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十月一日 2

 自分の違和感とは裏腹に、何事もなく学校に到着する。

 あさひは教室に入ると、自身の友達へ挨拶しつつ、自分の席に鞄を下ろして一限の準備をしていく。

 そんな当たり前の光景を目の当たりにして、どこかホッと安心してしまったのは、どうしてなんだろうか。


「よう信司(しんじ)。元気そうで何よりだよ。ところでさ、一限のノート見せてくれない?」


 と、そんなあさひをぼんやり見てしまっていると、猿顔坊主な野球青年──友人の田中とおるが制汗剤の強い香りと共に挨拶もそこそこに、いきなりノートをせびってくる。

 うちは県立なんでシャワー室なんて贅沢な設備はないが、それでも周囲に気を遣えるのは、流石に思春期といった所か。そしてたまにノートを借りに来るのは今更なので、何か言うことはない。


「いいぞ。ところで、今日も朝練か?」

「もっちろん! 来年に向けて精進あるのみだぜ! ……あーあ、今からでもお前が入ってくれるのなら、うちの野球部も盤石なんだけどなぁ?」

「勘弁してくれ。こんな半端なポンコツなんざ、今更毎日頑張ってる人に混じったって万年補欠でしまいだよ」


 とおるは入学して以降、事あるごとに俺を野球部へと誘ってくる。

 そこまで熱心に勧誘されると悪い気もしないが、それでも毎度断るのが最早お決まりの流れだ。

 

 悪いとは思っている。けれど、だからといって頷くつもりも毛頭ないのだから仕方ない。

 とおるには悪いけど、それでも俺は、もう野球を……バットを握るつもりはない。

 何故ならそれがあの日、大きな間違いを犯してしまった俺が、せめて最後まで譲れない後ろ向きな決意なんだから。


「……なあ信司。お前、目の下に傷なんてあったっけ?」

「あー、朝起きたらなんか付いてた。そんなことより、(みなみ)は一緒じゃないのか?」

「さあ? まだ来てないし着替えてるんじゃね? 朝に夏原(なつはら)と口喧嘩してたのだけは体育館前で見かけたから、登校自体はにはしてると思うぜ?」

「……えっ?」


 自席に着きながら、話を逸らすようにもう一人の友人である佐藤南について尋ねてみれば、どうにも気になる返答をされてしまう。

 夏原というのは南の友達で、女性バレー部の部員のこと。

 だから困惑してしまう。南の友達という部分ではなく女子バレー部が今日の朝にいたという事実に。それはつまり、同じく女子バレー部であるあさひが朝練を休んでいたという事実に。


「……女バレも朝練あったの?」

「おお? ああ、やってたな。……あれ、でもさっき朝霧(あさぎり)来たよな?」


 念のために質問するも、とおるは答えながら俺と同じことに気付いたのか、うんうんと一人で悩む素振りを見せ始める。


 あのあさひが朝練を休んだ。嘘の嫌いなあさひが、嘘をついてまで部活をサボった。

 そんなこと、一度だってなかった。理由があればサボることはあったが、それでも彼女は偽ることなどせず、堂々としていた所が俺は好きだったのに、そのあさひが自身を曲げた。


 実は取り繕ってるだけで、体調が悪かったりするのだろうか。

 それとも部内で何か嫌なことでもあって、部活に行きたくない気分にでもなってしまったのだろうか。

 

 あさひの内心など分からないが、それでも分かるのは一つだけ。

 今日あさひは俺に朝練はないと、確かに言った。つまりあのあさひが、自分の意志で俺に嘘をついた。それだけは間違いなかった。


「……おっはー! あれしんっち、何か顔色悪いけど、どうしたの?」

「……いや、何でもない。そういえば小テストあったなって、思い出しただけだよ」


 ひょっこり姿を現わした南に、大丈夫だと誤魔化しながらとおるにノートを渡す。

 分かりやすい誤魔化しに、南は怪訝そうな顔をしたものの、それ以上切り込んでくる前に、担任である八峰(はちみね)先生の声が、いつもの気怠そうな声で席に着くように言ってくる。

 

 教室の時計が示す時間は八時四十五分。

 いつもは何の悪びれもなく二~三分遅れてくるのに、今日は珍しく五分も前に来るとは適当な。これでは遅刻するのも仕方ない……変だな。遅刻なんてしてないのに、どうしてか遅刻したような気がしてならない。


