がっているようでもあった。
「どうしてって、その・・」
達也が言い淀んでいると、航平は顔を近づけて声を落とした。
「メイが俺たちのこと知っても、俺が気にしなかったからか?」
真面目な表情で達也は小さく頷いた。すると航平は口元を緩め、そして身体を起こして腕組みをしながら再び座席の背もたれに寄りかかった。
「あのときおまえ、メイは特別だって言っただろ? 特別ってどういう・・」
「俺とメイは・・」
航平がさえぎるように話しだしたので、達也は口をつぐんだ。
「・・親友で、幼馴染で、・・そして、まあ、ソウルメイトみたいなものだな」
「ソウルメイト?」
「俺の母親とあいつの母親、ニューヨークで友達だったんだ。俺は八歳のときあっちに移ったんだけど、・・メイが言うにはすっげえ内気で弱虫だったらしい。英語もあんまりできなかったしな。そんな俺を三歳年上のメイがよく面倒見てくれたんだ。学校で苛められてもすぐにメイが仇をとってくれた。あいつのおかげで俺は強くなった、っていうのがメイの言い論なんだけどさあ、まあ・・大体あってるかな。・・・十一んときに母さんが交通事故で死んでから、俺は一時期ユキさん、メイの母親だけど、彼女に預けられたんだ。ほかに身寄りがなかったからな」
「でも、おまえのお母さん、奥村さんと結婚してたんだろ?」
思わず口を挟むと、航平は達也に顔を向け、いや、結婚はしてなかった、と何でもないことのように言った。そして驚いている達也に苦笑のような表情を見せてから、視線を正面に戻した。
「婚約中だったんだ。・・奥村さんと婚約して、その一週間後に事故に遭った。・・俺、それまで奥村さんに会ったことは何度かあったけど、あの人のこと、殆ど知らなかったんだ」
「・・そうだったのか」航平の横顔を見つめながら呟いた。
「ユキさんとこにいる間、俺しょっちゅう泣いてた。母さんが恋しくてさあ。・・・俺が泣いていると、メイは俺を抱きしめて言うんだ、大丈夫、航平はひとりじゃないよ、あたしはずっとそばにいる、あたしがあんたを守ってやる、ってさ。・・なんかそれを聞くと俺、安心したなあ」
その頃のことを思い出しているのか、航平はちょっとの間遠い目をして黙っていたが、やがてふっと軽く笑い、そして続けた。
「でも、葬式が終わって、その次の週には奥村さんが俺を引き取りたいって言ってきたんだ。正式に養子にしたいってな。・・・・達也、降りるぞ」
航平は達也の外腿を手の甲で軽く叩き、それからさっと立ち上がった。
航平の話に聞き入っていた達也は驚いて窓の外を見やった。もう赤羽橋に着いていた。そういえばいつの間にか車内は混んでいた。おそらく六本木あたりで大勢乗ってきたのだろう。達也はあわてて腰を上げた。
「で、それ以来ずっとメイさんには会ってなかったのか?」
改札を出てマンションに向かって歩きながら、達也は再び先ほどの話を持ちだした。
「ん。ユキさんとメイは俺が奥村さんに引き取られてから三週間ぐらい経った頃、ユキさんの家の事情で日本に帰国したんだ」
「じゃあ、いつ再会したんだ?」
「おまえに会った年、日本にいたとき、俺、ユキさんに会ったんだ。そのときユキさんが言ってた、メイは高校を卒業してからニューヨークに行ったきり帰ってこないってな。向こうで美容師の資格を取って働いてるらしいから、帰ったらぜひ様子を見に行ってほしいって頼まれた。・・・・でもさあ、俺、帰ってからしばらく落ち込んでたからなあ・・メイに会いに行くどころじゃなかった」
どうして、と言いかけて、達也はその言葉を呑み込んだ。
《そうか、俺と別れたあとだ》
「半年くらい経ってからやっと会う気になってさあ、俺、ユキさんから聞いた住所を訪ねたんだ。・・メイ、変わってなかったよ。俺が覚えてたままだった。・・でもその時期、あいつ、恋人となんかもつれてて、大変だったんだ。・・仕事もうまくいってなかったらしい。結構精神的にまいってたみたいで。・・・・だから、あいつを誘ったんだよ。俺、ビジネススクール卒業したら日本でバーを始めるつもりだから一緒に来いよってさ」
「へえ、そうだったんだ」
「俺たち、一度だけ寝たことがある」
「え?!」達也はすばやく航平に顔を向けた。
黒いスエードコートのポケットに両手を突っ込んで、無表情に前方を見つめたまま航平は続けた。
「メイがまいってるとき、俺、あいつをなんとかしてやりたかった。母親を亡くした俺を慰めてくれたみたいに。・・・何か俺にできることがあるか、って訊いたら、抱いてほしいって言われた。・・・だから・・」
マンションに着いてエントランスホールに入り、航平はオートロックの施錠を外した。そしてエレベータのボタンを押してから再び話し始めた。
「俺たちはさあ、なんて言うのかな、・・・同類、なんだよな」
エレベータに乗り込み、十二階のボタンを押す。
「似たもの同士、お互いを庇いあって生きてる。お互いを必要としてる。メイが望めば、俺ためらいなくまたあいつを抱くと思う。・・でもそこに性的な意味合いはないんだ」
そこで初めて航平が視線を向けてきたが、達也は黙っていた。
「怒ったのか?」航平は苦笑しながら達也の腕を拳で軽く叩いた。
「いや、別に。・・でも、なんでそこまで俺に話すのかなって思って」
エレベータが止まりドアが開く。
「そうだな。別に話す必要なかったよな。なんか勢いかな。・・・でもそれが俺とメイの関係なんだ。それを説明したかった」
ふたりはカーペット敷きの廊下に足を踏みだした。




