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目を覚ましたとき、部屋の中は闇に覆われていた。まだ真夜中なのだろうか。のっそりとベッドサイドテーブルの上の時計に顔を向けてみたがデジタルの青い数字はなく、代わりに闇があるだけだった。

ぼんやりしながら上半身を起こすと、途端にひどい頭痛が襲ってきた。胃がむかついて、吐き気がする。達也は口元を手で押さえながら再び枕に頭をうずめた。

「香織・・」

しゃがれた声で妻の名を呼んでみた。だが隣のベッドからの返事はない。もう一度少し大きな声で呼んだが同じだった。首をゆっくりと左右に動かして周りを窺ってみたが、相変わらず部屋の中は異様なほど闇一色だ。

《ここは、俺の家じゃ・・ない?》

もう一度身体を起こし、うずく頭をさすりながら何とか手探りでベッドサイドランプを見つけ、スイッチを入れた。と同時にベッドの周りを淡い黄色の光が包み込み、部屋の様子が柔らかく浮かび上がった。

七畳ほどの洋間の中央に置かれたダブルベッドの上に達也はいた。達也から見て正面の壁は一面クロゼットのようだ。左手の壁側に濃い色の分厚そうなカーテンで覆われた窓がある。部屋の中は整然としていて、置かれた家具はベッドとその両側のベッドサイドキャビネット、そして左手の隅にある小振りの肘掛け椅子だけだ。そのとき達也は椅子の上に無造作に置かれた見覚えのある黒いジャケットに気がついた。

《・・航平?》

瞬きをしてからもう一度室内を見回した。カーテンも布団のカバーも達也が覚えているものとは違うが、確かに航平の部屋だった。

《どうして・・》

呆然としていると不意に右側の壁中央のドアが少し開き、その隙間から誰かが遠慮がちに顔を覗かせた。

「よう、起きたか。声が聞こえたような気がしたんだ」

航平の声だった。ドアを大きく開けて部屋に入り、航平はベッドの枕元に近づいてくる。そのときまた頭がうずきだし、思わず顔を伏せて片手で額を押さえた。

「これ、二日酔いに結構効くぜ。飲んでみろよ」

航平はベッドの横に立ち、手に持ったコップを差しだしてきた。白く濁った水の中で錠剤のようなものが溶けて泡を出している。

「ここ、おまえのマンションか。・・・俺、どうしてここに・・」

呻くようにそう言いながらそのコップから航平の顔に視線を移した。

その瞬間達也は目を剥いた。航平は眼鏡をかけていたがそれで驚いたのではなく、淡い照明の中でもはっきりとわかるほど彼の顔は左目の周りから口の端まで赤紫になって腫れていたからだ。