 ……何言ってるんだか。もしかしたら、おかしいのはあさひではなく俺の方なのかもな。


 既視感というか、違和感というか。

 今日はまだ朝だというのに首を傾げてしまうことばっかりで、自分がまだ夢の中にでもいるのかなんて自嘲してしまいながら、あっという間に一日は進んでいく。

 

 一限の小テストは一度も見たことないはずなのに、以前同じテストを受けたような気持ちになり。

 四限の数学では、何の脈拍もない教師の気まぐれで当てられたのに、別段驚くことがなく。

 そして昼食は持ってきたのは間違いないのに、何故か忘れてしまったと一瞬錯覚してしまったり。


 不思議なことに、朝以降も所々で微細ではあるが既視感や困惑を抱いてしまうも、何が起きるわけでもない。

 自分が抜けているとか、今日はそういう気持ちだっただけとか。

 そんな言い訳が通ってしまう、吹けば飛んでしまう程度でしかない些細な違和感に首を傾げる一日だったが、それでも何事もなく放課後を迎えた。

 

「なあなあ、今日こそは見学してみないか? 部員もお前がいれば喜んでくれるって」

「いや、俺のこと知ってるやつほとんどいないだろ? 本気で甲子園行きたいなら、俺にかまけてないで練習頑張ってくれよ」

「ちぇ。じゃあ気が変わったらいつでも言えよ? お前とバッテリー、組んでみたいんだからよ」


 意外なことにあさひは部活があるからと、朝のサボりはなんだったのかと思えるほどあっさりと部活へ向かってしまい、どうにも肩透かしを覚えてしまいながら。

 あおおるの今日はいつもの一割増しな押せ押せな説得を、軽く流しながらも下駄箱を開いた瞬間、中からハラリと何かが地面へと落ちてしまう。


「おいおい、まさか信司、お前へのラブレターか?」

「……違うだろ。ってか、早く部活行けよ」


 ひょいと後ろから顔を覗かせたとおるに茶化されながら、何なのかとそれを拾い上げる。

 下駄箱から落ちたのは真っ白な髪の表に、大きな赤い薔薇の描かれた便箋だった。

 

 赤い薔薇の手紙なんて、まるでラブレターみたいだと。

 とおるのからかいにちょっとばかり意識してしまいながら、宛名は誰かと裏返してみる。


 古風なことに、真っ赤な蝋で留められた便箋。

 そんな裏側の右下にえらく達筆で力強い、高校生離れした大人びた書体で、確かに名前が書かれている。

 雅乃宮(みやびのみや)(みやび)と。


雅乃宮(みやびのみや)……雅乃宮(みやびのみや)ぁ!?」


 とおるが大声を上げてしまい、周囲の注目がこちら一点に集まってしまう。

 とはいえ、とおるを強く責めることは出来ない。

 だって声に出なかっただけで、その名前に驚いているのは、俺とて同じなのだから。


「雅乃宮ってあの雅乃宮先輩だろ!? そんな人が信司にって、どうなってんだ!?」


 グワングワンと、とおるは肩を掴んで揺さぶってくるがこちらだって誰かに聞きたい。

 俺とてもう半年もこの高校に通っているのだから、一度や二度くらい名前は聞いたことがあるし、そんな人がこんな手紙を送ってくるなんて意味が分からないのだから。

 

 雅乃宮(みやびのみや)みやび

 三年三組所属の美少女で、テストでは入学して以来常に学年一位、部活動に所属していないにもかかわらず運動部顔負けの身体能力を兼ね揃えた文武両道の華。そんな絵に描いたような優等生の噂を持つ人。

 その群を抜いた美貌から、告白して一蹴される者が多数。

 荒々しく罵られるでもない、ただ冷たい目で睨まれながらの拒絶が有名で、中には付き合いたいからではなく睨まれたいがために告白するなんて人もいるとかいないとか。

 

