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「香織!」

駅の階段を駆け上がってくる達也に気づくと、ベージュのスプリングコートを着た香織が笑顔で手を振った。

「ごめん、待たせて。帰り際に電話が入ってさあ」

息を切らしながら言い訳すると、香織はにっこりと微笑んだ。

「いいわよ。さ、行きましょ」

そう言いながら腕を絡ませてくる。達也は持っていた傘をふたりの上で広げた。

四月半ばだというのに、昨日までの春日和が嘘のように今日は気温がぐんと下がった。朝からの曇り空は夕方になって雨に変わった。それでも金曜日の六本木の夜は人で溢れていた。


あれから四年。達也は大学を卒業して、大手の損害保険会社に就職した。入社後二年間は静岡の支社で法人営業の仕事をしていた。

昨年のゴールデンウィークに帰省していたとき、達也は大学時代のテニス部の同窓会に参加をした。その際みんなでメールアドレスを交換しあったのだが、その翌日に一年後輩の沢木香織からメールが来た。達也が観たいと言っていた映画への誘いだった。

達也はテニス部時代の香織をよく覚えていた。ストレートの長い黒髪がよく似合う色白の美人で、女優の誰それに似ていると男たちに人気があったからだ。久しぶりに会った香織は相変わらず美しかったが、健康的によく日焼けして、どこか垢抜けた感じだった。たまたま彼女は達也の斜め前に座っていて、その周りの連中も交えて当たり障りのない会話をしただけだったので、香織からメールが来たとき、正直達也は驚いた。

映画のあとふたりで食事をした。ワインの酔いのせいもあってか香織は饒舌だった。瞳を輝かせていきいきと、そのくせときにはちょっと恥らったように話す香織は愛らしく、そして魅力的だった。そのあと行ったショットバーで、香織はアルコールで染まった頬をいっそう赤くして、あなたのことがずっと好きだった、と言った。

遠距離交際だったが、ふたりは頻繁にメールや電話をしあい、そしてお互いの都合がつく限り会ってデートをした。そうして半年が過ぎた頃、達也は香織との結婚を決意した。だから結婚を申し込み、お互いの親とも会った。結婚式は五月の最終土曜日の予定だ。

当初香織は仕事を辞めて静岡の達也のもとに来る予定だったが、運良くこの四月から達也が本社の法人営業部門に転勤になったので、香織はそのまま仕事を続けることになった。


「レストランは七時半の予約なの。でも、その前にちょっとだけ友達に会ってもらってもいいかしら」

「友達?」

「高校からの親友なの。今夜のレストランの近くのバーに行くって言ってたから、それなら少し寄るわって言っちゃったの。三十分だけ、ね?」

香織は腕を絡ませたまま両手を合わせ、乞うような笑顔で達也を見上げた。肩まで伸ばした艶のあるストレートの黒髪が風に揺れている。

「ああ、いいよ」

「ナツミっていうんだけど、その友達。彼女、そのバーのバーテンダーに夢中なの。すっごくかっこいいんですって」

香織は達也の肩に頭をもたらせながら言った。


その店は六本木の駅から少し歩いた西麻布に近い、一見何の変哲もない六階建ての雑居ビルの地下にあった。ビルの入り口を入ってすぐ右手にエレベータがあり、そしてその奥に階段がある。狭い階段を下りていくと、その奥に何の変哲もない灰色のスチールのドアがあった。そのドアに車のナンバープレートのようなものが貼ってある。BarSOHOとなっていた。ドアの前に立ったが、しんと静まり返っている。本当にバーなのか。香織に顔を向けて眉を寄せてみると、彼女はふふっと笑いながらドアノブに手をかけた。

それは意外と重厚な造りのドアだった。開けた瞬間音楽や人の話し声、笑い声がどっと聞こえてきた。まだ七時なのに結構客が入っているようだ。こういうのを隠れ家的バーとでも言うんだろうか、達也は店内を見渡しながら思った。

