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電車を降り、左手で尻のポケットから定期を取りだしたとき、達也は薬指に結婚指輪がないことに気がついた。

《航平のところでシャワーを浴びたときだ。あのとき外してシンクの上の棚に置いたんだ!》

航平がまだ家にいることを願いながら、ホームから電話をした。

「もしもし、俺、達也。おまえ、まだ家にいる? ・・よかった。俺さあ、結婚指輪、おまえんとこのバスルームに忘れてきたみたいなんだ。・・・・・・・・・あった? よかった。これから仕事だよな。悪いけど持ってってくれないか? 俺今からおまえのバーに行くから。・・・ん、・・・ありがとう。じゃ」

達也は階段を下りて反対側のホームに走った。


バーを始めたのは奥村の指示だった、と航平は言った。といってもバーを経営しろと言われたわけではない。航平は、達也も名前を知っているニューヨークの一流大学に十七歳で入学し、美術史と経済を学んだ。そして卒業後は大学院(航平は『ビジネススクール』と呼んでいた)に進学し、二十三歳で経営学の修士学位を取得した。在学中奥村に、大学院を卒業したら自分で何か起業してみろ、業務内容、形態、場所などは一切問わない、と言われたそうだ。起業資金は奥村が出資し、航平はそれを決められた期間内に返済することになっている。奥村はやがて航平に自分の事業を継がせるつもりであり、そのためのビジネス経営修行のようなつもりなのだ、と航平は言っていた。バーの利益を株や債券などに投資運用しているそうだ。

なぜバーというビジネスを選んだのかは自分でもよくわからない。ただ、ニューヨークに住んでいるとき、バーを経営している男と交友があった。その男の影響かもしれない、と航平は言った。日本に来る前にその男に頼んで半年ほど彼のバーで働かせてもらい、そこでいろいろなことを学んだそうだ。


BarSOHOの入り口には『CLOSE』というサインが掛かっていた。重いドアを開けて中に入ると、航平が笑顔でカウンターから近づいてきた。つい数時間前に愛し合った男の笑顔は達也の胸は熱くさせる。思わず航平を抱きしめようと手を伸ばした瞬間、カウンターの奥にあるドアが開き、達也は反射的に航平から飛びのいた。

出てきたのは茶色いショートヘアの女だった。航平と同じ黒いシャツを着て、擦り切れたジーンズを穿いている。

「あら、もうお客さん?」

そう言いながらその女はカウンターを出て、達也に顔を向けた。細身で背はあまり高くはないが、目と口が大きく、その髪と合わせて存在感のある容貌だ。

ふと女が驚いたようにその細い眉を上げた。

「あら、あなた・・」

達也が首を傾げていると、メイ、来いよ、と航平が彼女に手招きをした。

「改めて紹介するよ。こいつは中川達也、俺の、恋人」

達也はその言葉に面食らい、あわてて航平を見た。航平は照れたような笑みを女に見せている。そしてその笑みを今度は達也に向けた。

「達也、彼女はヨネクラメイ。俺の右腕だ」

航平はメイという名のその女の肩に腕を回し、愛しそうにぎゅっと抱きしめた。

「航平、彼女、知ってるのか?」

あせった達也が航平に顔を近づけて小声で問いかけると、メイはそれを真似るかのように達也に顔を近づけながら声をひそめた。

「知ってるわよ。言っとくけど、航平じゃなくてあなたから聞いたのよ」

「俺から?」

困惑した達也は説明を求めて航平に視線を投げた。だが航平は片方の眉を上げてにやっとしただけで何も言わない。

「あなたが酔っ払って航平に殴りかかったとき、あたしもまだバーにいたの。それまでまったく知らなかったわ。航平とは付き合いが長かったっていうのにね」

メイは達也と航平を交互に見ながら真面目な顔で言い、それから航平の胸を軽く叩きながら続けた。

「次の日この人、すっごい遅刻してきたのよ。顔にものすごい痣作ってね。もうみんな大騒ぎだったわ」

メイ、と航平が真顔でメイの顔を覗くと、メイは眉と肩を同時に一瞬上げた。

「じゃ、あたしオフィスにいるから」

すました顔でそう言うと、メイはカウンターのほうに去っていった。

その後姿を呆然と見つめていた達也は、恐る恐る航平に視線を戻した。航平は眉を上げ、口元に笑みを浮かべて達也を見ている。

「航平、・・ごめん」

消え入りそうなか細い声で言うと、航平は笑いながら達也の腕をさすった。

「気にすんな。メイは特別なんだ。前からあいつには言おうと思ってた。これですっきりしたよ。それより、これ、取りにきたんだろ?」

航平はジーンズのポケットから指輪を取りだして達也に渡した。

「ありがとう」

「ん」

そしてにっこりと微笑むと、達也の頬にすばやくキスをした。

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