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二月下旬の月曜日の夕方、航平から電話があった。明日用事で新宿の達也の会社の近くに行くから、一緒に食事をしようという誘いだった。

達也は以前会社の同僚と行ったことのあるフランス料理の店を予約した。会社から歩いて十分ほどの、大通りから少し入った細い路地にあるこのレストランは、外装から内装まで白を基調にしたエレガントな造りで落ち着いた雰囲気の店だ。テーブル席が五つ、そしてカウンター席が八つほどあるだけで、二十人も入ればいっぱいになる。


達也が着いたときにはすでに殆どの席がうまっていた。先にテーブルについてウェイターにその日のランチの説明を受けていると、エントランスホールに航平が現れた。ダークグレーのズボンの上に黒いツーリングジャケットを着ている。

笑顔で近づいてくる航平を見て、達也の心臓は高鳴った。顔が火照るような気がした。

《まるで恋する乙女だな、俺》達也は心の中で自嘲した。

よう、と顎を一瞬上げてから、航平はジャケットを脱いで椅子の背に掛けた。ジャケットの下に現れた航平の姿を見て達也は目を丸くした。

「どうしたんだよ、その格好」

航平はジャケットの下にスーツを着ていた。ダークグレーのビジネススーツに糊の効いた白いワイシャツを着て、ワインレッドのネクタイをしている。そういえば今日は前髪を上げていた。

「なんだよ、おかしいか?」

目を見開いて自分を凝視している達也を見て、航平は向かい側の椅子に腰を下ろしながら少し照れたように口を尖らせて言った。

「え? あ、いや、あの、珍しいなと思ってさ、おまえがスーツ着てるなんて」

一瞬その姿に見とれていた達也はぎこちない笑顔で言い、咳払いをひとつしてから彼の前にメニューを置いた。

「新宿のサラリーマンに見えるか? 俺」

足を組んで背広の前襟を正しながら、航平は一方の眉を上げてにやりとした。

「それはちょっと無理があるなあ。おまえ、かっこよすぎるよ」

腕組みをして真面目な顔で達也が言うと、航平は一瞬面食らったような表情をした。それからふっと笑い、メニューに目を落としながらさりげなく言った。

「これから人に会わなくちゃいけないんだ」

先ほどウェイターから言われた今日のランチの内容を簡単に説明すると、航平は軽く頷いてからメニューを置き、ワインリストを手に取った。

「株か何かのトレーダー? おまえが会うのって」

「いや、奥村さんの依頼でね、ちょっと」

「へえ。じゃあ、美術品関係の?」

「まあ、そんなとこ」

ウェイターが注文を取りにくる。航平はサーロインステーキのセットランチと、達也が聞いたことがないような名前の赤ワインをグラスで注文した。

「今日はバイクじゃないのか?」

航平はバイクに乗るときは決してアルコールを口にしない。バーでもどんなに客に勧められても一滴も飲まないようだ。

「ああ、そうだけど。また乗るまでしばらく時間があるからな。・・近くの駐車場に停めてあるんだ」

そうか、と呟いてから達也はウェイターに、同じものを、と言った。

「おまえこそ大丈夫なのか? 仕事中だろ?」

「ワイン一杯くらい平気だよ」

達也がすまして言うと、航平は軽く笑った。そして足を組んだまま椅子の背にもたれ、ぐるりと視線を巡らせる。

「よく来るのか? ここ」

「いや、実を言うと一度しか来たことないんだ。いつもはだいたい社食」

「いい店だな」

赤ワインが運ばれてくる。ウェイターが航平にボトルを見せてからその場でワイングラスに注ぎ、それから達也と航平に交互に笑顔を向けてから去っていった。

ワイングラスをテーブルの上に置いたまま、航平はグラスの脚の部分を持って軽く揺すっている。そして匂いを嗅ぐようにグラスを鼻に近づけ、それからようやく口に運んだ。そういえば、グラスを回すことによってグラスの内側にワインが広がり、風味が引きだされる、というようなことを以前航平から聞いたことがあった。達也も真似をしてみたが、ワインの味はいまいちよくわからない。ワイングラスを持ったまま首を傾げていると、航平がにっこりと微笑みかけてきた。達也は釣られたように頬をほころばせる。

妙に照れてきたので、顔を伏せて咳払いをした。それから軽く息を吐き、もう一口ワインを飲んでから航平に視線を戻す。

「やっぱり、いずれは奥村さんの仕事、継ぐのか?」

航平は眉を上げて達也を見たが、何も言わず、ふっと笑いながら目を伏せた。

「ほんとは嫌なんだろ、おまえ」

少し身体を前に屈め、彼の顔を覗き込むようにしながら達也は言った。

「え?」さっと顔を上げ、航平は目をしばたたいた。

先ほどのウェイターがサラダとロールパンを運んできたので、すばやく身を起こした。航平はわずかに眉を寄せて、じっと達也を見ている。ウェイターが去ってから達也は再び口を開いた。

「ほんとはおまえ、絵画とか美術品になんか興味ないんだろ」

「知ってたのか?」航平は驚いたように目を見張った。

まあな、と簡潔に答えてから、パンをちぎって口に放り込み、そして達也は得意げに続けた。

「おまえはさあ、美術品に関してものすごく博識なんだけど、そういう話をしてるときのおまえって、なんかさあ、んー、ぜんぜん情熱が感じられないって言うか、・・・妙にさめてるって言うか、・・・皮肉っぽかったりもするしなあ」