 だが一方で、たまたまこういう噂も聞いたことがある。

 曰く、雅乃宮雅は猛毒を持つ黒薔薇。

 芸術品と同じで遠巻きに眺め、ほどほどに付き合うだけが理想。口さえ開かなければ、まさに完璧な美少女であると。


 実際に目にしたことはないけれど、前に見たらしいとおる曰く本当に美少女だったらしいが、どの程度のものやら。

 まあ俺が好きなのはあさひだし、今は告白の返事待ちなので余所の美少女はあんまり気にならないが、それでも興味自体はあるが、まあ真相は如何に。


 興奮か恐怖か。

 ともかくこの上なく心臓をバクバクとさせながら、気持ち急いで便箋を開けて読んでみる。

 

 そんな雅乃宮(みやびのみや)が、俺に手紙とは何だろうか。

 接点は一つもないし、噂から考えるにラブレターなんて殊勝なものを送ってくるような人とは思えない。

 もしかしたら、何か知らぬ間に粗相をして、そのせいで目を付けられでもしてしまったのだろうか。いずれにせよ、中身を開けるまでに、こんなにも手が震えた手紙はきっと初めてだ。


『拝啓、澄みわたる秋空が心地よく感じられる頃となりました。いかがお過ごしでいらっしゃいますか。さて本題ですが、私こと雅乃宮雅は夜刀神(やとがみ)信司様にお話したいことがあって手紙をしたためた次第です。つきましては誰にも知られることはなく、十月一日の十九時に一人屋上にてお待ちしています。雅乃宮雅より』


 蝋で閉じられているため、この場で綺麗に開けるのは難しく。

 大分雑になってしまいながら、それでも開いて中身を取り出して目を通せば、そこには宛名と同じように流麗な文字にて文章が紡がれている。


 文脈から本当にラブレターかと、そう思ったが、すぐに違和感を覚えてしまう。

 今日の十九時に屋上。うちの最終下校時間は十八時半だし、何より屋上は立ち入り禁止。どうやったって待ち合わせ場所に向かうことが出来ないのだが、書き間違いだろうか。


「……どうしよう。間違いってことはないらしいけど、どうすればいいと思う?」

「あ、俺部活あるから行くわ。大丈夫、俺は何も見なかった。偽物だったら明日慰めてやるからよ、じゃな」

「あ、ちょ……逃げやがった、なんてやつだ」


 相談しようとした矢先、とおるは面倒事はごめんみたいな態度でスルリと逃げ去ってしまう。

 薄情だなと思いつつ、差出人は学校天下の美少女。

 逆だったら俺もお幸せにの一言で終わりにしていただろうから、あまり強く言う気にもなれない。


 どうしたものかと、下駄箱で十数秒考えて。

 そろそろ周りの人に何してるんだろうって思われそうになった頃、ようやく手紙を懐へとしまい、校内用のシューズのまま下駄箱から踵を返す。


 これがラブレターか、それとも悪趣味な不幸の手紙かはともかくとして。

 どんな用途であったとしても、もし呼び出した本人が待っているとしたら、流石に行かないのは忍びない。

 仮に囲まれでもしたら、そのときはそのとき。

 まあ不良漫画みたいな学校ではないし、校舎内でそう変なことにならないだろうと、軽い気持ちで十九時まで待つことにした。

 

 幸いなことに、待つこと自体はさして苦痛でもなく。

 図書室で本を読んで時間を潰していれば、あっという間に十八時を回り、夕暮れは暗闇へ移り変わってしまう。


 みんなが帰った後の、真っ暗な校舎内。

 明かりのない学校というのはこんなにも薄気味悪いのかと、どうにも新鮮な気持ちでコツコツと足音を響かせ、屋上へと向かう。


 帰る時間に帰らないという、明確な校則違反。

 こういうのは男子的にはドキドキしてしまうが、あさひに知られたら怒られるんだろうな。


 ……そういえば、今日は結局、告白の答えをもらえなかった。

 あのあさひが一日と言ったのだから今日聞けると思っていたのだが、上手いことタイミングが合わなかったか。まあ部活ならば仕方ないと、明日のお楽しみに取っておくとしよう。


