十月二日 1
流石に疲れていたのだろう。
風呂から上がり、布団に入ってすぐに眠ってしまった昨日から一夜明け、気がつけばもう次の朝を迎えた。
小鳥の囀り、そして穏やかな朝の日差し。
昨日の訳の分からないことなんて、それこそ全部まるっと夢だったのではと。
そんな風に思えるほど晴れ晴れとした、七時二分なんて時間にも余裕のある完璧な起床を経て、今日という一日は始まってくれたのだが。
「おはようダーリン♡ あなたのアイが迎えに来たよ♡」
気持ち早めの起床を母に驚かれながら、朝食を食べ、少し早めに家から出てすぐ。
まるで待ち伏せでもしていたみたいに、キャピっとギャルみたいなピースを添えながら、片目ウィンクで挨拶してくる朝霧あさひ……を模したアイの姿に、そんな希望は虚しく散ってしまう。
本物のあさひならまずしないであろう、なのにあさひの容姿のままお出しにされるあざとい仕草。
例え偽物だと分かっていても、何か新鮮でいいなってドキッとしてしまうこの心臓が憎いが、まあ仕方ないことのはずだ。
「……お前、部活はどうしたんだよ」
「今日はないよ。……本当、本当だって。確かに昨日は嘘ついちゃったけど、今日は本当にお休みなんだって」
昨日と同じ言葉へ疑いの目を向ければ、上機嫌そうに俺の隣を陣取ったアイは笑顔で答えてくる。
けれどそんな言葉は紙一枚くらい軽薄で、信じられる気はしない。
命の恩人相手には間違いかもしれないけれど、今このあさひの姿をしただけの怪物に向けられる信頼なんてのは、ほとんど存在しなかった。
「……本当言うとね、もう呑気に部活なんてしてる場合じゃないんだよ? 本来実現者っていうのは契約者のそばで守護するものなの。あのクソ女に正体を知られた以上、ダーリンがアイのいない間襲われちゃったら、何にも出来ずに死んじゃうんだから」
本来なら二人だけで同居するべきなんだけどね、と。
アイは至極当然みたいに言ってくるが、俺にはそれが冗談なのか本音なのか推し量ることは出来ないまま。
……昨日のことがあってなおいまいち命の危機だという実感が湧かないのは、やっぱり自分が鈍感なのだろうか。
そうして隣の存在へ、そして自分へ疑惑を抱いたまま、それでも二人で電車に乗り。
トラブルもなく学校最寄りまでの駅に到着し、駅から学校までの通学路をやはり二人で歩いていく。
仮にあさひが偽物だとしても、行きを一緒にするのは新鮮な気持ちになる。
普段朝練があるあさひは俺より早く出てしまうし、そもそも朝に待ち合わせなんてわざわざしないから、一緒に登校なんてそれこそ入学式以来と言っていいくらいだ。
……だからもし隣にいるのが本物のあさひで、いつも通りの日常だったのなら、きっと南濃レイもなく嬉しいんだけどな。なんて。
「おっはーしんっち……お、朝霧さんもいるじゃーん。なんだなんだぁ、一緒登校かぁ? もしかしてそういうスクープかぁ?」
そんな淡い感傷を抱いてしまいつつも。
いい加減学校も近くなってきたし、周囲の生徒の目もあるからと思った矢先、朝っぱらから元気そうな声と共に後ろから一人の少女、南が追いついてきて絡んでくる。
笑顔と前向きさ適度な日焼け肌が特徴な、陸上部期待の星である友人。
そんな彼女は俺とあさひが一緒に通学していることに驚いているが、まあ無理もない。基本的に教室ではあんまり話さないからな。
「おはよう南。たまたまなだけで、別にそういうのじゃ──」
「……ふふっ、バレてしまったわね。そう。実は内緒にしていたけど、アイ達はそういう関係よ。いえ正確には、そういう関係になったの方が正しいけどね。ねえ、ダーリン?」
「……な、ななな、ぬあんですとぉ!?」
だから偶然会っただけだと、いらぬ誤解を招かないよう弁解しようとした。
だというのに。
俺の気持ちを知ってか知らずか。アイはにやりと卑しい笑みを浮かべた後、わざとらしくダーリンと呼びながら、南へ見せつけるように腕に抱きついてきてしまう。
何のつもりだとすぐに振り解こうとしたが、恐るべき力でまったく動いてくれず。
そうして数秒も経てば既に手遅れ。
驚愕であろうカミングアウトに目を丸くしていた南は、ようやく思考が追いついたとばかりに大声を上げ、周囲の注目を集めてしまう。
「ど、ど、どういうことしんっち! 私そういうの聞いてない! フレンズなのにそんなのおもしろ一回も聞いたことないよ!?」
「言ってないからな。……元々幼馴染なんだよ。距離が近いのはそのせいだよ」