呆気にとられたような表情で航平は何度か瞬きをしていたが、やがて頬を緩め、そして声をあげて笑いだした。その様子に達也は思わず眉をひそめる。

「そんなに変なこと言ったか? 俺」

「いや、・・ごめん、・・違うよ。・・ほんとのことだから・・おかしくなった」

航平は肩を揺らして笑いながら言う。それから咳払いをひとつし、笑みを残しながらちぎったパンにナイフでバターをつけてそれを口に入れた。

「奥村さんは知らないんだろ?」

「ん? ああ、そうだろうな」航平はワイングラスに手をかける。

「言わないのか?」達也は彼を見据えて言った。

「美術商の仕事なんか、ほんとはしたくないんだってか?」

皮肉っぽく鼻先で笑うようにそう言ってから、航平はワインを一口飲んだ。その口調はまるで、そんなことは論外だ、とでも言っているように聞こえた。

そこでメインのステーキが運ばれてくる。

「バーの仕事、楽しいか?」

ナイフとフォークを手に取りながら、達也はさりげなく問いかけてみた。

「ん? ああ、・・そうだな」

淡い笑みを浮かべ、航平は言葉を濁したように言う。彼の表情を窺いながら達也はさらに続けた。

「なあ、航平・・」

「ん?」

航平はナイフとフォークを使ってステーキを切っている。

「おまえが本当にしたいことって、何か他にあるのか?」

達也の問いに虚を突かれたかのように、航平は手を止めて顔を上げた。だがすぐにステーキに視線を戻し、薄い笑みを見せながらそっけなく言った。

「さあな。自分のしたいことなんて、だいぶ前に考えるのやめたよ」

一瞬考えてから達也はナイフとフォークを置き、そして真剣な目で彼を見つめた。

「どういうことだよ、それ」

達也は奇妙な思いにとらわれていた。ずっと昔に同じような印象を受けたことがあった。航平と奥村の関係。

《・・まさか、そんなこと。・・でも明らかに航平は奥村に対し、畏怖の念のようなものを抱いている。・・どうして・・》

航平は顔を上げ、驚いたような表情で達也を見てから、ふと我に返ったように顔を曇らせ、目を逸らしながらかぶりを振った。

「いや、なんでもない」

そして黙ったまま硬い表情で切ったステーキを口に入れた。

どこか腑に落ちないという思いで航平の顔をじっと見守っていると、航平はちらっと達也に視線を向けてからすぐに顔を伏せ、そして居心地悪そうに目を少し泳がせながらまたステーキを切り始めた。

航平のそんな様子に達也の胸がふと痛んだ。気が咎める思いで彼から目を逸らす。これ以上は追及するなと理性が訴えている。第一おまえはどうなんた、達也は心の中で自問した。厳格な父親に逆らえず、あれだけ好きだった絵をあきらめて、結局不本意な道に進んだんじゃないのか。

目を戻すと、航平はかすかに眉根を寄せたままちぎったパンにバターを塗っていた。達也はこの気まずい雰囲気を和ませるために話題を変えることにし、目を伏せてすばやく深呼吸をしてから改めて航平を見た。

「そういえばさあ、おまえ、まだ水泳やってんのか?」

達也の明るい声に、航平が顔を上げた。

「え? ああ、やってるよ。週二回くらいしか行ってないけどな」

「やっぱり四キロ泳いでるのか?」

「んー、まあ、そんなもんかな」その口元に笑みが戻っている。

「すごいよなあ。俺なんか、今じゃきっと五十メートルも泳げないと思うよ」

航平は笑ってワインを一口飲む。それから再びステーキにナイフを入れながら言った。

「おまえはどうしてボクシング始めたんだ?」

「え?」

達也は一瞬固まった。今度は達也がたじろぐ番だった。航平が顔を上げて不思議そうに達也を見る。

「どうしてって、その・・」

口ごもりながら、頬をぽりぽりと掻く。達也のそんな様子に航平は眉を上げたが、言いたくなかったら別にいいよ、とあっさりと引き下がり、そして切ったステーキを口に運んだ。

「いや、別にそういうわけじゃないけど、・・あの・・・」

達也はワインを喉に流し込んだ。航平はフォークにさしたサラダを口に入れている。

「俺が、ボクシングを始めたのは、・・その、・・・・おまえを忘れるためだったんだ」

最後のほうは一気に早口で言った。すると突然、サラダにむせたかのように航平は手の甲を口に当ててゴホゴホと咳をしだした。

「大丈夫か?」

「あっ、ゴホッ、ああ。ゴホッ、ご、ゴホッ、めん、ゴホッ・・」

航平はナプキンを手に取って口に当てた。こもった咳と共に彼の肩が上下する。テーブルの上に身を乗りだして達也は声をひそめた。

「そんなむせるほどのことじゃないだろ? あのとき四年前に始めたって言ったじゃないか。おまえと別れてすぐだよ」

それでも航平はナプキンで口を押さえながら、きょとんとしたような表情で達也を見ている。達也は溜息をついてから続けた。

「なんか打ち込めるものがほしかったんだ。限界まで自分の身体を痛めつけて、疲れきって、余計なこと考える気力もなくなるほど」

航平は瞬きを何度かした。それから大きな咳払いをひとつし、ワインを啜ってから、そうか、と小さく呟いた。

「でも、今は楽しんでやってるよ。ボクシング始めてよかったと思ってる。身体もだいぶ引き締まったしな」

手で腹の辺りをぽんぽんと叩いてみせると、航平は顔を近づけ、にやりとしながら言った。

「ああ、おまえ、震え上がるほどいい身体してるよ」

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