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三月中旬の土曜日、香織が旅行に発った日、達也はいつものようにボクシングのあと航平のマンションを訪れた。スポーツバッグの中に二日分の着替を入れて。


「俺もう行くけど、好きにしてていいぜ。帰りは二時くらいになると思う」

航平はベッドの端に腰掛けて靴下を履きながら、布団に包まっている達也に声をかけた。

「わかった」

顔を向けると、航平は身体をよじり、上体を屈めて達也の唇にキスをした。そして達也の顔を覗き込みながら、照れたように囁いた。

「どこにも行くなよ」


航平がいない間、達也は殆どの時間を居間の本棚にあった絵画に関する奥村の書物を読んで過ごした。八時半くらいになって腹が減ったので、マンションの近くのコンビ二で弁当を買ってきて食べた。居間にある大きなフラットスクリーンのテレビをつけてみると、昔映画館で観損なったSFものの映画をやっていた。達也は缶ビールを片手にソファの上に腰を下ろした。


「達也、こんなとこで寝てると風邪ひくぞ」

突然の航平の声に驚いて達也は起き上がった。どうやら映画を観ながらソファの上で眠ってしまったらしい。時計を見ると三時近かった。

「おかえり。遅かったんだな」

目をこすりながら顔を上げてソファの後ろに立っている航平に言うと、ただいま、と言いながら航平は腰を屈めて達也の額に軽くキスをした。

「忙しかったのか?」

達也は入れっぱなしになっていたテレビのスイッチを消した。

「ああ、十二時過ぎてから結構入ってきたんだ。得意客の連中だったからな」

航平はレザージャケットを脱いでダイニングの椅子の背に掛け、それからキッチンに行って冷蔵庫から水のペットボトルを取りだして飲んだ。

「そうか。疲れてるだろ?」

航平の後姿に言うと、手の甲で口を拭いたあと背を向けたまま航平は、いや、そうでもない、と軽快に答えた。それからペットボトルを冷蔵庫に戻し、シャワー、浴びてくる、とシャツを脱ぎながら浴室に向かった。


目を覚ましたとき部屋の中は真っ暗だったが、達也には朝であるとわかった。仕事がら昼過ぎまで眠るので、完全遮光のカーテンに変えたと航平は言っていた。隣ではまだ航平がぐっすり眠っているのが気配でわかる。達也はそっと起き上がって、手探りで布団の中から自分のパジャマズボンとブリーフを探しだし、静かに寝室を出た。

ダイニングテーブルの向こう側の壁に掛かったアンティークの大きな振り子時計に目をやると、十一時を少し回ったところだった。

達也は浴室に行き、熱いシャワーを浴びた。


ソファに座って昨日の本の続きを読んでいると、紺色のタオル地のガウンを素肌に羽織った航平が、うーん、と伸びをしながら部屋から出てきた。くしゃくしゃになった髪の毛が眼鏡の上に覆いかぶさっている。航平は欠伸まじりに、よおー、と達也に向かって唸るようなしゃがれた声で言った。くまみたいだな、と達也は内心笑った。

「おはよう。やっと起きたな」

もう一時を回っている。

「オムレツ作ったんだけど、食べるか?」

「先にシャワー浴びてくる」

そう言うと、航平はまたひとつ大きな欠伸をしながら浴室に向かった。


髭を剃り、濡れた髪を後ろにかき上げた航平が居間に入ってきたのは、それから二十分ほどしてからだった。その顔に眼鏡はない。コンタクトをつけたのだろう。達也は眼鏡をかけた航平の顔が好きだったが、航平には言ってなかった。


「今日、何時におまえんち行くんだっけ?」

達也が作ったオムレツをトーストと一緒に食べたあと、コーヒーを飲みながら航平が訊いてきた。

「何時でもいいってさ。五時くらいでいいんじゃないか。四時に出ればいいよ。母さんが電車で来いって言ってたぜ。おまえに飲ませたいみたいだ」

「四時か。じゃあ、あと二時間はあるな」

振り子時計を見やりながらそう呟くと、航平は達也に視線を戻してにやりとした。

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