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この作品には15歳未満の方にはふさわしくない表現が含まれています。

また、同性愛を扱っていますので、苦手な方はご注意ください。

人いきれと慣れないネクタイのせいか、眩暈が起きそうになって足元が少しふらついた。ぎゅっと目を閉じて頭を軽く振ってみたが、頭の芯はくらくらしたままだ。緊張しながら空きっ腹に流し込んだワインもいけなかったのだろう。

達也は結び目の上に人差し指を突っ込んで、ネクタイを少し緩めた。それから大きく深呼吸をし、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。

「達也、大丈夫か?」

目を上げると、落ち着いたグレーのスーツを上品に着こなした宮田真治が、達也の顔を心配そうに覗き込んでいた。達也が宮田のスーツ姿を見るのは今回が二度目だ。一度目は半年前、彼に初めて会ったときだった。光沢のある黒いイブニングドレスを身にまとった宮田の妻佐和子は、少し離れたところでシャンパングラスを片手に、知り合いらしいカップルと談笑している。 

「すみません。ネクタイがちょっと苦しくて」

「少しどこかに座ったらどうだい?」

宮田はそう言いながら達也の背を優しくさすった。

そこで、今夜のパーティの主催者である奥村貴之のスピーチが始まった。高級そうな三つ揃えのスーツを身に着けた奥村は、少し白髪かかった髪をオールバックにし、鼻の下から顎にかけて短いグレイの髭を貯えている。六十を過ぎていると聞いているが、背が高く、所作がどこか優雅で年齢よりも若く見える。腹の底から響いてくるような太くて低い声をしていた。

「俺、ちょっと外に出てきます」

宮田にそう告げ、達也はたくさんの着飾った人々の波を縫うように会場の出口へと向かった。


奥村貴之はニューヨークを拠点とする美術商であり、絵画だけでなくいろいろな美術品を取り扱っている。美術品の転売のほか、自らもニューヨークにギャラリーを所有し、有望な美術家たちの育成にも携わっている、と宮田が言っていた。かくいう宮田も、過去にニューヨークの奥村のギャラリーで個展を開いたことがあった。

都心の一流ホテルの宴会場で開かれているこのパーティは、美術家や画商、また顧客たちの親睦を深めるためのものであり、パーティ会場の壁一面、いろいろな作品が展示されていた。


宴会場ロビーのソファに腰掛け、達也はしばらくの間頭を垂れて目を閉じていた。宮田に頼んでこのパーティに連れて来てもらったことを少し後悔していた。親が成人式のために誂えたスーツを勇んで着込んできたが、自分が場違いな存在であると痛感していた。ジャケットの袖の裾を少し上げて腕時計を見ると、八時を少し過ぎたところだった。

何度かゆっくりと深呼吸をしてから思い切って立ち上がった。だがパーティ会場には戻らずにエレベータで一階に下り、豪華なメインロビーを横切って表に出た。

新しい年が明けた二度目の日曜日、日中は雲ひとつない晴天で、春先のような暖かさだったが、日が落ちてから気温はぐんと下がった。夜の空気は肌に刺すように冷たい。だが火照った頬には気持ちよかった。達也は寒気を思い切り吸い込み、そして煙のような太くて白い息を吐き出した。


パーティ会場の重厚なドアを開けると、どっとどよめきが押し寄せてくる。達也は頭を軽く振ってから、宮田を探して辺りを見渡しながら奥に進んだ。会場内は宴たけなわといった感じで、程よく酔った人々の大きな話し声や笑い声があちこちから聞こえてくる。

やがて人込みの向こうに、先ほどスピーチをしていた奥村貴之らしき人物と一緒にいる宮田夫妻を見つけた。何やら話し込んでいる様子だった。一瞬ためらったが、達也はそのまま展示作品のほうへと足を運んだ。