「ど、どうしたんだよ、その顔!」 

それには答えず、航平はコップを持ったまま無言でベッドの端に腰掛けた。そして眼鏡の奥から労わるような目を向けてくる。

「夕べ、俺のバーに来たことは覚えてるか?」

「え? い、いや。夕べは大学時代の友達と飲んでて、・・麻布のクラブで、・・それから、・・・そのあと、おまえのバーに行ったのか? ・・どうして・・」

再び顔を伏せ、達也は両手を額に当てた。夕べのことを思い出そうとしたが、頭がうずいて何も考えられない。

「このためだよ」

その言葉に顔を上げると、航平がにやりとしながら自分の顔を指差していた。

「俺を殴りに来たんだ。よっぽど憎まれてるらしいな、俺」

「それ、俺がやったのか?!」思わず達也の声が裏返る。

「バーが閉店してから来たんだよ、おまえ。二時くらいだったかな。ドアを開けるなりいきなり殴りかかってきた。やっぱりボクシングで鍛えたやつのパンチは違うよ」

信じられない思いで、ぽかんと口を開けながら達也は航平の顔の痣を凝視した。

「・・ぜんぜん覚えてない。ごめん。・・・・ちゃんと冷やしたか?」

「ああ、心配するな」航平はにっこりと微笑んだ。

そのまぶしい笑顔から目を逸らすように、俯きながらぼそりと呟く。

「あの、俺の服は・・」

達也はブリーフしか身に着けていなかった。

「クロゼットの中のハンガーに掛けてある。夕べ苦しそうだったから俺が脱がしたんだ。安心しろ、俺はリビングルームのソファで寝たから。・・これ、飲んでみろよ」

航平はコップを手元に近づけてくる。達也はそれを受け取り、一気に飲み干した。口の中に苦味が残って思わず顔を歪める。

「いい子だ。もう少し横になってろ。すぐに気分はよくなるよ。俺はリビングルームにいるから。起きたらこれ着ろよ」

ベッドの足元に置いてある白いタオル地のガウンを頭で指しながら言い、そして航平は達也から空のコップを受け取って部屋を出ていった。

再びベッドに横たわり、昨夜の記憶をたどってみたが、やはり麻布のクラブあたりで途切れてしまう。達也は手の甲を額に当てて目を閉じた。

《どうして俺はそんなことをしたんだろう。・・・確かに航平を憎んではいた。・・でも・・》


二十分ほど経った頃、本当に頭痛が和らいだような気がしてきた。ゆっくりと上半身を起こし、ベッドから足を下ろして思い切って立ち上がってみた。胃のむかつきもだいぶ治まったようだ。

航平が置いていったガウンを羽織り、ドアを少し開けて居間を覗くと、航平は革張りのソファの上に横になって頭を肘掛けの上に乗せ、顔にアイスパックのようなものを当てていた。眠っていたのか、達也に気づいた途端弾かれたように上体を起こし、足をソファから下ろしながらセンターテーブルの上から眼鏡を取り上げてかけた。そして、大丈夫か、と心配そうに問いかけてくる。

達也は航平の目が悪いことを知っている。というより、たった今思い出した。そういえばあの頃、たまにここに泊まった翌朝、航平はよく眼鏡をかけていた。洗面所でコンタクトをつけるためか、いつもその金縁の眼鏡が洗面台の上の棚に無造作に置かれていた。そこまで思い起こした瞬間胸が苦しくなって、思わず彼から目を背けた。

航平がソファから立ち上がったのがわかった。達也は自分の身体が強張るのを感じる。

「達也?」

「・・あ、ああ、・・大丈夫」

顔を戻して微笑んでみせたがその笑みがぎこちなかったのか、航平は眼鏡の奥で怪訝そうな、探るような表情をした。

「ほんと、大丈夫だ。・・だいぶましになったよ」

達也が笑みを広げると、航平はようやく安堵したように、よかった、と息を吐いた。近づいてくる気配はなさそうだ。

「シャワー浴びてこいよ。もっとすっきりするぜ」

「・・ん」

「俺の服、着るか? 部屋のクロゼットからなんでも出していいぜ」

「いや、いい。自分の服、着るから」

「そうか。タオルはバスルームに置いてある」

ドア枠に立ったまま小さく頷き、そして達也は部屋の中に戻ってクロゼットを開け、ドアの内側のフックに掛かっていた自分の服一式をハンガーごと持って浴室に向かった。


ダブルシンクの洗面台の前に立ち、大きな鏡に映った自分の顔を眺めた。癖のある髪はあちこちに立ち、瞼が少し腫れていて普段でかい目が一重のようになっている。鼻の下や顎にうっすらと生えた髭をぼんやりと見つめながら、再び昨夜のことを思い出そうとした。クラブで飲んでいたことは覚えている。吉田と達也の間に髪の長い女が座っていた。確かエミとかいう女だ。いや、ユミだったか。

《いつクラブを出たんだったろう。・・どうやって航平のバーに・・・》

『達也・・』

不意に低い声が耳元に響き、思わずドアのほうに顔を向けた。だが達也にはそれが今の航平の声でないことはわかっていた。深呼吸をしてから鏡に顔を戻す。

《でも、ほんとにどうして・・》

『・・おまえを好きでたまらない・・』

頭を振りながら達也は鏡から顔を背けた。

『・・愛してる、・・達也・・』

そしてガウンとブリーフを急いで脱ぎ、奥にある曇りガラスのドアを開けた。


シャワーを浴びると、航平の言うとおり頭がいくらかすっきりしてきた。それでも夕べのことはあまり思い出せない。

航平が用意してくれた使い捨てのシェーバーで髭を剃り、備え付けのドライヤーで髪を軽く乾かした。スーツのズボンとYシャツを着ると、酒とタバコの臭いがして一瞬気持ちが悪くなった。