 そうして階段を上り、四階の更に上。

 七ヶ原(なながはら)高校の生徒が立ち入り禁止とされている、屋上前の扉まで辿り着く。


 入れなかったら大人しく帰ろうと。

 扉のノブに手を掛けると、何といつもなら施錠されているはずの扉が、実に呆気なく開いてしまう。


 ギィィと、擦れたような音を立てながら、一気に外の風が肌を撫でていく。

 やはり十月の夜の風は冷たいなと。

 そんなどうでもいい感傷に、またもやどこか既視感を抱いてしまいながら、ゆっくりと屋上へ足を踏み入れる。


 入学直後の校内見学の際に一度のみで、あとは入ったことのない屋上。

 当然夜で照明はないから真っ暗ではあるが、それでも月の光が直接差す分校舎内よりかはましだな、なんて。

 そんなことを考えながら、スマホを取り出してライトで照らしながら、手紙の差出人はどこかと進みながら探し始めた。



「ようやく来たわね。まるで庭先でサンタさんの到来を待つ幼子のように、ずっと首を長くして待っていたわ。……くしゅん」



 そのときだった。

 どこからともなく闇夜であっても存在感のある女性の声がして、そして次に場の緊張なんてない、可愛らしいくしゃみが聞こえたのは。


 すぐに声のした背後を向けば、そこにいたのは黒髪を靡かせた人型のシルエット。

 扉の上の屋根に立ち、月を背にして悠然と構えていた誰かはふわりと、落ちるだけなのに空を舞うみたいな自然さで屋根から飛び降り、地面へと着地してくる。


 スマホのライトをそちらへ向ければ、露わになったのは女性だった。

 黒い髪。剥き出しの氷柱のように鋭い目つき。制服越しであっても、一目見て分かるほど大きな胸。すらりとした長い手足。

 月さえスポットライトに仕立て上げてみせる彼女は、たったの一言で表すのなら、まさに絶世の美女。

 

 どこかあさひと似ていながら、やっぱり系統の違う美少女。

 もしもあさひがいなければ、もしかしたら外見一つで惹かれていたかもしれない。

 そんな女性の登場に困惑していると、彼女は腰に手を当てながら、まるでモデルがファッションショーのランウェイを歩くときみたいな堂々たる足取りでこちらへと近づいてきた。

 

「……ふうん、そう。やっぱり思ったとおり、そういうことなのね。聞いたときは目が飛びそうなほどに驚いてしまったけど、やっぱり実物見ても驚きでしかないわ……くしゅん」

「……あの、大丈夫です?」

「平気よ。扉の前で飼い主の帰宅を待ちわびる忠犬みたいに早く来すぎてしまったけれど、そんな些末はどうでもいいの。もちろん空間(エリア)まで展開して赴いた貴方ならば、この意味が分かるわよね?」


 こちらの心配なんて必要ないと。

 見事に切って捨てた女性は、こちらとほぼ同じ目線ながら、ジロリと舐め回すよう全身を見つめてくる。

 俺と同じくらいなんて、女性としては結構というか大きいな。

 あさひが俺に背を抜かれたとき、もう少し背が欲しかったなんて愚痴を吐いていたことがあったが、やっぱりこれくらいを望んでいたのだろうか。


「えっと、雅乃宮先輩……ですよね?」

「ええそうよ。……ああ、用があると呼び出したのは私だものね。ごほんごほん──いいでしょう。私のことを知らないなんてはずはないだろうけど、それでもお可愛い一年生の夜刀神(やとがみ)君に、改めて自己紹介してあげるとしましょうか」


 片思い相手こそいるが、俺とて一般的な男性高校生。

 こんな美少女がそばでこちらを見てきていることにむず痒さを覚えてしまっていると、何かに納得したように視線を外し、わざとらしく喉を整えてから、自身の手を胸へと当てる。


「こんにちは、それともこんばんわかしら? まあどっちでもいいわ。私の名前は雅乃宮(みやびのみや)(みやび)七ヶ原(なながはら)高校三年にして入学して以来、一度たりとも学年一位を落としたことのない才女。好きな物は焼き鳥のぼんじりとチューリップとピアノの音、好きな言葉は有言実行。自慢じゃないのだけど、人よりちょっぴり見目麗しく、そして愛嬌に溢れた淑女の中の淑女。そう、言葉にするのなら立てば芍薬、そして座れば牡丹って感じな美女よ。よろしく」

