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その二日後、達也はある決意を胸に宮田に会いに行った。宮田のアトリエは吉祥寺の自宅の車庫を改築した部屋だった。外部から直接アトリエに入れるように車庫の横手にドアが付いている。アトリエの中は外から窺えるよりも広く、トイレと簡単なキッチンが設備され、壁際に大きなベージュの革のソファが置かれている。宮田が達也を抱くのは大抵このソファの上だった。家の中に通じるドアもあるが、妻の佐和子は絶対にこのアトリエには入ってこない、と宮田は言っていた。達也はアトリエの合鍵をひとつ宮田から預かっている。ここに入るときに宮田の邪魔をしないためだった。
鍵を開けて静かにアトリエの中に入ると、宮田はソファに座ってコーヒーを飲んでいた。クラッシクのピアノの曲が静かに流れている。
「やあ、今日は早いんだな」
達也に気づいた宮田は微笑みながらコーヒーカップをテーブルの上に置き、そしてソファの背にもたれた。
「そうか、今は春休みだっけね」
達也が黙ったままドアのそばに突っ立ていると、宮田は微笑んだまま首を傾げた。
「どうした? 座れよ。・・コーヒー飲むかい?」
「あ、いえ、結構です」
緊張して声が震えてしまう。少し気持ちを落ち着かせてから達也は再び口を開いた。
「あの、ちょっと、いいですか?」
「うん、なんだろう。・・とにかく座ったらどうだい?」
目を伏せたまま宮田の向かいの籐編みの肘掛け椅子に歩み寄り、白いクッションの上にゆっくりと腰を下ろす。
また心臓が高鳴ってきた。掌に汗が滲んでくる。宮田はどんな反応をするだろうか。宮田に気づかれないように唾を飲み込んでから軽く息を吐き出した。そして膝の上で両手を拳に握り、意を決して達也は宮田に顔を向けた。宮田は怪訝そうな表情でじっと達也を見つめている。
「俺、好きな人がいます」
宮田の片方の眉がわずかに上がった。達也は宮田から目を逸らさずに続けた。
「俺、宮田さんの絵が好きで、もっともっといろんなことを教わりたい。・・でも・・」
そこまで言って自分の拳に視線を落とした。
「・・でも、宮田さんと寝るのは、もうやめたいんです。・・・勝手なこと言ってるって思うかもしれないけど。・・・・もしそれがだめなら、俺、宮田さんの弟子をやめる覚悟できてます」
最後の言葉と共に達也は再び顔を上げた。
宮田は顎を少し上げて、その切れ長の目をかすかに細めた。頬が強張っているようにも見えた。達也から顔を背けて咳払いをひとつしてからソファに浅く前屈みに座り直し、そして宮田は再び達也に顔を向けた。その表情はいつもの穏やかなものに戻っていた。
「大学の友達? その好きな人って」
「いいえ」
「女?」
一瞬躊躇してから達也は、いいえ、と小さく答えた。
「そうか」
宮田は目を伏せた。そして眉を寄せる。何か考えているようだった。達也が緊張しながらその様子を見守っていると、宮田はつと顔を上げた。そして再びまっすぐ達也を見据えて口を開いた。
「その人って、もしかして僕の知っている人かな」
「え?」
思いがけない質問に達也はたじろいだ。
「僕の知っている人?」
「あ、あの、それは・・」口ごもりながら目を伏せる。
「僕には知る権利があると思うけどな」
宮田の強い視線を感じたが、達也は顔を上げなかった。
「すみません。それは言えません」
航平の名を言えば、宮田にはそれが奥村貴之の息子だとわかってしまうだろう。航平のためにそれだけは避けなければならない。
宮田はしばし無言だったが、やがて軽く息を吐いてから穏やかな声で言った。
「少し考えさせてくれないか。連絡するよ」
すばやく立ち上がって宮田に深く頭を下げ、そして達也はアトリエをあとにした。




