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十月一日 1

 いつの間にか、真っ暗な世界に俺は立っている。

 ここが何処なのか、今自分が立っている場所が何かも分からない。

 そんな昼なのか夜なのかも不確かな、どこまでも黒色の続く世界。何もないだけの場所。


 そんな世界の中で、俺の目の前にはぽつりと、あさひがそこには立っている。

 世界が暗くともその姿は、不思議とくっきり露わになっている。

 輪郭も、色も、表情だって寸分違わず本物の朝霧(あさぎり)あさひ。俺の脳に刻まれたあさひの姿を目視した俺は、どうにも安心してしまう。


 ……安心? 何を言っているんだろうか。だって、あさひはずっとそばにいたというのに。


「……っ」


 あさひと。

 いつものように彼女を呼ぼうとして、近づこうとして、そしてようやく自らがどうにも固まってしまっていると気付く。

 声は喉に張り付いて、足は石にでもなってしまったみたいにうんともすんとも言わない。

 まるで端から動くという機能が搭載されていないみたいに、思考と認識以外の自由意志が、一切効いてくれなかった。


 そんな俺を見つめていたあさひは、少し寂しそうに笑みをみせながら、何かを呟いて。

 何故か俺へと背を向けて、一人で暗闇の先へと進んで行ってしまう。


「……っ! っ、っ……!!」


 呼び止めようとしても、言葉は出ない。

 手を伸ばそうとしても、動いてくれない。

 

 行ってしまう。あさひがどこか、どこか俺の知らない場所へと行ってしまう。

 行かせてしまえば、もうあさひと二度と会えなくなってしまう。

 どうしてだろう。そんなことあるわけないのに、まるでそんな気がしてならなくて、心が何かを訴えて仕方ない。


 待って、待ってくれあさひ。行かないで、行かないでくれよ、あさひッ──!!


「──あさひッ!!」


 そしてバサリと、身体が飛び起きる。

 世界には見違えるほど色が戻り、代わりに目の前にいたはずのあさひは、あっちに取り残されたみたいに消えてしまって。

 そしていつの間にか、伸ばすことの出来なかったはずの手は、何かを掴みたいとばかりに天井へと伸びていた。


「……夢、か」

 

 数秒の後、ようやく理解が追いついてきて、大きな大きなため息をついてしまう。

 

 自室という見慣れた周囲。

 ジトリと額に付着した、居心地悪い冷や汗。

 かけられた毛布の温もり。

 そして自身の目元と頬に感じる、まるで涙でも流したみたいに渇いた感触。


 感じるどれもがさっきまでのが眠りの最中の悪夢が歌付けてくるので、まだ若干不快さを燻らせながらも、どうしてかほっと胸を撫で下ろしてしまう。


 ……どうにも曖昧だけど、それにしたって、嫌な夢を見たものだ。

 あさひがどこかへ行ってしまうだなんて。昨日を最後にもう二度と会えないかもだなんて、そんな急な別れなんてあるわけがないだろうに。


「……あれ?」


 そこまで考えてから、不思議なことに、違和感を覚えてしまう。

 どうしたんだろうか。何か、何かがおかしい。

 喉に小骨が刺さったときみたいに、無性に引っかかって仕方ない。まるで何かを忘れていて、でも忘れていることが何なのか思い出せないときみたいな、そんな漠然とした違和感が胸にこびりついてしまっている。


 ……夢見が悪いなんてのは、随分と久しぶりだ。

 最近はトンと収まっていたんだが、やっぱり昨日の夜はドキドキしてあまり寝付きが良くなかったんだろうな。

 

 ぼんやりと、いつもの習慣から、枕元に置いていたデジタル時計を手に取って眺めてみる。

 示されている日付は十月一日で、時間は七時三十三分。

 遅刻はしないが、それでも少し遅めの起床。()()()()()()()……うん、何もおかしくはない、そうだよな?


