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達也が香織と結婚して七ヵ月が過ぎた。達也たち夫婦は今、香織の実家に近い両国に住んでいる。駅から歩いて五分ほどの二LDKの賃貸マンションだ。
三年は子供を作らずに働きたいという香織の望みを達也は尊重した。香織は丸の内にある都市銀行で働いていた。忙しいふたりだが、毎日遅くても夕食は一緒に食べるようにしている。今でも週に二度は香織を抱いた。
あれ以来航平からの連絡はない。頻繁に航平のバーに行っているらしい祥子は、たまに実家で会うたびに、航平さんがああだ、航平さんがこうだ、と話してくる。そんなとき達也は適当に相槌を打ちながら、話の内容は意識して聞かないようにしていた。
一月中旬のある晴れた金曜日、新宿で開催されている美術展を訪れた。達也は宮田と別れてから自分ではまったく絵を描いていない。絵を描くこと自体が過去の記憶を蘇らせそうで怖かったからだ。しかし絵画への興味は捨てられず、今でもたまに美術展などに行っている。休みの日、香織と一緒に行くことが多かったが、この美術展は達也の会社の近くだったので、初日の今日、昼休みを利用してひとりでやって来た。
それはフランスの近代画家の作品展だった。不思議な画家だ、達也は思った。風景や静物が主体だが、鮮やかな色彩の力強い画風の作品もあれば、暗い色調の、構図も色彩もそして筆の動きもまったく違う作品もある。
ふと視線を感じた。作品を見つめていた視角の端に映っていた人物だ。達也がそちらに顔を向けると同時にその男は身体の向きを変え、反対方向に歩みだした。
「航平!」
視界の端にぼんやりとその姿を捉えていたときから、作品に目をやりながらも自分はなぜか頭の片隅で航平のことを考えていたのだ、と達也はその瞬間自覚していた。だがそれは達也に怒りや悲しみの感情を与えはしなかった。ただ穏やかにひとつの記憶として達也の脳裏に現れた。もうそのことに対して何も感じなかった。航平を認識した瞬間そう悟った達也は、無意識のうちに彼の名を呼んでいた。
びくっとしたように立ち止まり、少し間を置いてから航平はゆっくりと身体ごと振り返った。そして達也に向って片手と口の両端を一瞬上げたが、それでも近づこうとはせず、ばつが悪そうに目を伏せて前髪をかき上げる。
「やあ、どうしてここに?」
そう問いかけながら達也は彼に歩み寄っていた。
航平は黒いジーンズに黒革のショートブーツ、そして白っぽいボタンダウンのシャツの上に紺色のVネックのセーターを着て、その上にブルーのニットのマフラーをゆるく巻いていた。開いた襟元にはシルバーのネックレスが見える。手には黒い厚手のレザージャケットを持っていた。前に会ったときよりもだいぶ髪が長くなっていたが、前髪を真ん中で分けて全体的に軽く後ろに流したその髪型は航平によく似合っていた。
「偶然だよ。本当だ。本当に偶然なんだ」
顔を強張らせながら航平があわてたように言うので、達也は笑った。
「わかってるよ、そんなこと」
明るく言う達也を見て航平は眉を寄せながら首を傾けたが、やがて軽く深呼吸をしてからようやく笑みを見せた。
「平日の昼間に、どうしてサラリーマンのおまえがこんなところに?」
「どうしても見たくてさ。会社の帰りじゃ時間がないからな。俺の職場、近くなんだ。おまえこそどうして。美術展なんてほんとは興味ないんだろ?」
「親父の命令」
真面目に言う航平に、達也は思わず声をあげて笑った。
「相変わらず奥村さんには逆らえないんだな」
「まあな」
航平は照れくさそうな笑顔で足元に視線を落としてから、再び顔を上げて達也を見た。
「結婚式の二次会、行けなくて悪かったな」
「祥子が勝手に招待したんだ。俺は関係ない。・・あいつ、おまえのバーにしょっちゅう行ってるんだろ?」
「ああ。・・きれいになったな、祥子ちゃん。最初バーに来たとき、正直わからなかったよ」
「でも性格は変わってないだろ? 相変わらずおしゃべりで生意気で」
達也の言葉に航平はにやっとしたが、肯定も否定もしなかった。
「そういえばおまえの誕生日、来週だったよな。・・二十六か。ちょっと早いけど、誕生日おめでとう」
達也が笑顔で言うと、航平は一瞬面食らったような表情をした。だが次の瞬間、顔いっぱいに笑みを広げて言った。
「ありがとう」
《俺はもう大丈夫だ、この笑顔を見ても》
達也はどこかさっぱりとした思いで笑みを返し、それから腕時計に目を落とした。
「あ、もう俺、会社に戻らないと」
「あ、ああ」
「じゃあな」
そして達也は出口に向かった。




