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三月二週目の水曜の夜、達也は妹の祥子と共にBarSOHOの入り口に立っていた。もう八時を回っていたので、水曜日だというのに前に来たときよりもだいぶ混んでいた。
顔を上げて人込みの上からカウンターのほうを見やると、航平はカウンター越しに外国人客たちの相手をしていた。祥子に引っ張られてカウンターのほうに向かうと、達也たちに気づいた航平が満面の笑みでふたりを招いた。
航平の笑顔は美しいと達也はいつも思う。ふとメイと目が合った。彼女が笑顔で片手を上げたので、達也も軽く会釈を返した。
「珍しいじゃないか、ふたり一緒なんて」
肩にタオルを掛けた航平が陽気に声をかけてくる。開いたシャツの襟元から見覚えのあるネックレスが覗いていた。黒い布の紐でシルバーの剣のような形の飾りが付いている。達也が航平の二十一歳の誕生日にプレゼントしたネックレスだった。
達也の視線に気づいた航平が、目線をちらっと下げてから眉を一瞬上げ、そしてにやりと笑った。照れた達也は、にやけてくる顔を隠すように下を向く。
「あさって香織さんの誕生日だから、プレゼントの買いもの、付き合ってあげたの」
祥子のすました声に、達也は思わず顔を上げた。
「何が付き合ってあげただよ、無理やり一緒に行くって言い張ったんだろ? 夕食も俺に奢らせてよお。ここだって今強引に連れてこられたんだ」
達也は祥子と航平を交互に見ながらぼやいた。
カウンターの反対側では、今度はメイが外国人客たちと話をしている。三人の背の高い白人の男たちだった。誰かがジョークを言ったのか、みな大きな声で笑いだした。三人とも高そうなスーツを着ている。航平が言っていた株か債券のトレーダーたちかもしれない。
「あら、だってたっちゃんのことだから、どうせとんでもないものを選ぶと思って心配だったの。まだ結婚一年も経ってないのに、いきなり離婚の危機になったら大変じゃない」
祥子は昔から兄である達也のことを『たっちゃん』と呼んでいる。小さい頃母や祖母が達也をそう呼んでいたからだ。
「こいつ、ほんとに変わってないだろ?」
達也は首の後ろをさすりながら、大げさに溜息をついてみせた。
「あらあ、航平さんはきれいになったって言ってくれたわよ。ね、航平さん?」
「ん、きれいになったよ」航平は胸の前で腕を組んで、何度か軽く頷く。
「中身はぜんぜん変わってないよ」
達也が口を挟むと、祥子はにやけた顔を向けてきた。
「あら、じゃあ、外見はきれいになったって認めるのね」
祥子は鼻にかかったような声を出しながらウェーブのある長い髪を手で肩の後ろにぱらっとやり、そして大きな目をぱちぱちさせる。達也は妹を無視してそっぽを向いた。
白人たちはカウンターを離れて左手奥にある黒い革張りのソファ席に移り、葉巻を吸いだした。メイは注文のドリンクを作っているらしい。
「祥子ちゃん、いつものでいいかい?」
航平のその言葉を聞いた達也は、すばやく祥子に顔を戻した。
「なんだよ、おまえ、いつものなんてあるのか?」
そしてまた大きく溜息をついてみせる。
「おまえさあ、あんまり航平の邪魔すんなよなあ」
「航平さん、たっちゃんにも同じもの、お願い」
航平にそう言ったあと、祥子は達也のほうに顔を向けて真面目な表情で言った。
「邪魔なんかしてないわよ。あたし、航平さんの顔見ると一日の疲れが癒されるの。航平さんのお店にも貢献してるのよ」
そしてまた航平に視線を戻して弾んだ声で話しかける。
「そうだ、航平さん。お母さんがとっても航平さんに会いたがってるの。ぜひ夕食に誘ってきてって言われてるんだけど、航平さん、どうかしら」
航平はカクテルグラスをふたつ手元に置き、シェイカーに何か入れている。
「俺はどうなんだよ。自分の息子より航平か?」
航平はにやりとした顔で達也を一瞬見てからシェイカーを振りだした。
「たっちゃんはいつでも来れるじゃない」
達也は口を尖らせたが、不意に香織のことを思い出した。
「そうだ、来週の日曜日はどうだ? 香織、その週末に友達と旅行に行くんだよ」
シェイカーをカクテルグラスに傾けながら航平は片眉を上げ、首を少し傾けて問うような表情で達也を見た。
「だから、俺も航平と一緒に行くよ。な、いいだろ? 航平」
「え? ああ、もちろん。・・和美さんの手料理、懐かしいな」
航平はふたりの前にカクテルをふたつ差しだした。グラスの飲み口の回りには塩らしきものがついている。
「じゃあ、決まり。お母さん、喜ぶわ」
祥子は胸の前で小さく手を叩いた。それから達也に向って得意げに言う。
「ちなみにたっちゃん、これマルガリータっていうのよ」
「知ってるよ、それくらい。えーと、確かテキーラとライムジュースと・・あと・・」
達也はそこで眉をぐっと寄せてから、助けを求めるようにちらっと航平に目をやる。すると航平は腕を組みながら、少し前屈みになってわざとらしく声を落とした。
「トリプル セック」
祥子がトイレに立つと、航平が急いた様子でカウンターの中から顔を近づけてきた。
「香織さん、旅行に行くのか?」
「そうなんだ。今度の土曜日会ったときに言おうと思ってたんだけど。来週の土曜日から月曜日まで。ほら、月曜日、祝日だろ? 高校時代の友達と北海道に行くんだ。・・・だからさあ、その間、・・おまえんとこに泊まってもいいか?」
達也が照れながら訊くと、航平は再び満面の笑みを見せて言った。
「あたりまえだろ」




