あかね
一
渓流釣りは結局のところ場所が全てだ。
どれだけ腕がよくても、人が入り尽くした川で竿を出せば擦れた魚は見向きもしない。逆に誰も入らない山奥の沢なら素人でも釣れる。だからこの釣りをやる人間はいずれ自分だけのポイントを探しはじめる。
私も例に漏れなかった。
そもそも渓流釣りを始めたきっかけは、雄大な山の中で釣れる魚の美しさだった。ガラスのように透き通った川で釣れるのは「渓流の宝石」と呼ばれるにふさわしいアマゴという魚だ。幼い頃から、きらきら光る物が好きだった私はこの魚にも虜になった。
自分だけのポイントを開拓する手順は本で覚えた。まず地形図を広げ、標高が六百メートル前後でそこに沢の水線が走っている場所を探す。等高線が詰まりすぎていれば人が入れず、緩すぎればとっくに誰かが入っている。その中間を探すのだ。
条件に合う場所は地図上ではいくらでも見つかる。だがそこに辿り着けるかどうかは別だった。実際に行ってみたものの林道が途中で崩れていたり、入り口が私有地で塞がれていたりと散々な目にあった。
そして最後に残ったのが、県境に近い山の沢だった。
地図で見る限りだと林道の線はあり、沢の水線もある。人家の記号はない。理想的だと思った。
七月のよく晴れた日、夜明け前に家を出て二時間ほどバイクを走らせる。早朝の澄んだ空気を体いっぱいに取り込む。この浄化されていく感覚がたまらない。
山の麓に辿り着くと、林道と呼ぶのも躊躇うような荒れた道を何度も足をつきながら登っていく。蝉の声がやかましい。落石注意の標識が根元から折れて草に埋もれている。
両側から伸びた枝が、肩やヘルメットに当たる。すれ違う車はもちろん人の気配がまったくない。
まるで、私以外の人間全員が跡形もなく消えてしまったかのようだ。
ようやく水の流れる音が聞こえはじめる。
通常なら三十分もかからないであろう道を、結局一時間近くかけて登った。
林道を抜けた少し先に、建物が見えた。最初は林業の作業小屋か何かだと思ったが、近づくとそうではないようだ。人家が七軒か八軒、斜面に張りつくように建っている。このような集落など地形図には載っていなかった。
ただ、あの縮尺では小さな家屋の記号は省かれることもある。私はそう納得することにした。
道の脇にバイクを停めヘルメットを脱いだ瞬間、生温い風が顔を撫でた。
人家はすべてトタン屋根がついた木造の平屋だった。外壁は灰茶色の板張りで横に貼られた板が反って隙間ができている。窓ガラスは白く曇っており、内側から何かで塞がれている。
一軒だけ物干しに洗濯物が下がっている。色は完全に抜けており、もともと何色だったのか判別がつかないほどだ。あれが何日そこに干されていたのか私には見当もつかない。
風が抜けるたび、それがゆっくり揺れる。
人の気配はない。
だが、なぜか無人には見えなかった。
川に降りると、人がいた。
七十を過ぎているであろう小柄な老婆が、水際にしゃがみ込み顔を洗っている。
——じゃぶ じゃぶ じゃぶ
近づいても顔を上げない。手だけがゆっくりと動いている。
——じゃぶ じゃぶ じゃぶ
だが、こういう時は必ず声をかけることにしている。地元の人間しか知らない場所や情報を教えてもらえることがあるからだ。何より、黙って通りすがるのは気分が悪い。
「おはようございます」
——じゃぶ じゃぶ じゃぶ
川底を向いたまま、姿勢は少しも変わらない。
私はもう一度、少し声を張って声をかける。
「おはようございます。今から釣りに上がらせてもらいます」
——じゃぶ じゃぶ じゃぶ
だが、老婆からの反応はない。
耳が遠いのだろうか。
私は愛想笑いを作って会釈をし、老婆から離れることにした。
少し進んだところで、水の音が止まった。
『あかねには……気ぃつけんと……あかんよ……』
私は咄嗟に振り返る。
老婆はしゃがみ込んだままだ。