そこには三十点ほどの絵画が点々と展示されていた。素材も技法も、そして画家の国籍も様々だったが、すべて現代画家による、いわゆる、コンテンポラリーアートだ。

ある作品の前で達也はふと足を止めた。それは一メートル四方ほどの大きさの油絵で、抽象的な風景画だった。タイトルは『暁』となっている。達也は吸い寄せられるようにその作品に顔を近づけた。

《・・なんて大胆な色の使い方なんだ》

「いい作品だよな」

すぐそばで声がしたが、それが自分に向けられたものだとは考えもせずに絵に見入っていた。その声は続いた。

「色の使い方が斬新で、妙に惹きつけられる」

低く落ち着いたその声は、ハスキーとまではいかないが、少し掠れ気味でざらついた響きがあった。耳に妙な印象を残す。

何気なく顔を向けると、一歩ほど離れた隣に男が立っていた。周りには連れらしき人はいないようだ。この男は自分に話しかけてきたたのだろうか、達也は一瞬戸惑った。

男は両手をズボンのポケットに突っ込んで、絵に視線を向けている。達也より少し年上だろうか。長身で、百七十八センチの達也よりもいくぶん高いようだ。黒いスーツを着て、ダークレッドのネクタイをしている。茶色がかった長めの髪はきれいに後ろに流され、上げた前髪が少し額にかかっている。とても端正な顔立ちだ。

彼の整った横顔に見入っていると、突然その男は達也に顔を向け、意見を求めるかのように眉を上げた。

「え? あっ、そうですね。俺も同じ印象を受けました。羨ましいくらいの技術だ」

「君も画家?」

「あ、いえ、まだ修行中です」

「修行? 」

「あの、・・画家の人に弟子入りしていろいろ教わってるんです。今日もその人に一緒に連れて来てもらったんです。じゃなかったら俺、こんなパーティに来るチャンスなんかなかった」

「ジョン ホブスって画家知ってるかい? ニューヨークの」

男は口元に淡い笑みを浮かべ、首をわずかに傾げる。すばやく記憶をたどったが、その名に覚えはなかった。

「いいえ、すみません」

「謝ることはないよ。今度の木曜日に銀座のギャラリーで彼の個展がオープンするんだ。個人的に彼の作品は好きでね。オープニングパーティの招待状があるんだけど、よかったらやるよ。きっと気に入ると思う」

男は上着の内ポケットからふたつに折りたたんだ葉書のような紙を取りだし、それを開いて達也に差しだした。

「え? でも・・」

「俺は必要ないから」

躊躇している達也に、男はさらにそれを近づけてくる。

「・・どうも」達也は遠慮がちにその招待状に手を伸ばした。

男はじっと達也を見つめている。こういうときに何か気のきいた会話ができればいいのにと思うのだが、情けなくなるほど何も言葉が出てこない。

達也が口を少し開けたまま固まっていると、男はにっこりと笑いかけてきた。きれいな笑顔だった。なぜか心臓が高鳴りだし、達也は内心うろたえた。

《・・な、なんでドキドキしてんだ》

男が笑顔のまま何か言いかける。だが、その目が一瞬達也の後方に動いたかと思うと、突然、じゃあ、と言い、くるりと向きを変えて足早に去っていった。

その後姿を目で追っていると、背後から肩を掴まれた。

「達也、帰るぞ」

達也が振り向くと、宮田は怪訝そうな表情になり、首を少し傾げた。

「大丈夫か?」

「え? あ、はい」

達也は我に返り、招待状を急いで上着のポケットの中に押し込んだ。

「タクシーで途中の駅まで送っていく」達也の腕をさすりながら宮田が言う。

「あ、ありがとうございます」

「達也くん、どうしたの?」

その声に、宮田はさりげなく達也から手を離した。

「なんかぼーっとしてる。まだ気分悪い?」

宮田の後ろから、緩いウェーブのある肩までの髪を指で耳に掛けながら佐和子が気遣わしげに訊いてきた。頬がほんのりと赤く染まっている。

「いえ、あの、・・この絵に見とれてただけです」

達也は『暁』に目を向けた。

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