ガラス戸を開けると、航平がキッチンに立っていた。何か料理をしているようだった。

「もうすぐ昼だからさあ、腹減ったろ? 今、昼飯作ってるから食べていけよ。今日はもうボクシング行かないだろ?」

手元に目を向けたまま、明るく声をかけてくる。

「昼?! そうだ、香織! 連絡しなきゃ!」

携帯を探して手に持った背広のポケットをまさぐっていると、夕べ俺が話したよ、と言う航平の声が聞こえてきた。

「え?」

驚いて航平に目をやると、彼は手を休めずに顔だけ向けてきた。

「おまえの携帯電話が何度か鳴ってたから、多分香織さんだろうと思って出たんだ。おまえは飲みつぶれて俺のところに泊まるから心配ないって言っておいた」

「・・そうか。・・ありがとう」

ダイニングに回って持っていた背広とネクタイを椅子の背もたれに掛け、そして達也はその椅子に腰を下ろした。

「殴ったこと、ほんとに悪かった。・・俺、なんでそんなことしたのか、まったくわからない。・・ほんと、ごめん」

再び手元に視線を戻していた航平の横顔に向かって力なく呟く。

航平はしばし無言で手を動かしていたが、やがてコンロの火を止め、そして達也のほうに向き直った。

「別に謝る必要なんてない」

キッチンカウンターの向こう側から優しく微笑みながら自分を見つめる航平に、不意に何か胸騒ぎを覚えた。言いようのない不安な思いにとらわれ、達也の心は激しく動揺した。

「俺、帰るよ。昼飯は遠慮する。・・まだちょっと、胃がむかついて・・」

立ち上がってすばやく背広に腕を通し、ネクタイをポケットに突っ込む。

「顔よく冷やしとけよ。じゃあ」

航平のほうを見ずにそう言いながら足早にキッチンを横切り、そしてガラス戸のドアノブに手をかけた。

「夕べおまえ、俺のことを愛してるって言ってた」

背後からの航平の言葉に、達也の身体は凍りついた。

「俺を殴ってから、・・おまえも、俺のことがずっと好きだったって」

全身に鳥肌が立つのを感じた。ドアノブを握った手が震えてくる。

《・・ちがう、・・・そんなはずない。・・・うそだ、・・俺は・・・俺は・・・ちがう、・・ちがう・・・ちがう・・・》

「達也・・」

何か言わなければ、何とかこの場を繕わなければとあせるが、言葉が出てこなかった。

「・・達也、・・おまえ・・」

背後で航平が動く気配がした。その瞬間達也の口から震える声がこぼれだす。

「俺・・・俺・・・・け、結婚してるんだ。・・香織を大切に思ってる。裏切ることはできない。・・・香織と別れるなんて・・・・できない・・・できない・・」

自分の言葉に達也は愕然とした。それは航平への愛を否定するものではなかった。

《・・そんな、・・ちがう・・ちがう・・俺は・・》

そのとき突然背後から強く抱きしめられ、達也は息を呑んだ。航平の絞り出すような掠れた声が耳元に響いてくる。

「俺はかまわない、おまえが結婚してたって。・・こうやっておまえとの時間を持てるだけで俺はうれしい。・・・達也、頼むから俺を愛してるって言ってくれ!」

意識が遠のいていくような気がした。正気を失ってしまいそうだった。達也は目をきつく閉じながら、垂れた頭を激しく振った。すると航平は達也の両腕を掴んで自分のほうに向かせてすばやく眼鏡を外し、透かさず唇を重ねてくる。反射的に顔を背け、航平の身体を押しのけようとしたが、航平は達也の腕を離さなかった。

「航平・・だめだ・・頼むから・・やめてくれ」

顔を伏せ、達也は呻くように懇願した。自分がおかしくなりそうで心底怖かった。だが航平は眼鏡をキッチンカウンターの上に放り投げ、両手で達也の頭をがっしりと包んで再び唇を押しつけてきた。航平の舌が達也の口の中に割り入ってくる。達也の唇を吸いながら、航平は荒い息で何度も囁く。

「達也・・愛してる・・愛してる・・」

達也の中で何かがはじけた。必死につなぎ止めようとしていた理性が、そのとき完全に吹き飛んだ。達也の腕は航平の背中に回り、彼の身体を激しくまさぐっていた。

「航平・・愛してる・・俺も・・愛してる・・」

航平の身体が一瞬強張ったのを感じた。それから安堵のような溜息と共に、愛してる、と言葉を吐き出し、航平は再び達也の唇を荒々しくむさぼり始めた。そうしながら達也を自分の部屋へと引っ張っていく。身体の奥に火がついたかのように達也の全身は熱く滾り、呼吸は激しく乱れだした。航平は部屋のドアを乱暴に開け、ベッドに近づきながらもどかしげに達也の服を剥ぎ取った。達也も夢中で航平のTシャツとスウェットパンツを脱がす。

そしてふたりは絡み合うようにベッドに倒れこんだ。

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