「……はい? えっと、はい?」

「あら、聞き取れなかったかしら? いいわ、ならもう一度言ってあげる。私の名前は雅乃宮(みやびのみや)──」

「い、いえ! 大丈夫です! 何で急に自己紹介し出したんだろうって、予想外過ぎて呆気にとられただけですから!」


 一部分とて噛むことのない、偉い人のスピーチのように流暢で様になった自己紹介。

 けれどあまりの情報量と突然さに、まるで英語の長文を聞かされているみたいに理解が追いついてくれず。

 雅乃宮先輩が全部を話し終えて満足げな顔をしてくるも、そんな困惑があんまりにも顔に出てしまっていたのか、仕方ないわねと首を振りながらも楽しげに繰り返してきそうだったので慌てて止めざるを得ない。


 ……口さえ開かなければ、か。この一瞬で、何となくだがその理由が分かった気がするよ。


「そ、それで雅乃宮先輩。今日はどうして、こんな時間に俺を呼び出したんですか?」

「……本当に、分からない? 私なりの配慮なのだけど、本当に?」

「えっと、すみません。接点とか……ないですよね?」

「……呆れた。そんなのほほんとした顔で来るからまさかとは思ったけど、それでもここまで危機感が欠如していたなんて想定外よ。あんぱん顔のヒーローのような、根っからのお人好しってわけでもない。ただの愚鈍、愚かを着飾った愚か人。本当に、警戒して損したわ」


 侮蔑を前面に押し出して、言いたい放題言ってくる雅乃宮先輩。

 わざわざ来たというのに、どうしてそんなこと言われなければいけないのだと内心苛ついていると、彼女は諦めたと首を軽く横に振って、再びこちらを真っ直ぐ見てくる。


「それで用だっけ? ……ええ、もちろん用はあるわ。突然の流れ星くらいの合間で終わってしまいそうだけど、それでもとても大事な用件よ」

「はあ。それで、なんでしょう──」

「これからよろしく。そして残念だけどさようなら、夜刀神信司君?」


 挨拶の直後だった。雅乃宮先輩は、こちらが尋ねるよりも早かった。

 雅乃宮先輩が手を動かした瞬間、彼女の手元から細長い刃物のような何かが、どこからこちらへ切っ先を向いて迫ってきたのは。


 嗚呼、死ぬ。これはどうやっても躱せないなと。

 無慈悲な鈍色の煌めきを認識しながらも、身体が追いついてくれないと、どうしてか他人事のように考えてしまいながら、その刃が刺さるのを待つしかなかった。



「駄目だよ。そういうのは、まず私を通してからにして欲しいな」



 けれど。けれどその刃が俺へと届き、突き刺さることはなかった。

 辿り着くよりも一手先。目前の一歩手前ほどの合間にて、嫌に甘ったるい声が屋上へと響き渡る。


 そして次の瞬間には、目の前にいたはずの雅乃宮先輩は弾き飛ばされて。

 彼女がいたはずの場所に立っていたのは、先ほどまでと違う、白い翼を生やした、長い金の髪を宿した彼女。

 コスプレにしては嫌に不自然さのない、後ろ姿だけで美しいと分かる、創作に出てくる天使のような乱入者。


 それなのに、俺はどうしてかその人物を、あいつと重ねてしまっている。

 髪が黒く、翼なんて生えていないはずの、幼稚園の頃から一緒だった幼馴染──朝霧あさひと。


「まったくもう。浮気は当然だけど、私を置いて先に逝くのは一番に駄目。だってそんなことされちゃったら、置いていかれる方が悲しい気持ちになっちゃうでしょ?」

「あさ、ひ……?」

「そうだよ、朝霧あさひだよ。遅くなってごめんね、ダーリン?」


 振り向いた白翼の彼女は、俺こちらを振り向き、満面の笑みでこちらを見せてくる。


 あさひの綺麗で優しい黒色の瞳とは違う、最高純度のルビーのように真っ赤に輝きパッチリと開いた目。

 そしてずっと聞いてきた、朝霧あさひと同質のはずの声。

 同じ喉から出ていて、同じ声質にもかかわらず、それでもこんなに甘くあざとい声になるのか。なんて場違いな感想を抱きながら、それでもどこか確信してしまっている自分がいた。


 目の前の朝霧あさひは、確かに朝霧あさひではある。けれど、彼女は朝霧あさひではないと。

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