「うへえ、そうなの!? なんか急に常識塗り替えられちった気分だなぁ。そういう大事なこと、もっと早くに言ってくれればいいのに、しんっちも隅に置けないなぁもう」
どういうことかと、本当に浮気でもしたいみたいに詰め寄ってくる南。
せっかく晴れ晴れとした過ごしやすい朝だというのに、これじゃあ台無しだと。
この絶妙な居心地の悪さへ心の中で特大のため息が出てしまってから、仕方がないと簡単に説明すれば、南は納得とばかりにうれうれと肘で脇腹をど突いてくる。
「こ、こうしちゃいられない! こんなてえへんなスクープ、田中と共有せずしてどうやって気を収めよう? そんなわけでカップル方、お邪魔虫は先行くねー!」
「あ、おい……絶対後でとおるにも突かれるの確定じゃん。……どういうつもりだよ?」
「どういうつもりも何も別に間違ってないでしょ? 固い絆と秘密で結ばれた、互いになくてはならない関係。だーよね?」
こいつらだと、こうなるから言いたくなかったんだと。
流石陸上部と言える速度で走り去ってしまう南の背を数秒見つめ、それからアイを責めるように睨んでしまうも、まるで堪えていないとばかりにわざとらしく舌を出してきた。
「いいじゃん別に。一緒にいる理由作った方が違和感なく守れるし……っていうかさ、ダーリンと朝霧あさひが同じクラスなのに距離遠いのがおかしかったんだよ。どうしてなの?」
「……別に。いくら幼馴染だからって、四六時中くっついてる方がおかしいだろ」
そのままアイがどうしてかと尋ねてくるので、少し考えてから答えを返す。
俺とあさひは学校ではあまり話す機会がない。それは中学の頃から自然とそうなったものだ。
高校を合わせた俺が言うのは今更過ぎるが、それでも交友関係はそれぞれで違う。
教室、部活、それ以外など。
俺には俺の、あさひにはあさひの築いた関係がある。もちろん俺にとって一番大事なのはあさひだが、他の全てが大事じゃないなんてことにはならない。だから基本的に学内ではあんまり関わる機会はなかったりする。
……何より、俺はあさひの重荷になんてなりたくない。
確かに俺はあさひのことが好きだが、朝霧あさひという初恋の女性の人生で枷になってしまったらと考えれば、俺はどうしようもなく引き裂きたくなってしまう。
朝霧あさひは、俺に多くの幸福を与えてくれて、駄目なときでも優しく手を伸ばしてくれた。
けれども俺はそんな彼女に、何一つとて返せていない。大きすぎる恩に、何も報えていないのだ。
そんな仲で、もしもいつもみたいな近さで話していて、付き合っているだなんて噂が立ってしまえばあさひの学校生活に変な影響が出てしまうかもしれない。
だから本当は告白だってするつもりはなかったんだけど……それでもあんなポロリと出ちゃったんだから、やっぱり感情ってのは恐ろしいものだよ。本当に。
「ふーん? 好きなら素直に愛情表現すればいいのに、人間って本当に変なの」
アイは心から疑問だと、本当にどうでも良さそうに吐き捨ててから、ギュッと俺の腕に抱きつく力を強めてくる。
制服越しでも確かに伝わってしまう胸の感触は、思春期少年には最上の有毒。
いくら相手が偽物で、昨日水着越しに見たばかりとはいえ、やはり胸は胸なので心臓に悪いが、どうにも離れてくれそうな気配はない。
どうしよどうしよ……えーとそうだ。
こういうときは心頭滅却心頭滅却、さすれば火もまた涼し。胸もただの肉体接触なり。本物のあさひでないのなら、それはただの胸……やっぱり胸じゃん。どうにもならないじゃん。どうしろってんだよ。
「ふふっ、かーわいい♡」
「っ!!?」
そんな動じまくりで哀れな俺の内心など、きっと彼女はお見通しなのだろう。
耳元で囁いたり、頬を指で突いたりと。
純情な男心を弄ぶような、小悪魔的態度なアイの手のひらに踊らされながら、どうにか学校まで到着すると、ようやく仕方なさげに離れてくれた。
「聞いたぞ相棒。まさかお前、俺以外に女房がいたらしいな。浮気は殺人より重い裏切りなんだぞ?」
「何が浮気だ。朝っぱらから気色悪いぞ」
「まあ手厳しいわね! 俺のことは遊びだったのね! これ離婚届よ! 今日中にサインして!」
教室に到着し、軽く手を振りウィンクをして自分の席へと向かっていくアイ。
そんな俺をからかうように肩を組んできた野球バカの戯言へ辛辣に返すと、喜々として紙切れを出してくる。
……どこが離婚届だ。そもそもこれ、野球部って先にお前が手書きした入部届じゃねえか。
