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翌週の土曜日、達也はボクシングのトレーニングのあと、二時近くに航平のマンションを訪れた。航平は玄関のドアを開けると、照れたような笑顔で達也を迎え入れた。冬だというのにスウェットパンツの上は黒いランニングシャツだ。筋肉のついた逞しい二の腕がむき出しになっている。
「何か飲むか?」
居間に入ると、航平が視線を逸らしたまま達也に頭だけ向けて訊いてきた。居間の中は暖房が効いていてとても暖かい。
「あ、ああ、じゃあ、コーヒーもらおうかな」
達也の声は少し震えていた。なぜか心臓が高鳴っている。達也は深呼吸をし、それからダウンジャケットとセーターを脱いで、スポーツバッグと一緒にソファの横に置いた。そのとき居間に飾ってあるジョン ホブスの絵に気がついた。先週ここに来たときにはこの絵のことはすっかり忘れていた。
《・・やっぱりすごいなあ、この色使い》
思わず絵に近づいていった。絵の中の若い女は、変わらずに憂いのある目で何かを見つめている。その美しい瞳を見つめながら、達也はここに初めて来た日のことを思い出していた。二十歳のあの日、この絵の前で航平と交わした熱い口付けが脳裏に蘇る。
《そして、そのあと・・》
「懐かしいだろ? その絵」
突然の航平の声に、達也ははっとして振り返った。航平は眉を少し寄せて首を傾げながらコーヒーの入ったマグカップを差しだしてきた。
「サンキュー。そうだな」
上ずった声でそう言いながら達也があわててカップを受け取ると、航平は達也を見つめながら口の両端を少し上げた。何か言うのかと思ったが、すぐに達也から顔を背け、自分のカップを持ってソファに腰を下ろした。達也は瞬きをしてから目だけを動かして航平の様子を窺った。彼の視線は手元のカップに向いている。
気持ちを落ち着かせるためにもう一度深呼吸をしてから達也はゆっくりと、そして少々ぎこちなく航平の隣に座った。
沈黙が流れる。
達也はコーヒーを一口飲んでから、航平に顔を向けた。
「あ、あのさあ、顔の傷はもう大丈夫か? 痛みは?」
「え? あ、ああ、もうすっかり腫れも痛みも引いた」
そう言うと、航平は視線を宙に泳がせながらカップを口に運んだ。
また沈黙。何となく気まずくなった達也は、軽く咳払いをしながら腰を少し動かした。すると突然航平が噴き出すように笑いだしたので、達也は驚いて彼を見た。
「なんか、俺たちさあ、緊張してないか? まるで、初めてのデートか何かみたいだ」
肩を揺らして笑いながら航平が言う。達也は硬くなっていた自分の身体が、一気にほぐれていくような気がした。
「そうだな。俺、すっごい緊張してた。なんでだろ」達也も笑った。
「あのあと大丈夫だったか? 香織さん」
だいぶリラックスした様子の航平が、ソファに身を沈めながら笑みの残った顔で言った。
ああ、と答えてから、達也はくっくと笑った。
「そういえばさあ、俺たち、昔、ひとりの女を争って喧嘩したんだってな」
「え?」
「香織にそう言ったんだろ? あの夜」
「ああ、そうだった」
航平は前髪をかき上げながら、照れたように笑った。
「なんか、それで説明がつくような気がしてな、俺たちの状況」
「おまえは大丈夫だったのか? あのあと仕事行ったのか?」
「ああ、まったく問題なし」
そうきっぱりと言ってから、航平は目を伏せてふっと笑い、それから淡い笑みを浮かべて達也を見た。
「メッセージ、うれしかったよ。あの日、おまえが残してくれたやつ」
そして再び目を伏せ、照れくさそうな笑顔で呟いた。
「俺も幸せだよ、・・すごく」
達也は無意識のうちに唇を寄せていた。航平が愛しかった。航平に触れたかった。航平が欲しかった。
ゆっくりと唇を離してから、航平は達也が持っていたコーヒーのマグカップを掴み、自分のそれと一緒にセンターテーブルの上に置いた。それから達也の手を握って囁いた。
「ベッドに行こう」
達也は小さく頷いた。