「……顔、洗ってこよっと」


 どうにもこのままでは、いつまでも引き摺ってしまいそうだと。

 ひとまずしゃきっとするために顔を洗おうと、大雑把に布団を畳んでから、洗面所へと向かう。

 

 バシャバシャと顔に水を浴びせ、柔らかな白いタオルで付いた水を優しく拭き。

 それから最後にパシパシと軽く叩いて引き締めれば……はい完成、いつもどおりの俺って感じだ。

 

 ……うん、すっきりした。十月の水は気持ち夏場より冷えてて、秋って感じで気持ちいいな。

 それに鏡に映るのは、自分で言うのもあれだが中々の男前。

 満面の笑み、しかめっ面、そして渾身の変顔のどれもが自分のしたとおりに動いてくれる、まさに自分の顔。目覚めこそ悪かったが、これでひとまず問題なし……ん?


「……ん?」


 そこまで確認して、俺の指はそれを見つけたと、右目元をくすぐるくらいの緩さでなぞってしまう。


 右目のすぐ下、ちょうど人によっては隈の出来る位置に、不思議な形状の傷が奔っている。

 横に一本真っ直ぐと、そして横の傷に重ねて定規のメモリのような縦に六本の傷が。

 

 こんな傷、今まで顔にはなかったはず。

 どこでとか、どうやってとか、そういう記憶は一切ない。けれどとても大事な物だと、漠然とだがそう思えてしまう不思議な傷が、鏡に映る俺の目にはあった。


 昔の傷でもないし、最近切った記憶もない。

 そもこんな傷が出来る負傷なんて忘れるはずもないだろうに、どこで付いた傷なんだろうか。


 ……ま、別にいいか。もう塞がってるし、きっとどうでもいいことの積み重ねなのだろう。


 一つ二つ、そして三つ考え。

 やがて至った結論は放置。ちょっと目覚めの遅かった朝で、そんな悠長に考えるだけの時間はないで終結し、洗面所を後にする。


 とっととご飯を食べて、制服に着替えてから、学校に行こう。

 今日は余裕を持って登校したい……ああ、そういえば体育もあったな。体育着を忘れたら、きっとあさひに呆れられてしまう。鞄に詰め込んでいるか、あとで確認しなきゃ──。



「あ、おはよう。流石にそろそろ起こしに行こうと思っていたんだ」



 どんな冷水で顔を洗おうと、人の眠気なんてのは簡単に拭えないよなと。

 つい出てしまった欠伸にちょっとばかりの自虐を覚えながら、リビングへと入ったときだった。


 そこに座っていて、こちらに振り向いて挨拶してきたのは、見慣れた制服姿の黒髪の少女。

 よく手入れされている綺麗な黒の髪に、少し鋭くも優しさのある眼差し。

 あさひ。朝霧(あさぎり)あさひ。幼馴染で初恋の少女が、どうしてか、俺の家のリビングで少し呆れながらこちらを見つめてきた。


「……あさひ? 今日、朝練は?」

「今日はなくなったの。それでせっかくだし、一緒に行こうかなって……迷惑だった?」


 何故だろうか。もしかしたら、まだ今日の悪夢の名残を引き摺っているのか。

 平然といるその姿一つに、無性に懐かしさを覚えてしまいながら問うと、あさひは極々普通に答えてくれる。

 

 別にあさひの言った答えは、指摘するには、何らおかしいものではない。

 うちにあさひがいること、それ自体はさして珍しくもない。

 幼馴染とはいえ、朝っぱらから年頃の女子が家にいるのはどうかと思うが、それでも中学までで随分見慣れた光景。高校に入ってからは数える程度には減ったが、それでもいることもあるだろう。


 ……ならばおかしいのは、やっぱり俺か。

 昨日の告白のせいだろうか。……いや、何かが違う。もっと大事な、大きな、衝撃的な何かが──。

 