「あ、そうだ。そういえばさ、昨日のあれどうだったんだ?」
「あれ……?」
「ほらあれだよ。雅乃宮先輩のあれ。実はあと後結構気になっててよ、今日だって八時間しか眠れなかったんだよ」
超快眠じゃん。それで授業中に眠ってたらノート貸してやらなくてもいいかな。
「……ああ、まあ落とし物拾ったからって返してくれただけだったよ。正直告白とか、まったくなかった」
「なーんだつまらん。ま、俺は薄々そうなんじゃないかって分かってたけどな」
昨日の雅乃宮先輩を──彼女の操った鈍色の刃を思い出し、少しだけ身震いしてしまいながら。
なるべく顔に出さないように誤魔化すと、とおるはつまんないと首を振ってから、「解散解散」と心底期待外れと他の友人の輪に入っていってしまう。
……けっ、友人多めな野次馬めが。何も知らないで呑気なこと言いやがってよ。
心の中で悪態をつきつつ、残った一枚の紙切れを雑に畳んでブレザーのポケットに入れてから、自席へ腰を下ろして一息つこうしたがそうもいかない。
とおるのせいというかおかげというか、そういえば雅乃宮先輩も学校にいることを思い出してしまったことで、つい身震いしてしまう。
アイのせいであんまり意識してなかったが、同じ学校に命を狙ってくる人がいる。
その事実は鉛のように重く、蛇のように絡みついてきて、段々と不安がこみ上げてきてしまう。
彼女は今日、昨日と同じ場所同じ時間で仕切り直すと言ったが、そんな言葉は到底信用出来るものではない。
今この瞬間にでも、あの先輩はあのどんな形にでもなれる不可思議な鈍色で、俺の首をはね飛ばそうと画策しているのかもしれない。もしくはもう既に、何かしらの策を講じているのかもしれない。
一度思いついてしまえば後はもう泥沼。
考えれば考えるだけ悪い方向へと流れて言ってしまうのは、俺の直しても直せない悪癖だが、今回ばかりはそう悲観的になろうと責められないだろう。
「ほらお前ら席に着けー。出席とんぞー」
そうしてどれくらい考え込んでしまっていたのか。
いつの間にか来ていた八峰先生の平坦な声が耳に届き、ようやく我に返った俺は、ブンブンと頭を振って切り替えようと心がける。
……考えたって仕方ない、よな。
いっそ逆に乗り込んでやろう、なんて気概があるはずもなく。
こんな気持ちのまま会いに行った所で、殺し合うだなんてそんなの覚悟できるわけがない。
だから結局、俺に出来ることなんて何もない。
ただただ不安と緊張に蝕まれ、授業だって板書も疎かになるくらい気もそぞろになってしまいながら、時間だけが過ぎていってしまう。
けれど一限、二限、三限、四限、そして昼休みに五限。
言葉に出来ない不安は杞憂に終わり、あっという間に今日最後の六限まで迎えても何も起きない。
世界史担当の老人、三座先生の生徒を眠気を誘いがちな中国の歴史解説の中。
何事もなく一日が終わってくれると、ほっとしながらも迫る放課後──雅乃宮先輩の指定された再びの待ち合わせへどうすべきかと考えていた。
──そのときだった。
ドサリと、少し大きめな鈍い音が聞こえたことで、つい違和感を覚えてしまったのは。
「……うん?」
思考を切り上げ、教室を見回してようやくその異常に気付く。気付いてしまう。
教室にいる生徒が、全員机に伏してしまっている。
とおるも、南も、他の生徒も、そしてあさひの姿をしたアイも。
みんないびきも寝息もなく、まるで気絶でもしてしまっているみたいに沈黙してしまっている、そんな薄気味悪い静けさ。
それだけではない。
授業中であれば常にあるはずの、ついさっきまで確かに授業していたはずの三座先生の声、そして姿がどこにも見られない。ないのだ。
「ど、どうなって……先生!」
突然の静寂に思わず立ち上がってしまい、そして教壇のそばに倒れている先生に気付いて駆け寄る。
身体を揺らし呼んでみるが、先生からの返答は一切ない。
他の生徒と同じように意識がなく、最悪の事態が脳裏を過ぎってしまったが、脈と心臓が動いていることだけは確認して一安心する。
だがこんな状況、普通なら絶対にあり得ない。
何か、何かが間違いなく起きている。……まさか、まさか雅乃宮先輩が、何かを仕掛けて──。
ともかく一旦教室を出て、誰か他の教師を呼びに行くべきと。
数秒の思考の後でどうにか結論づけ、その前にアイがどうなっているのかだけ確認しようとした。
まさにその瞬間だった。
まるで何かが始まったのだと告げるみたいに、突如教室の床から淡い黒色の光が湧き出始めたのは。




