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リングの上で無心になって相手に向かっていた。達也がすばやいストレートを決めると、そこでゴングが鳴った。
「中川さんのストレートはやっぱり違うな」
スパーリングの相手をしていた大学生の佐野がヘッドガードを外しながら言った。
達也は大学三年になってすぐにボクシングを始めた。航平と別れたあと、達也は心身ともに最悪の状態にいた。何をする気力もなかった。夜も眠れない日が続いた。航平のことを思い出しては胸が張り裂けそうなほど傷ついた。髪を掻きむしるほどの憎しみに駆られた。淫らな欲望に身体が支配されることもあった。達也はそんな一切の思いを打ち払いたかった。そんなときたまたまテレビでボクシングを観て、これだと思った。早速大学に近いボクシングジムを探して、すぐに入会した。大学の合間に毎日のように通い、汗だくになって疲れ果て、頭が真っ白になるまでトレーニングに没頭した。静岡にいるときもジムを探し、ボクシングを続けた。東京に戻ってからはまた以前通っていたこのジムに入会し、現在は土曜日の午後二時間ほどトレーニングをしている。
リングを下りてヘッドガードを外し、グローブの紐を口にくわえた瞬間、今一番避けたかった男の声が聞こえてきた。
「達也」
全身が硬直した。達也は顔を向けなかった。だが背の高いそのシルエットは達也の視界の端に映っていた。
「今朝、おまえの家に電話したら祥子ちゃんが出てさあ、おまえは多分ここにいるだろうって教えてくれた」
まるで旧知の友に話しかけるような、屈託のない、軽やかな声だった。
達也は視線をグローブに落としたまま、無言でそれを外し始めた。航平も黙っている。達也の反応を待っているのだろう。
やがて軽く息を吐く気配があり、航平の声が続いた。
「達也、少し、時間くれないか?」今度は窺うような、慎重な口調だった。
達也は深い溜息をついた。そして目線を落としたまま、頭をわずかに航平のほうに向けて低い声で言った。
「隣の喫茶店で待っててくれ。十分で行く」
シャワーを浴び、身支度を済ませてから喫茶店に向かった。ジムの外に黒いボディの大型バイクが停めてあった。航平のバイクだ。
あいつが何を言うつもりか知らないが、自分の言うことは決まっている。はっきりとあいつに言うんだ。達也はスポーツバッグの持ち手を強く握りしめた。
喫茶店に入ると、近寄ってきた若いウェイトレスを無視して奥の席からこちらに手を上げている航平のところまでまっすぐ歩き、そして向かい側の椅子に腰を下ろした。
土曜日の日中だがその喫茶店は空いていて、達也たちの他には若いカップルが窓際の席にいるだけだ。大学のときからあったはずだが、達也がここに入ったのは初めてだった。
航平の前にはコーラの入ったコップが置かれていた。先ほどのウェイトレスがすぐに注文を取りに来たが、すぐ帰るから、とそっけなく言った。
達也は束の間テーブルの上で組んだ自分の両手に視線を向けていたが、やがてゆっくりとその視線を目の前に座っている男の顔に移した。
バーでは気づかなかったが、今の航平の髪は黒かった。全体的に短めで、前髪が額に下がっているので四年前より少し若く見えた。テーブルの上に置かれた右手には、白い長袖Tシャツの袖の端から黒い文字盤のシルバーの腕時計が見えている。達也はその時計を覚えていた。二十歳の誕生日に奥村からもらったというスイス製の高級腕時計だ。
達也の視線を捉えた航平はコーラをすばやく一口飲み、それからぎこちない笑顔を見せて口を開いた。
「ボクシングやってたんだな。長いのか?」
「四年」達也は航平の目を見据えながらぶっきらぼうに答えた。
「四年、・・そうか」
航平の視線はわずかな間どこか宙をさまよい、やがてテーブルの上に落ちた。その顔から笑みは消えていた。航平は目を伏せたまま軽く息を吐き、そしてつと顔を上げた。
「達也、俺、もう一度ちゃんと謝りたかった、あのときのこと。・・俺・・」
「航平!」
達也が航平の言葉をさえぎると航平は驚いたような真剣な目を向け、達也の言葉を待つかのように口をつぐんだ。
「俺、おまえや宮田さんとのことはもう忘れた。俺たちの間には何もなかった。俺はおまえとはなんの関係もない。だから俺に謝る必要もない」
達也は強い語気で一気に言い放った。それから視線をまた自分の手元に落とし、呼吸を整えてから少し口調を弱めて続けた。
「俺、来月結婚するんだよ。・・だから、もう二度と俺に連絡しないでくれないか。・・二度と俺の前に現れないでほしい。頼むよ。・・このとおりだ」
達也は両手を膝の上に置いて椅子に座ったまま深く頭を下げ、そしてもう一度言った。
「頼む!」
ゆっくりと顔を上げると、眉をわずかに寄せて自分を見つめる航平の端正な顔があった。見開かれた目の中で、その瞳が細かく揺れている。航平はしばし黙ったままそうやって達也を見つめていたが、やがてゆっくりと目を伏せた。そして口元にかすかな笑みを滲ませて軽く頷いてから、口の中で呟くように小さく言った。
「わかった。・・・おまえがそう望むなら・・・そうする」
航平は再び黙った。
安堵の溜息をついてから、達也は床に置いたスポーツバッグに手をかけた。
「俺、もう行くよ」
航平から目を逸らしたまま立ち上がり、出口に向かって足を踏みだす。
「達也!」
思わぬ明るい声に振り向くと、航平の笑顔がそこにあった。
胸を鷲掴みにされるような思いに襲われ、軽い眩暈を感じた。思わず顔を背けそうになる自分を必死に制し、達也はまっすぐに航平を見つめ返した。すると航平は笑みを広げて言った。
「幸せにな」