「あらあら、羨ましいくらいの青春ねえ」

「うっさい、茶化すな」

「ほんとに反抗期ね。あ、信司(しんじ)はとっとと朝ご飯食べちゃってよ。このギリギリの時間の洗い物、本当に面倒なのよね。嫌になっちゃうわ」


 つい立ち尽くしてしまっていたそんな俺に、良いものを見たとばかりに茶化してくる母。

 相変わらずうざいと思ってしまうのは、きっと反抗期ではなく母側の問題だろうと。

 大きなため息をついてしまってからキッチンに足を運び、用意された朝食を温め直したり準備していく。


 茶碗一杯の白米と好みのふりかけ。

 味噌と豆腐だけの、一番シンプルで趣のある味噌汁。

 納豆……は嫌いではないけれど、今日はあさひがいるから、気持ち的になしで。


 栄養配分なんて欠片も気にしない、朝にお腹を満たすためだけの簡易な食事。

 変に凝ったメニューよりも、ある意味では最も幸せとさえ思えてしまう、そんな品々を気持ち急いで食べ進めていく。


 気持ちなのは、本当にかっ込むと、目の前にいるあさひに怒られてしまうから。

 昨日告白した矢先に好感度を下げてしまい、あまつさえそれがフラれるきっかけにでもなってしまえば、それこそ俺は後悔を引き摺った一生を送ることになるだろう。


 ……あれ、どうしてだろう。

 同じようなことを、ついこの前にも考えた気がする。告白したのは昨日なのだから、そんなことあるわけがないのに。


「どうしたの? 遅刻しちゃいそうだから、私よりご飯に集中して欲しいな」

「あ、ああ、ごめん。何でもない」

「そう。……ふふっ、変な信司(しんじ)だね」


 言葉に出来ない程度の違和感に呆けてしまっていると、案の定あさひに突っ込まれてしまう。

 

 どこか呆れたようで、けれど微笑ましげな、そんないつもと変わらぬあさひ。

 ……なのに、どうしてだろう。

 やっぱり何かが違うと心はざわついてしまう。例えるなら、自分の宝物がまったく同じ物とすり替えられているみたいな、言語化しようのない小さな違和感。


 まるでその微笑みが。

 まるでその声や言葉が。


 目の前の朝霧あさひが、朝霧あさひに似た何かでしかないのだと。

 そんな確証は疎か根拠さえない、グロテスク極まりない思考は、一瞬だけ過ぎってしまった。


 ……何を馬鹿なことを。あさひがあさひでないのなら、目の前のあさひは何なんだって話だ。

 やっぱり、まだ目が覚めてないんだろう。あとで顔をもう一回洗えば、少しはマシになるだろうか。


「ねえ信司(しんじ)、手を繋がない?」

「えっ」

「今、繋ぎたいの。……駄目?」


 けれどそんな漠然とした疑念は、所詮はただの疑惑でしかなくて。

 勘違いだろうと食べ終えて、準備して、それから二人で家を出て、駅までの道を横に並んで歩く最中。

 あさひがこちらを真っ直ぐ見上げ、周囲の人目を気にすることもなく、不意にそんな頼みをしてきた。

 

 駄目じゃない。

 思考よりも先にそれが口に出そうになったが、すんでの所で留まる──いや、留まってしまう。


 おかしいと。何かがおかしいと、そう感じてしまう。

 あさひがこんな提案をしてくることに、ではない。

 あさひが昨日の夜に行った告白の答えを出さないまま、思わせぶりな態度をしてきたことにだ。

 

 朝霧あさひが誠実な女なのは、恐らく家族以外でもっとも近く長く見てきたから知っている。

 そんな朝霧あさひが、こんな真似をするのだろうか。

 こんな誤解を招きそうなどっちつかずな行動を、人目も憚ることなく、本当にしてくるのだろうか。


「……そういうのは、答えを聞いたあとにしたいな」


 刹那の間に考えて、考えて考えて考えて。

 頭が熱くなるほど悩んだ挙げ句、首を横に振り、急かすように一足先へと小走りしてしまう。


 懸想している少女からの魅力的な提案を拒否して、湧いたのは後悔──ではなく、安心。

 ただ何かを間違えなかったという、酷く漠然とした、曖昧な感傷だった。

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