その声は、耳のすぐ横で囁かれたような不快感があった。
「あの、何ですか」
——じゃぶ じゃぶ じゃぶ
老婆はひたすら顔を洗っている。
同じ速さ、同じ姿勢で。
先ほどから一度も変わっていない。
——じゃぶ じゃぶ じゃぶ
私はしばらく呆然と立っていたが、やがて諦めて歩き出した。
二
川沿いをしばらく進んだ頃、私はずっとあの言葉を口にしていた。
「あかね……あかね……あかね……」
この土地の言葉なのだろうか。地方には、その集落でしか通じない言い回しがいくらでもある。しばらく考えた末、一つの答えにたどり着いた。
「茜だ。茜空」
夕暮れ時に太陽の光で赤く染まる、あの空だ。
つまり、日が暮れる前に山を下りろという意味だったのだ。山では日が落ちるのが早い。よそ者に対するごく当たり前の忠告だ。そう解釈し私はようやく安心することができた。
腕時計を見る。
午前八時十五分。
思ったより早い。これなら昼過ぎには戻れるだろう。
老婆のいた場所から、一時間ほど山を登った。
蝉のやかましい鳴き声はいつの間にか消えていた。岩を越え、倒木をくぐり、傾斜がきつくなるたびに迂回して藪を漕ぐ。
そして途中、妙なことに気がつく。
ある場所を越えた辺りから、木々の形がこれまでとは明らかに異なっているのだ。
木々の幹は地面から真横へ進み、反対側に捻れ、そこから立ち上がるように伸びている。
気味が悪いので、足早に山道を登っていく。
振り返ると、歪んだ木々はまるで膝をついて何かに祈りを捧げているように見えたのだった。
目的の場所に着いた瞬間、疲れが全部吹き飛んだ。
両岸が切り立って、上流から落ちてきた水が淵を作っており、下流に行くに従って浅くなっている。このような水深に変化のある場所に魚はつきやすい。また、水底には軽自動車ほどの岩が沈み魚の隠れ家となっていた。岸辺の地面は苔むしていて、人の踏んだ跡はどこにもない。最高のポイントだった。
竿を出してすぐ、最初の一投で来た。
普段、こんなに早く釣れることなんてまずない。しかも二十センチを少し超える良型アマゴが仕掛けを投げるたびに掛かる。合わせるまでもなく、餌が着水した瞬間に目印が沈む。こんなことは初めてだ。
本来、渓流魚というのは臆病な魚だ。
人影が差せば岩の下に入る。一匹釣れば、その周りはしばらく沈黙する。だが、ここではそれがない。続けて何匹も水底の岩から出てくる。
まるでなにかから逃げるかのように。
三十分もしないうちに十匹になった。
渓流釣りでは、十匹釣れることを「つ抜け」という。釣れた魚を数える際、一つ、二つ、三つ……九つまで「つ」が付いて十に達すると「とお」になり、「つ」の文字がなくなるからだ。
普段なら、一日歩き回っても五匹釣れればいい方だ。ここまで簡単に釣れると面白みに欠ける。贅沢な話だ。
私は釣った魚をリリースすることにしている。渓流魚は個体数が少なく、持ち帰ってばかりいればそのポイントから魚が消えてしまうからだ。
石で囲って作った天然の生け簀を崩し、魚たちを自由にしてやる。
淵に戻した魚は、ほとんど泳がなかった。
弱っているわけではない。鰓も普通の速さで動いている。上流にも下流にも行かない。近くに石を投げても散らない。十匹が岸から少し離れた水底で同じ方向を見て、じっとしていた。
腕時計を見る。
午前十時四分。
日暮れまでは十分に時間はある。
それなのに、体が勝手に帰り支度をはじめていた。
道具をまとめて、立ち上がった時だった。
強烈な臭いが鼻を突いた。
獣の臭いだ。それも、生きている獣のものとは思えない。何かが腐っているような、喉の奥に張りつく臭いだ。風向きに関係なく、あらゆる方向からその臭いは向かってくる。
獣臭がしたらその場を離れろ。
渓流釣りを始めたばかりの頃、何度も教えられたことだった。
私は息を殺し一歩下がる。
その瞬間。
——うひひ
——うひひ
低い声。