床も壁もコンクリートがそのまま使用され、天井にはいろいろなパイプがむき出しになっている。正面のフロアには座り心地のよさそうな肘掛け椅子に囲まれたテーブルが十組ほどあり、左手は一段上がったフロアになっていて、囲われた壁と黒いパイプの手すりに沿って赤茶っぽい半円の革張りのソファがいくつか造りつけられ、それぞれに円形のテーブルとスツールが置かれている。右手には緩いカーブを描いた大きなカウンターがあり、中では黒っぽいシャツを着た男女のバーテンダーがそれぞれ何かを作っているようだった。カウンターにはスツールは置かれていないようで、何人かの客が立ったまま飲んでいる。よく見ると、カウンターの左手の奥まったところにも席があった。二十人くらいは座れそうな黒い革張りのソファ席だ。カウンターの右手のほうにはダーツやピンボールマシーンなどが置かれ、若い男女のグループが遊んでいた。


「香織!」

カウンターの近くにいる女がこちらに手を振っていた。香織が達也の腕を引っ張ってそちらのほうに連れていく。

「ナツミ、久しぶり。元気だった?!」

「元気よ! もしかしてこの人?」

「そう、こちらが中川達也さん。達也さん、彼女が友達の、シマムラナツミ」

胸の開いた細身の赤い膝上のワンピースを着たその女は、長いストレートの茶色い髪を手で肩の後ろにやりながら微笑んだ。

「はじめまして。香織からお噂は聞いていました。こーんなにかっこいいなんて、香織はラッキーだわあ」

達也は返事に困り、よろしく、とだけ言った。

「達也・・」

突然自分の名が耳に入り、反射的に声のほうに顔を向けた。

それはカウンターの中にいた背の高い、男のほうのバーテンダーだった。その端正な顔には見覚えがあった。・・見覚えどころではない。達也には一瞬でそれが誰であるかわかっていた。いや、『達也』という、その少し掠れた低い声を聞いたときから・・・

《・・こう・・へい・・》

次の瞬間、まるで思考がこの男のことをシャットアウトしようとしているかのように頭が空白になった。達也は目を見開いたまま、ただ呆然と立ちすくんでいた。

航平もしばらく驚いたような表情で達也を見つめていたが、やがてふっと頬を緩めた。

「久し振りだな」

「えー?! 航平さんと中川さんて知り合いだったの?!」

ナツミが達也と航平を交互に見ながら興奮気味に言ったが、達也には聞こえてなかった。

「元気そうだな、達也」

航平は懐かしそうに言いながら、にっこりと微笑んできた。

その笑顔が閉じ込めていた達也の記憶を鮮やかに蘇らせた。顔が引きつり、身体が凍りついた。心臓の鼓動が激しくなって、息が苦しくなってくる。

「達也さん?」

その声ではっと我に返った。香織が心配そうに達也の顔を覗いている。香織に動揺を知られてはならない。

「あ、ああ。・・・日本に帰ってたんだな。ここ、おまえのバーなのか」

何とか言葉を絞り出したが、声が震えているのが自分でもわかった。

「ああ。オープンして半年になる。・・結婚、するのか?」

「え?」

「彼女がさあ」と言って航平はナツミのほうに頭を少し動かした。「友達が婚約者連れてくるって言ってたんだ。おまえだったんだな」

「・・そう、みたいだな」

笑い顔を作ったつもりだったが、頬が強張っているように感じた。

そのとき、航平さん、お願いしまーす、とアルバイトらしい若い男がカウンターの反対側から航平を呼んだので、ちょっとごめん、と言って航平はそちらに足を向けた。


怪訝そうに自分を見つめる香織に、「昔ちょっと、知り合いだったんだ。でもあいつがニューヨークに帰ってからそれきりだった」と早口に説明した。

ナツミと三人でカウンターの近くのテーブルにつくと、同じ黒いシャツを着てジーンズを穿いた大学生風の女の子が達也たちのテーブルに来て注文をとった。ナツミと香織はカクテルを、そして達也はビールをそれぞれ一杯ずつ飲んだ。カウンターから航平の視線を感じるような気がして、達也は落ち着かなかった。ナツミは航平のことをいろいろ訊いてきたが、親しかったわけじゃないからよく知らない、とだけ答えた。

二十分ほどして、じゃあ、行きましょうか、と香織が言ったときはほっとした。カウンターに目を向けず、達也はそのままカウンターの端にあるレジに向かった。航平がレジに来るのではないかと内心恐れたが、対応したのは先ほどの若い男だった。

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