人の笑い声を、うんと遅く再生したような。
それが途切れずに続いていた。
息継ぎもなく。
熊や猪なんかじゃない。それだけは確信できる。
声は方向が定まらない。右から聞こえたと思うと、次には正面から聞こえる。
数も掴めない。一つのようにも、いくつも重なっているようにも感じる。
早く逃げろ、と脳が警鐘を鳴らす。
しかし、どの方向へ逃げるべきか全くわからない。
正面の茂みが、大きく揺れた。
そこに現れたものを見て、息が止まった。
それは四つ足の、毛のない獣だった。
皮膚は乾いてどす黒く、木の幹のような深い皺が全身を走っている。
そして、顔だけが違った。
例えるなら、人間の赤子。輪郭も、頬も、鼻も、生まれて間もない赤子そのものだった。眼球は白目まで真紅に染まっている。
体から力が抜けていく。
朦朧とした意識の中、あの言葉が頭をよぎる。
あかねには……気ぃつけんと……あかんよ。
違う。
茜ではない。
私が勝手に都合のいい意味を当てはめていた。
あかね。
あかめ。
——うひひ。
——うひひ。
そして、笑っているのはあかめではない、別のなにかだった。
三
どれだけそうしていたのか。
ある瞬間、体の感覚が戻った。
淵に目をやると、私の逃がした魚たちはいなくなっていた。
私は咄嗟に走り出した。
荷物のことなど頭になかった。
一時間かけて登った道を、死に物狂いで下った。
倒木を跳び、岩を滑り、何度も転んだ。
——うひひ。
——うひひ。
振り返らない。振り返れない。
後ろへ首を回すという動作を脳が拒絶する。
——うひひ。
——うひひ。
笑い声はずっと後ろにいた。
近づきも遠ざかりもしなかった。
どれだけ走っても、笑い声は一定の距離を保ったままついてきた。追いかける必要がないということを、あれは知っているかのように。
木々の隙間から集落が見えたときだった。
笑い声がやんだ。
私は足を止め、ようやく振り返ることができた。
先ほど下ってきた斜面には何もいなかった。
木があり、藪があり、私が下ってきた跡がそこにあるだけだ。
気がつくと、靴の中が湿っていた。
視線を落とすと、両膝の皮膚がえぐれ、白いものが見えた。あれだけ転んだのだ、無理もない。
痛みは全く感じなかった。自分の膝から流れる血を見て、まだ生きていると実感した。
集落にたどり着いた頃には、日が暮れかけていた。
腕時計を見る。
午後六時三十分。
集落を出てから、十時間以上が経っていた。
どう考えても時間が合わなかった。
私は老婆と出会った場所へ向かうことにした。
川沿いに、老婆の姿はなかった。
当然だ、出会ってからすでに何時間も経過している。
私は川から離れ、集落の中を歩いた。
相変わらず、家には人の気配はない。
灯りもなく、物干しの洗濯物はまだ同じ場所に下がっている。
その洗濯物に見覚えがある気がした。
バイクは、ここに来た時と何も変わらないままそこにあった。鍵は挿さったままになっていた。集落に気を取られ、持っていくのを忘れていた。
私はエンジンをかけて、そのまま林道を下る。
途中、バイクのミラーに映った自分の目を見た。
私は咄嗟にブレーキをかけ、バイクを放り出し森の中へ姿を消した。
四
川に降りると、人がいた。
二十代くらいの女性で、水際にしゃがみ込み顔を洗っている。
——じゃぶ じゃぶ じゃぶ
近づいても顔を上げない。手だけがゆっくりと動いている。
——じゃぶ じゃぶ じゃぶ
「おはようございます」
——じゃぶ じゃぶ じゃぶ
川底を向いたまま、姿勢は少しも変わらない。
僕はもう一度、少し声を張って声をかける。
「おはようございます。集落の方ですか」
——じゃぶ じゃぶ じゃぶ
だが、女性からの反応はない。
耳が遠いのだろうか。
諦めて立ち去ろうとした瞬間、水の音が止まった。
『あかめには……気をつけないと……いけませんよ……』




